
第一話
(一)
道側の一面がガラス張りになった自動車ディーラーのショールームから漏れる明るい照明が、そのまま歩道を照らしている。夜の闇が訪れて久しい時間にまぶしく光を放つショールームとは裏腹に、客の影がない店内の空気は寒々としていた。
決算月を迎えてもなお、未だノルマを達成できずにいる営業マン達は、一人として席に戻っては来ない。そんな営業マンの一人、如月聖志は店内の状況にさっと目を通し、こわばった面もちで奥にある部長席の前に足を向けた。
営業の現場一筋のたたき上げで、仕事には厳しいがそれ以上に自分自身に厳しい為に営業マン達に不平を漏らす隙を与えない部長がじろりと聖志の顔を見据えた。
「どうした? 日報を出すのはまだ早いんじゃないか?」
怪訝そうな部長の前に、聖志は「これを……」とかすれた声で辞表と表に書いた封筒を差し出した。台詞はいろいろと考えてあったが、いざとなるとまったく言葉にならない。
部長はさほど驚きの表情を見せなかった。声を荒げるでなく、落ち着いた手つきで封筒から便せんを取り出し、文面に目を通していく。
「――いつかは、こうなるんじゃないかとは、薄々感じていた」
「そうですか。やっぱり判りましたか」
聖志の顔から本来の精悍な面構えが消え、眉尻のさがったどこか情けないものになる。
「こういうものを受け取るのは今回が最初でも、最後でもないだろうからな。一応聞いておくぞ。成績も、そう悪い訳じゃない。待遇もそれなりのはずだが、やはり不満か」
予想と異なる言葉を耳にして、ややとまどった顔をしていた聖志に対し、部長は謎解きをするように言った。
「申し訳ありません。野球以外に取り柄のない自分を今日まで会社に置いていただいたことは、本当に感謝しているんですが……」
聖志はそう答えた。それは本心からの言葉だった。
彼は、野球のグラウンドこそを住処とし、野球に人生を捧げてきた。少なくとも四年前までは。高校三年の春に、甲子園のマウンドにたった経験を持っている。
その右腕から繰り出す切れ味鋭いストレートを買われ、社会人野球の強豪チームを有していた今の会社に誘われたのが六年前のことだ。
もちろん、社会人からプロ野球入りという道をあきらめた訳ではなかった。実際、高校の野球部を退いた時点で、スカウトの影は彼の周辺をちらついていたのだ。
身長百七十六センチ、体重七十二キロと、体格的に恵まれていなかったのが、プロからの誘いがなかった原因だと、聖志は考えていた。だが、身長ばかりは自分の意のままにはならない。それでも、実績さえ積めば声がかからないとは言い切れない、と聖志は自分の速球に自信を持っていた。伝説の大投手・沢村栄治も、雲を衝く大男ではなかったのだ。自慢のストレートに磨きをかけるべく、社会人野球の世界で充分に経験を積むつもりだった。
だが、彼の目論見は二つの大きな誤算から、入部から二年で崩壊する。
一つには、酷使した右肘に故障を抱えてしまったこと。そして、復帰に向けて焦る聖志に追い打ちをかけたのが、野球部の廃部だった。不況の影響はどこも例外ではなく、運動部は経営に貢献していないとして整理の対象になったのだ。
この時点で、聖志は選択を迫られていた。新天地を求めて会社を辞めるか、それとも一社員として会社に残るか、だ。
聖志は悩んだ末に、後者を選んだ。本当ならこの選択肢は無いも同然だったのだが、今の部長に「体育会系の根性を営業部門で見せてもらうのも、小手先の営業技法だけでしのごうとしている若い連中の刺激になる」との声かかりで拾われたのだ。
それから四年。野球部時代は形ばかりの雑用と、申し訳程度の実績目標しか与えられていなかった男が、一転してプロの営業マンとしての険しい道を歩みつづけてきたのだ。
「あと二年もがんばれば、トップクラスの成績も夢じゃあないと思うんだが」
これまでの苦労を脳裏によぎらせていた聖志に、部長は穏やかな言葉で問いかけてきた。
「ありがとうございます」
聖志は素直に礼を言っただけで、言い訳じみた言葉を付け加えなかった。反論も弁解も、今の彼には不要だった。
「決意は固い、か。上司として月並みなことを尋ねるが、これからどうする?」
「ではわたしも月並みにお答えしますが、旅に出ようかと思っています。しばらくゆっくりして、今後のことを考えてみたいと」
部長は小さく笑った。けしてバカにした空気ではなかったが、聖志の胸は痛んだ。
「このご時世、再就職などと言っても簡単なことではない――、というのは充分に考えた上での結論だな?」
「はい。おこがましいのですが、肉体的にも精神的にも、たいていの苦労はおかげさまで経験させていただいたと思っています。生きていくための仕事なら、まあ、なんとかなるんじゃないかと」
「おまえの根性は無神経と同義語なのか?」
呆れたように部長はつぶやいた。だが、表情は柔和なままで、腹を立てた様子はなかった。聖志は返答のしようもなく黙っていた。この四年で身に染みついた愛想笑いだが、この時ばかりは懸命に顔の裏に押し殺していた。つかのま、重い緊張が満ちる。
「また、野球をやるつもりか?」
「肩さえ痛めていなければ、そうしたかったところですけどね」
部長はふうと息をついた。聖志が、自分を納得させようとしても納得させきれないでいる様子を、部長はこの四年の間、じっと見続けていたのだろう。それだけに、いくら成績が上向いていても、この日がくるのを予感していたのかもしれない。
「まあとにかく、大の男が自分で考えて決心したことだ。はっきり言って、君が辞めることが会社にとってどれほどの損失かと問われれば、さほどの事はない。代わりはいくらでもいるのだからな。君の今後の生き方次第で、会社に『もったいないことをした』と言わせられたら上出来だろう」
ここではじめて、部長は口の端をつり上げてにやりとし、蠅を払うような仕草で「行け」と合図した。それはどこまで本心なのかは判らないが、聖志のどこかに残っているかもしれない未練を断ち切る言葉だった。
侮辱ではなくて、叱咤なのだ。聖志は深々と頭を下げた。
「ありがとうございました」
退席する聖志の後ろから、部長の独り言ともつかぬ呟きが漏れた。
「……俺は素直に、おまえがうらやましいよ」
その声を聖志は聞かなかったことにした。真意を確かめる勇気がなかったからだ。
(二)
八月中旬。瀬戸内海の島々を結ぶ汽船の甲板上に、如月聖志の姿があった。部長に聞かれた際に答えた通り、彼は旅をしていた。
独身寮を引き払う際に、家財家具の他、めぼしい品々のほとんどはリサイクルショップにたたき売った。退職理由を部長が取り繕ってくれ、退職金は在籍年数からすればほぼ規定の額を手にすることが出来たとはいえ、到底気楽な気分でいられるものではなかった。
それなりにしていた貯金もあるが、なによりも「滅多なことでは手をつけない」と心に決めて普段使わない貯金口座に手付かずで残していたいた亡父の生命保険金の存在がありがたかった。それらをあわせ、とりあえず二、三年は生活できる程度のまとまったお金が手元に残った。
さすがに母が一人で守っている実家に顔を出せたものではなく、売らなかった品だけを段ボールに詰めて宅急便で送ると、そのまま聖志は部長に公言した通りに旅に出たのだった。
明確な目的地を決めないまま、オフロードタイプのバイクの荷台に寝袋をくくりつけての気ままな一人旅、それは高校を卒業して社会人になる春に二輪の免許を取得して以来の念願だった。まず北へと向かい、雪解け間もない北海道に渡った。そこで一ヶ月ほど過ごし、ゆっくりと北陸を南下する。観光名所などにはあまり足を向けず、気の向くままに時折バイクを停めては、どうということのない景色をぼんやり眺めていたりもした。
近畿地方に入った頃に、ちょうど夏の甲子園大会が始まっていた。
甲子園まで足を延ばすか、聖志は悩んだ末に見送った。聖志の母校・東翔学園が、夏の大会に出場を果たしていたせいもある。監督には社会人野球に進むにあたっても、非常に世話になっている。のこのこと顔を出せるほど、まだ聖志は心の整理がついていなかった。
瀬戸内海に浮かぶ島々が、汽船の甲板から一望できる。いま汽船が舳先を向け、ゆっくりと近づいているのは、阿久津島という名の小さな島だった。
山頂部が平らになった島影をひと目みれば、大きく人間の手が入っていることがみてとれる。島の形が変わるほどに石を切り出しているのだ、と聖志は即座に思い当たった。
というのは、阿久津島は石材の産地としてよく知られているらしい。らしい、というのは、汽船の受付に貼られていた色あせたポスターを見るまで知らなかったからだ。
阿久津島に関わらず、この一人旅では知らないことの発見の連続だった。
もちろん、そのような発見を求めて旅をしているつもりはないのだが、自分がいかに小さな世界で生きてきたのかを思い知らされていた。
昼過ぎに阿久津島の北側にある港についた聖志は、目に付いた食堂に飛び込んで昼食を済ませると、さっそくバイクで島の周囲を一巡りすることにした。
人口千名あまりの小さな島であり、これといった観光名所がある訳でもない。これまでも特にあてもなくぶらりとあちこちと巡っていたので、なにかを期待しての予定ではない。
(いや、やっぱり何かないものかと願っているかな)
そんな他愛も無いことを思いながらバイクを走らせる。
四方を山に囲まれた海のない県で育った聖志にとって、海沿いの景色をみるのは子供のころから非日常な体験だった。それは大人になり、こうして旅を続けていても変わらない。
島は、汽船の甲板から見て想像したよりも急峻な地形だった。平地と呼べる場所は海岸線に沿ったほんの狭い一帯だけで、建物はみな斜面にへばりつくようにして建てられていた。
集落は島の北側から東側にかけて広がっており、標高の高い南側は採石場になっているようだった。すくなくとも、港に掲げられた地図をざっと見た限りはそのはずだった。
聖志の故郷は山国とはいえ盆地であり、田畑が広がる中に民家が点在する形だったから、ただでさえ狭い島の一角に家々が軒を寄せ合う姿にはせせこましさを感じた。
はっきり言って、見栄えのしない島だ。おなじ島なら、南国の孤島のほうがよほど旅情もあり、ロマンチックだろう。
だが、他人の目にどう映ろうと、ここに住む人々にとっては、この島は紛れもなく故郷なのだ。聖志はこの一人旅を通じて、よくもまあこんなところに、と思うようなところにも集落があり、人の営みが続いているのを何度も目にしているから、その事がよく判った。
その時、進行方向にある緑色のネットが張られた一角から、耳になじんだ金属音に続いて歓声が聞こえた。
聖志が半ば反射的に相好を崩す。そこで野球が行われているとすぐに気づいたからだ。
急ぐ旅でもなし、半端に辺鄙な島で行われる野球がどのようなものか興味もあった。
ネットの脇でバイクを止め、観戦することにした。
そこは、山側に鉄筋三階建ての校舎が隣接しているところを見ると、中学か高校のグラウンドのようだった。そう思って眺めると、ネットに『私立冲鷹高校グラウンド』と色あせたプレートが掲げられているのが目に入った。
よくみると、グラウンドは細長く、二段に分かれている。斜面にあるため、一面だけでは充分な広さを確保出来なかったからだろう。野球が行われているのは浜側の下段だった。右翼側は五十メートルあるかないか、左翼側も九十メートルそこそこの広さしかない。
選手達の年齢は中学生ぐらいから大学生ぐらいまでバラバラで、まともなユニフォームを着ている者はまばらだった。
要は草野球だ。と思ってから聖志は今日が日曜日であることに気づく。仕事に追われていた日々から離れ、日にちや曜日の感覚がずいぶんと曖昧になってきている。
それはそうと、先ほどの快音はやはり長打となっていたらしい。二塁ベース上では丸坊主の選手が喜んでいる。彼は数少ないユニフォーム組の一人だった。
ふと、俺も混ぜてもらいたい、という気分になった。殊勲打の選手の笑顔が、聖志の感傷的な気持ちに入り込んできたからかもしれない。
と、フェンス際で右翼手らしき選手がなにごとかごそごそとやっている姿が目に入った。こちらもユニフォームを着ている。何事かとみれば、ボールがネットの破れ目から外に転げ出ていて、無理に腕をつっこんでとろうとしている様子だった。
「大変そうだな」
聖志は口元を覆うヘルメットをかぶったまま、思わず近寄って声をかけてしまう。
「ちょっとボール取ってくれないか?」
右翼手は、いきなり見知らぬ見物人に話しかけられても驚く様子もなく、つっこんだ右手の指先をひくつかせながら頼んできた。ボールと指先との差は五センチほどある。
「なんでこんな状況なのに、バッターは二塁で止まってるんだ?」
しゃがみこんでボールを拾い上げながら、聖志が尋ねる。
「ああ? そりゃ、ここはこんなグラウンドの形だから、フェンス直撃は全部二塁打ってルールなんだよ」
上目づかいで聖志を見た右翼手が答えた。面長の顔は、丸いあごがどことなくヘチマを思わせる。ユニフォームの胸元に、「鮎川」と名前を書いた白い布地を縫いつけてある。みたところ、高校生か。年上に対する言葉遣いではないのは、聖志が余所者であることが判ったからだろうか。小さな島だけに、住民かそうでないかは一目で区別がついて当然だ。
「な、ボールを」
鮎川に催促された聖志だが、少しばかり悪戯っ気が芽生えた。野球の世界から阻害されてしまった自分の姿が、草野球を無邪気に楽しむ彼らに比べて惨めに思えてしまったからかもしれない。
これまでも旅の恥はかきすてとばかり、いろいろと首を突っ込んできている。
ボールを持ったまま、聖志は数歩後ろに下がった。フェンスの高さは野球用に張られている訳ではないのか、せいぜい五メートルほどだ。
「あ、おい」
ボールを持ち逃げでもされると思ったのか、鮎川の声があわて気味なものになる。
それにかまわず、聖志はボールを持った右手を大きく引き、膝を曲げて振りかぶった。天まで届けとばかりに腕を振り抜き、ボールを投げ放つ。
白球は高い弾道を描いてフェンスを軽々と越え、計ったようにマウンド付近へと落ちた。
「すっげ……」
フェンスの穴から手を抜いた鮎川が、ぽかんとした顔で聖志を見ている。
(まあ、一球だけなら肘も痛まないしな)
全盛期なら、マウンドどころか上段のグラウンドにまでボールを届かせることも出来たはずだ。それでも、元甲子園球児としてはこういう子供じみた強肩自慢に対する驚きの声に、悪い気はしなかったがさすがに照れくさかった。
「悪いな。昔を思い出して、いいカッコしてみたくなった」
「兄さん、ひょっとして野球選手?」
「選手というか、高校時代は野球部だった」
そう言い残してそこから立ち去ろうとする。すると、
「あ、ちょっと待ってくれよ。いま、ピッチャーの田岡さんへろへろだろ。代わりに投げてくれないか?」
と、鮎川がとんでもないことを言い出す。
「俺が? ピッチャーはみんなやりたがるだろう、見ず知らずの相手に頼むようなことか」
「いいから、ちょっとだけそこで待ってくれって」
鮎川は内野方向にむけて猛然と駆け出していった。茫洋とした顔に似合わず、なかなかの俊足ぶりだった。
「俺に投げろっていうのか……」
目を細め、その背中を見送りながら聖志がつぶやく。面倒をおそれて逃げ出さなかったのは、野球がやれるという可能性に、どうしようもなく惹かれたからに他ならない。
やがて、内野陣を集めて交渉していたらしい鮎川が、大声を出して聖志を呼んだ。グラウンドへの出入り口を指さして手招く。
「よおし、やってみるか」
聖志はヘルメットを脱ぎ、バイクのハンドルに引っかけた。
「言っておくけど、肘を痛めてるから長いイニングは無理だぞ」
「問題ない。どっちにしろこの回で終わりだから。というか、野球で肘を痛めるなんて、本格的だな」
聖志にグラブとボールを渡し、一塁側のネットにかけられたスコアボードに顎をしゃくりながら応じたのは、先ほどの右翼手が田岡さんと呼んだピッチャーだった。
両チームの顔ぶれのなかでもおそらく最年長クラスだろう。といっても、聖志とはほぼ同年代のように見えた。
スコアボードは、激しい乱打戦の有様を如実に物語る内容が刻まれていた。両チームとも九点ずつ奪っている。後攻である田岡たちのチームはさきほどの二塁打で二点を奪われ、同点に追いつかれたところだった。
「本当に、部外者が飛び入りしていいのか」
「もう、投げたがるヤツはだいたい投げた後だ。あと二人だけ押さえてくれればいいんだ」
しょせんは草野球だ。聖志は苦笑しながらマウンドに向かい、改めて久々の感触となるボールを手に、投球練習を始める。
山なりのキャッチボールから、次第に肩と肘をならしていく。痛みが出ないことを祈りながら、少しずつ力をいれていく。やがて、ウォーミングアップを終わろうかというところで、キャッチャーが悲鳴をあげた。
「くあー、こりゃ捕れねぇ。秋上! おまえ来い。おまえだったら捕れるだろ!」
二十歳前後とおぼしきキャッチャーが呼んだのは、あきれた事に相手側の選手だった。
「先輩、まあ捕れっていうんだったら捕りますけどね」
さすがに苦笑しながら、秋上と呼ばれた相手チームの選手が三塁側ベンチ、といっても折り畳み式のパイプ椅子をいくつかおいただけの場所から駆け寄ってくる。さきほどの鮎川と同じく、白い練習用ユニフォームを着ている。いかつい風貌ではあるが、秋上のほうが年下らしく、先輩命令には逆らえない様子だった。
「その代わり、ウチは沖野を呼んで来ますよ?」
使い古しでぐにゃぐにゃと頼りないプロテクターを胸に装着しながら、秋上が挑戦的な目をキャッチャーに向ける。
「沖野? ああ、しゃあねえだろ」
キャッチャーも、面倒くさそうにうなずいた。
「それじゃ。おーい、倉田ぁ、ちょっと走って沖野を呼んできてくれ!」
三塁側にそう声を掛けてから、レガースをつけた秋上はどたどたと聖志のいるマウンドまで駆けのぼってきた。
「なかなか速いタマですね。お互いに妙なことになりましたが、よろしくお願いしますよ」
秋上がそう話しかけてくる。上背があり、がっちりした体格に似合わず、その表情はきまじめな性格を伺わせた。
「こちらこそ。サインとかどうする? 一応敵同士ってことになるわけだし」
「えーと……」
「ああ、名前か。俺は如月」
「秋上です。それで如月さん、変化球とか投げられます?」
「ん? ストレートだけでなんとかなるだろ。ノーサインで変化球は危ないからな」
「へぇ」
秋上の目に驚きともつかぬ不思議な光が走った。
「悪い、バカにした訳じゃないんだ」
「いいっすよ。確かにここで変化球まで投げられると、ウチの下位打線には手が出そうもない。じゃ、サインなしでこっちは適当に構えますんで」
秋上が小走りにキャッチャーズボックスに戻る。聖志は二度、三度と屈伸をして、じわじわとわき上がってくる興奮を鎮めていた。
これまでの人生で、イヤと言うほどマウンドからボールを投げてきた。肘を痛め、一度は野球から足を洗った。
草野球にさえ参加しなかったのは、肘の故障を気遣ってのことだったか、それともプロ野球を目指した男が敢えて低いレベルに甘んじるのを潔しとしなかったからか。それらの苦い過去を、今は忘れた。
「そろそろはじめようぜ」
左打席に入った、秋上に劣らぬ大柄なバッターが、打ち気満々で金属バットを立てて構えていた。専門の審判役もおらず、お互いのチームの選手達が交互に行っているので、バッターの声が試合再開の合図だった。
秋上はミットをど真ん中に構えている。
聖志はセットポジションから、ちらりと二塁ベース上のランナーに目を向ける。胸元に「深田」と書いた白いユニフォーム姿のランナーは、のっそりとした動きでリードをとっていた。キャッチャーの秋上や今のバッターも体格はいいが、上背だけならこの深田のほうが上だろう。ただ、あまり機敏そうな印象は感じられない。
無防備なリードに、牽制球を投げたくなるが、二塁手、遊撃手のどちらがカバーに入るのかも打ち合わせていない。センター方向にボールが抜けていく光景が容易に想像できた。
(まあ、いきなりじゃ無理だろうな)
そうあきらめて、バッターに向き直る。
ゆっくりと左膝を蹴り上げた。まっすぐホームベース方向に足を踏み込みながら、腰の回転、肩の振り、肘のしなり、手首のスナップへと、指先から放たれるボールにすべての運動エネルギーが収束し、炸裂する。
人差し指と中指が乾いた音を立ててボールをはじき出す。白い残像を曳きながら、ボールは秋上の構えたミットのど真ん中へと突き刺さった。
バッターは球の勢いに惑わされたかのように、秋上のミットにボールが収まってからバットを泳がせながら振っていた。
「柴橋、思いっきり振り遅れてるぞ!」
両チームのベンチから、一斉にヤジと激励が飛ぶ。
全盛時にはほど遠い球ながら、久々の感触に聖志は心地よい手応えを味わっていた。
結局、聖志が打者二人に対して要したのは八球。バットにかすらせることなく三振に討ち取っていた。物足りなくはあったが、予想もしない飛び入り参加では上出来だろう。
「楽しかった。本当に久しぶりだったからな」
「その割にはすげぇ球を投げるなぁ。百三十は余裕で出てるんじゃないか」
田岡がしきりに感心してうなずく。
「けど、沖野のほうがまだ速いと思いますよ」
秋上が口を挟んでくる。初めて目にした聖志の球を一度も後逸しなかったキャッチャーの言葉ではあるが、聖志はわずかに反発心を覚える。
(俺だって全力で投げていた訳じゃないし、ブランクが長すぎる……)
「まあ、沖野の本気がどれぐらいかは誰もしらんからなぁ」
田岡も首を傾げながらそんな言葉をつぶやく。
やがて、沖野を呼びに行っていた、倉田と呼ばれていた童顔の選手が走って戻ってきた。
「早くしろって!」
倉田が後ろから付いてきているらしい沖野に向けて、焦れた声をあげる。
「判ってるよー、倉田くん」
間延びした口調で校舎の陰から姿を見せたのは、長い黒髪の、ノースリーブの白いワンピースを着た少女だった。ワンピースの裾は長く、くるぶしの上ぐらいまでかかっている。
誰かの妹が応援にでも来たのだろうかと思って聖志が見ていると、秋上がその少女の元に向かって駆け出していく。
「なあ、もしかして、さっきから言っていた沖野って」
「ああ、あのコだよ。沖野かもめって名前だ」
田岡の説明に、聖志は思わず鼻を鳴らす。
「冗談みたいな変わった名前だなあ」
「確かに。変わってるのは名前だけじゃないが……。しっかし、今日もまた野球をやる格好してないなあ。ま、急に呼び出したし、仕方ないか」
田岡が頭をかいている。聖志は腕を組んで首をひねるばかりだ。
「あんまり楽しそうなシチュエーションじゃないですねー」
とぼけた沖野かもめの声が聞こえてくる。それでもグローブを受け取り、右足を引きずるような妙な足取りでマウンドへと向かっていく。その足元に目を向けた聖志が眉間にしわを寄せる。
「おいおい。サンダル履きのままでいいのかよ」
「いいんだ。あのコは特別だから」
なにが特別なのかを聖志が聞き返す前に、かもめが秋上を相手に投球練習をはじめた。
上体を一塁側に傾け、ほとんど真上に近い位置から腕を振り下ろし、ミットめがけて投げ込む。特異な投球フォームだった。
アンダースローの真逆、言ってみれば本物のオーバースローということになるのだろう。
足をほとんど蹴り上げることなく、上体の力、それも腕の振りだけで投じる。いわゆる女の子投げのようにも見えたが、そこから放たれる球には信じがたい力が宿っていた。
秋上の構えるミットが重い音を立てる。
「速いな。どういう仕組みになってるのかさっぱり判らないが、速い」
聖志はうなった。全盛時の自分の球にも見劣りしない球威を持っている、と思った。秋上が聖志の速球を苦にせず捕れた理由が理解できた。
見ようによっては、メジャーリーガーなどでも時折見かけるような、上体の力だけで投げるピッチャーのフォームに見えなくもない。
だがあれは、日本人に比べて恵まれた体格と、強靱な筋力があってこそだ。華奢な少女のフォームと同一視できるものではない。
しかし、いくら理屈で否定しようとも、目の前の現実は受け入れざるを得ない。
ただし、お世辞にもコントロールがいいとは言えなかった。球は上下左右に大きく逸れ、十球のうち二球はワンバウンドしたほどだ。それを慣れた手さばきで処理する秋上の技量はなかなかのものだった。
「そろそろいいですよー」
マウンドから、かもめがとぼけた声をあげる。
「あ、せっかくだから俺、審判やろうか」
聖志は田岡にそう申し出る。好きこのんで荒れ球の速球に身を晒す危険は誰も犯したくないらしく、あっさりと承諾を得られた。別に人助けのつもりで審判役を買って出た訳ではない。どうせなら彼女の球筋を間近で見ておきたかったのだ。
「今日こそなんとかしなきゃあな」
と言いながら最初に打席に入ってきたのは、右翼手の鮎川だった。右打席に入り、バットを短く持って、コンパクトな構えで相対する。
しかし、結果は三振。かもめの球はストレート一本槍ながら、鮎川はタイミングが全くあっていない。じっくり球筋を見極めれば、ストライクゾーンから大きく外れている球にも手を出しているのだが、打ち気にはやっている鮎川には判らなかったようだ。
つづくバッターもフルカウントまで持ち込んだものの、最後にど真ん中のストレートに手が出ずに三振に倒れた。
「今のはいい球だった」
ストライクをコールしたあと、聖志が思わず秋上にそう話しかけてしまったほどだ。
「で、ツーアウトだけど、次のバッターは?」
聖志は一塁側に向けてそう呼びかける。一縷側ベンチの選手達が顔を見合わせる。
「えーと、あ、田岡さんの後だから如月さんですよ」
振り返った秋上が言った。
「俺? 代打は」
「せっかくだからそのまま打っちゃっていいよ」
田岡が右手の指でOKサインを作りながら金属バットを持って歩いてくる。せっかくだから、という言葉には、どうせ誰が打席に入っても打てない、というニュアンスが込められている事は明らかだった。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
田岡から金属バットを受け取り、聖志は右打席におかれたヘルメットをかぶった。使い回しをするためか、ややサイズが大きいが、かもめの荒れ球を目にしているだけに、かぶらない訳にもいかない。
田岡がそのまま審判の位置につく。
前の打者二人に投じた球筋は、聖志の脳裏に焼き付いている。
確かに速いが、うち崩せない球ではない。そう自らに言い聞かせる。バットを膝の上におくような形で二度、三度と屈伸し、グリップを耳の後ろに引く高い構えで相対する。
社会人時代はともかくとして、高校時代はクリーンアップか、悪くても六番を打っていた。打撃は決して苦手でも嫌いでもない。
田岡が試合再開を宣言した。
かもめが、見ようによってはなげ遣りにさえ感じるフォームから初球を投じる。聖志の目の高さを通過する高めのボール球だ。聖志はバットを全く動かさずにこれを見送った。
二球目は、気負ったのかワンバウンドになった。ホームベース二メートル手前でグラウンドが小さく爆発したように土片が四方に飛び散る。
ぐっ、と小さなうめきがもれたのは、秋上がこのボールを身体で止めたからだろう。おせじにも上等とは言えないプロテクターではかなり堪えたはずだが、何事もなかったようにボールを返球している。
「ゾーンに入ってこないんじゃ、せっかくの速球も宝の持ち腐れだよな」
バットをワッグルさせながら聖志は呟く。
やはり、下半身のふんばりを利かせない投球フォームが原因だろう。あんなめちゃくちゃな投げかたでこれだけの球を投げられるのなら、まともなフォームを身につければどれだけの速球が観られるのだろうか。
聖志はそんなことを考える。こんな小さな島で埋もれさせるのではなく、どこかの強豪野球部に入れてやったら、恐ろしいまでの素質を開花させるかもしれない。
自分に対して向けられた夢想を知るはずもないかもめが第三球を投げ込んでくる。今度は外角低めいっぱいに決まる。
「いい球だなあ。時々これがくるから怖い」
もちろん、きっちりとコントロールされた球ではなく、偶然そこに飛び込んできただけだ。これを意図して投げられるようになれば、本当に甲子園級のピッチャーになれる。
四球目、高めながらストライクに入る。
これまで微動だにしなかった聖志のバットが一閃する。が、金属バットばボールの下腹を削るようにかすめただけだった。打球は真後ろに飛び、申し訳程度に設置されたバックネットの金網を直撃した。
おお、と一塁側からどよめきが起こった。跳ね返って戻ってきた球を拾い上げた秋上の顔がこわばっている。秋上から投げ返されたボールを受け取ったかもめも首を傾げている。
「おいおい、ファールぐらいでそう驚かれちゃあな」
「初打席で沖野の球をバットにあてたのは、たぶん如月さんが最初ですよ」
秋上がぼそりと言った。
「そりゃどうも。じゃあ、次は初ヒットといくか」
バットの軌道を確かめるようにゆっくりと素振りをしながら聖志は応える。手にしびれが走っていることは顔には出さない。
(球の伸びが予想以上だった。高めは思ったよりもホップしてくる)
五球目。身体を仰け反らせるかもめの投球フォームが、これまでよりも力の入ったものになった。だが、その為にまたしてもワンバウンドになる。
「腕の力だけで投げようとするからだよ。力で投げるんじゃなくて、振りで投げるんだ。しっかり右足を蹴り上げて、前に踏み込まなきゃ、コントロールが安定しない」
思わずバットを左手に持って、右腕を振り抜く動作をしてみせる。マウンド上でかもめが顔を赤くしていた。頬を膨らませているところをみると、恥ずかしいというよりも腹を立てているのだろう。
「知りませんよ、そんなこと言って」と、秋上。
「せっかくの機会だからな。フォアボールじゃもったいないだろ」
だが、次にかもめが起こした行動は聖志にとって意外なものだった。
「そんな事言われたって、出来ることと出来ないことがあるんですよ!」
そう、彼女は叫んだのだ。
「どうしてだよ。身体全体で投げるのが、どうして無理なんだ」
聖志がそう言い返した瞬間、他の選手達に気まずい空気が流れた。聖志だけがその理由を理解できない。
「言ったってわかんないんだったら、見せてあげます!」
「沖野! やめとけ」
秋上が声を挙げたが、それより早く、かもめは右手でワンピースのスカートの裾をつまみ、膝下あたりまでたくしあげた。
「くっ……」
聖志は思わずあげかけた声を、反射的に歯を食いしばってこらえていた。確かに自分の目で確かめてみれば、かもめが上体の力でしか投げられない理由はすぐに判った。
彼女の左足は、膝から下が金属のフレームで出来た義足だったのだ。
失われた左足をカバーするために、残る右足と両腕が鍛えられたのだろうか。もっとも、身体障害者の誰もが超人になれるはずもない。もって生まれた資質あっての奇跡だ。
「気が済みましたか? だったら、続きをやりましょう」
驚きとも感動ともつかぬ思いにとらわれ、言い訳の言葉も思いつかない聖志を突き放すように、かもめは醒めた口調で言い放ち、六球目を投じるモーションを起こした。
仕方なく、聖志もバットを構える。動揺を無理矢理ねじ伏せ、ボールの軌道に集中する。
かもめは小さく振りかぶり、すり足のように小さくあげた足を踏み込み、胸を張った上体から腕を真下に振りおろした。
その指先から放たれたボールは、高さこそストライクゾーンだったが、球離れのタイミングがおかしかったのか、まっすぐ右打席の聖志めがけて向かってくる。
「わ。くそっ!」
左足を踏み込んでスイングの体勢に入っていた聖志は、反射神経だけで身体を逆向きにひねっていた。普通ならのけぞってかわそうとするところを、反対に前に倒れ込むようにして背中を向けたのだ。もっとも、倒れ込むより前にボールが打席に到達していた。聖志の左肩胛骨の下あたりにボールがめり込んだ。
情けない悲鳴をあげて、聖志はその場にうずくまってしまった。
第二話に続く
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