
第六話
(二十)
練習試合が行われたのはそれから二週間後の日曜日だった。
聖志は前もって部員達に二軍相手かも知れないと説明をしていたのだが、当の三浦高野球部の対応は予想に反したものだった。
すなわち、スタメンに名を連ねたのが、今年の春の選抜で甲子園の土を踏んだレギュラーばかりだったのである。
「どうやら、本気で相手してくれるらしいぞ」
戸惑い半分、喜び半分で聖志は選手達に言った。望むところだと喜色を浮かべる者もいれば、やっかいなことになったと顔をしかめる者もいて、反応は様々だ。
意気込みはともかく、はっきりいって、勝負にならないだろう。しかし、今はそれでいい。高いレベルを目の当たりにして、自分たちになにが足りないかを学べれば、練習試合の意味はある。聖志は言葉には出さないが、内心ではそう思っていた。
選手達は、強豪相手の試合に緊張したり敵意をむき出しにしたりする前に、立派な設備に目を丸くしている。
三浦高の専用グラウンドの外野には芝生が敷き詰められ、両軍ベンチにはきちんと屋根のあるダグアウトが完備されている。ファウルグラウンドは広く、しっかりした骨組みのバックネットから、電柱のようなコンクリート製の丸い柱が建ち並び、グラウンドの四方に高々とネットが張り巡らされている。さらに、一塁側だけではあるが観客席すら設置されている。
見上げてみれば、実際、客がまばらに席に陣取っている。生徒や、関係者なのか大人の姿もそこには見える。
「やっぱすげーな」
選手達が物珍しげにきょろきょろと見回す姿はなんとも恥ずかしいのだが、聖志はそれを叱りつける気にもなれなかった。
同じ高校生、同じ野球部、それなのにこの違いはなんだというのだ。腕を組んで、憮然となる。聖志自身が高校時代、むしろこちら側の野球部に籍を置いていただけに、あまり深く考えたことのない現実だった。
三浦高の選手達が先に練習をはじめる。
「グラウンドよりも、相手の選手達の動きをよく見ておけよ。はっきり言って、今日は勝つことよりも、相手を手本にしてなにを学んで帰るかが大事なんだからな」
緊張する選手をリラックスさせるつもりの言葉、ではなかった。聖志にとっては本心からの指示だった。
練習試合に勝とうとすることだけがすべてではないのだ、と監督を任されてはじめて判ってきた。それを選手達に理解させるのは簡単ではないが。
いや、一番理解できていなかったのは自分たちの未熟さを実感している選手達よりもむしろ、牛尾だったかも知れない。
「そういう弱気では困りますよ。練習試合を申し入れた私の立場がありません。やるからには、勝つ気で頼みます」
語調はそれほど鋭いものではないが、彼女は真剣そのものだ。勝てるはずもないことを判っていながらプレッシャーを掛けるような台詞を、どうして選手達の前で口に出来るのだろう。
聖志は怒るより前に呆れて、マウンドに立つ相手チームのエースに目を向けたまま、ええ、とだけ小さく答えた。
立派な体格の選手達が、きびきびとした動きでグランドを駆け回る様には、内心気圧される感がなくもない。さすがは甲子園常連高だというところだ。
なかでも先発してくるであろうエース・立花がみせる、マウンド上での堂々とした姿には華があった。強豪高の背番号一をつける自負が、一見すると優男風の面立ちに凄みを与えている。
「かっこいいねぇ」「ホント」
などとかもめと秀美が騒ぐのも判らないではなかった。
だが、よりレベルの高い社会人野球に在籍し、いずれはプロに、との野望を抱いていた聖志の目には、決して完璧なものとしては映らなかった。付け入る隙は、かならずどこかにあるものだ。
とはいえ、それはわずかな練習時間を横で見ているだけで見抜けるほどにあからさまなものではない。試合を通じてでなければ判らないものだ。
結局、相手は本気で一軍クラスの選手を押し立ててくるのだ、ということを自分たちの目で確認するだけに終わった。
続いて冲鷹高の練習時間となる。
義足の選手、それも女子部員であるかもめがエースナンバーをつけてマウンドに立つことを、聖志は三浦高の監督に伝えていない。
もっとも、もしかしたら野球部長がなにか話をしているかもしれない。練習試合を組むにあたって、かもめのハンディをお涙頂戴な物語に仕立て上げて滔々と語った可能性はある。この野球部長ならやりかねない。
(決め台詞は、圧倒的大差で勝っていただいて結構、それが私たちにとっての最大の経験となりますから、てなところか)
意地悪く内心でつぶやく。かもめの義足がどうこうというよりも、その球を見せびらかす真似はしたくない。体力の温存をはかる意味もあり、肩慣らしのための軽めのウォーミングアップを秋上相手に行わせる。
その代わりの打撃投手役を、いつもの練習時と同じく聖志が自ら買って出る。
ただ打ち頃のボールを漫然と投げ込むような真似はしない。あくまでも実戦に近い投げ分けをしてみせ、選手達の感覚をとぎすまさせる事に意識を払う。だから、打撃練習でありながら空振りが連続して、打球が前に飛ばないままに終わることもある。聖志はそれでいいと思っている。
もちろん、選手達にとってはそれは恥だ。今日は特に、相手チームの視線を感じている。目の色を変えて立ち向かってくる。
懐かしい感覚。まるで自分が先発のマウンドに向かうかのような静かな興奮が身を包む。
(こういうところは、まだダメだな)
聖志は小さな含み笑いを自分に向けた。まだまだ監督としての気構えが出来ていない。
選手全員に打撃練習の機会を与えた後、聖志はグラウンドの一番高い場所に立つ権利をかもめに譲る。
やがて冲鷹高の練習時間が終わり、グラウンドを整備した後、試合がはじまる。
(二十一)
秋上が主将同士のじゃんけんに勝ち、冲鷹高は後攻をとった。
一回表のマウンドに登ったかもめは、緊張のためか頬が紅潮していた。三浦高の一番バッターが打席に入り、足元を均す間さえ待ちきれない様子で、右足一本に体重を掛けてその場で跳ねるいつもの癖をみせていた。
やがて、一番バッターがバットを構える。かもめは振りかぶり、真上から腕を振り抜くフォームで初球を投じる。
鋭いストレートが真ん中高めに飛び込んだ。一番バッターはバットを立てたまま、これを見送る。予想より遙かに速い球に手が出なかったという風だが、さすがに強豪校のトップバッターは、あからさまに動揺するそぶりなどはみせない。
「危ないな。ホームランコースだったぞ」
「高めに浮きましたね」
秋上のグラブがもっと下に構えられていたのはベンチからも見えているだけに、スコアブックを抱える秀美も心配顔だ。
マウンド上のかもめは、コントロールミスを気にする様子もなく、小さなモーションから二球目を投じた。やはりストレート。速い球がストライクゾーンを貫く。
このまま押していけるのではと思ったのもつかのま、三球目をバットに捉えられた。
打球は低い弾道で伸び、左中間を破った。
スライディングする必要もなく、一番バッターは悠々と二塁に達した。
二番バッターは、初球からバントを仕掛けてきた。ボールは三塁線に転がる。ある程度予測していたサード・深田がダッシュしてこれを拾い上げるが、三塁のカバーは誰も入れない。それが判っている深田は、三塁を見向きもせずにボールを一塁に送る。
三番打者には、初球を打球を高々とセンター方向に打ち上げられた。持友が落下点に入り、これを捕る。それを見届けタッチアップで軽々と本塁を踏む。
「やられちゃいましたね」
秀美はさすがにがっかりしている。もちろん、聖志も気持ちは同じだが、監督としてはあまり落胆した表情はみせられない。
「まあ、勝負はこれからだ」
その呟きは、半ば自分に向けられたものだ。
ツーアウトでランナーがなくなり、気持ちを入れ直してバッターに立ち向かおうとするのもつかの間、四番打者に一塁線を破られる痛打を食らった。
五番打者をどうにか三振にしとめたが、ベンチに戻ってくるかもめの顔は強張っていた。
その後も、かもめは毎回のようにランナーを背負い、二回に二点、三回に一点、四回に三点失点を重ねた。それでも選手達は集中力を切らず、がんばり続けている。
現役時代、このような一方的な負け試合を経験したことのない聖志には、正直、選手達の粘りには頭の下がる思いだった。
気合いや精神力の通じる相手ではなく、三浦高の五回表の攻撃が終わった時には、九対〇と大差をつけられていた。
対して、三浦高の先発・立花の出来はすばらしかった。速球の最高速度こそかもめの球に比べると見劣りがしたが、それ以外の制球やマウンド度胸といった要素では貫禄勝ちといったところだった。
冲鷹高の打撃陣も、手も足も出ないという訳ではなく、時折鋭い当たりを放ち、出塁することもあるのだが、連打を許さない立花のピッチングの前に後続が続かないのだ。
三浦高の監督が、守備位置に散っていく部員を自陣のベンチから送り出した後、聖志の元にやってきた。
「申しあげにくいことですが、試合前に取り決めた時間が迫っております。この回の攻撃で、最終回とするのはいかがでしょうか」
試合時間は、島と街を結ぶ汽船の時間から逆算して取り決めてあった。本来、練習試合は一日に二試合行うのが通例だが、ただの練習試合で一泊する資金的な余裕はなかった。
親子に近いほどに歳が上の三浦高監督だが、聖志に対しては同じ監督としての立場からか、丁寧な口調だった。苦労人風の面立ちをみても、その言葉に嘘はないだろう。むしろ、あからさまな物言いを控える配慮が感じられた。
聖志は形ばかりは時計を確認する仕草をしてみせたが、素直に感謝していた。
「致し方ないところですね。判りました」
「それでは、お願いします」
一礼してから去っていく三浦高監督を見送ってから、聖志は何事か言いたげな選手達の顔を改めて見回した。
「そういうことだ。時間切れ以前に、コールド負け同然の点差だから文句はないだろう」
「頭じゃ判ってますが、せめて一点は返したいもんです」
憮然とした顔つきで、この回の先頭打者となる秋上が言った。他の選手達も同感と言いたげにうなずいている。聖志はその向こう気が嬉しかった。時間さえあれば、充分に鍛え上げてどこに出しても恥ずかしくないチームに育ててみせるのだが、という思いが頭をよぎったほどだ。
「その意気だ。なんとか食らいついてやれ」
秋上達の闘志はある程度報われた。三塁線を破るヒットを放って出塁した秋上は、進塁打を重ねて三塁まですすみ、七番・持友のセンター前ヒットで一点を返し、意地をみせたのだ。しかし、それ以上の追加点は果たせず、結局九対一で練習試合は終わった。
(二十二)
帰りの汽船。
聖志は、西日が射し込む前甲板に出て、瀬戸内海の景色を眺めていた。山育ちの彼にとって、いまだに海は日常の一部ではなく、可能な限り眺めておくべき非日常の風景だった。
しかし、端から見れば傷心を癒しているようにみえても不思議ではないだろう。事実、表情は情けないものになっている。
予想はしていたが、部員達は気の毒なほどに意気消沈していた。正直なところ、どう励ましていいのか、と途方に暮れてしまったほうが気楽な気がした。
「やっぱり全然歯が立ちませんでした」
船内にいたはずの秋上が、鮎川と一緒にいつの間にかやってきていた。
「あと一ヶ月ほどで予選ですよ。間に合いますかねぇ」
手すりにもたれた鮎川は頭を抱えている。
「たしかに、まだ覚えなきゃいけないことはたくさんある」
そう応えながらも、聖志は次の手をどうすべきか、考えを懸命に巡らせていた。
グラブさばきや放たれた打球の伸びなど、個々の要素は決して低いレベルではない。しかし、チーム全体としてみれば、雲泥の差という現実が大きく横たわっている。
「カントク。わたし」
声のしたほうに目をやると、かもめが上目遣いで何事か言いたげな顔をしていた。その後ろには、他の部員もやってきていた。
皆、聖志の言葉を期待する顔をしていた。
「心配するな。沖野が全部の責任をとらなきゃならない訳じゃない」
「でも、九点も取られて」
「球の速さなら向こうの立花より、沖野のほうが速かったと思いました。速いだけじゃだめなんですかね」
横から秋上も口を挟む。
「球のキレとか伸びとかいうのは、球に充分な回転がかかって、空気抵抗を減らして進む時に、球は減速が少ないときの状態なんだ。沖野の球は速かったが、伸びがなかった」
「その伸びは、どうやったら出せるんですか」
かもめは自分の右手をじっと見つめる。
「手首を使って指先でボールを弾く感覚を身につけるのが大切だな。というか、これまでは出来ていたんだ。前に、ボールをツブすイメージってのは話をしたよな。フォアボールを恐れて、ストライクゾーンを意識しすぎてる。そのくせ、無理に球の威力を高めようと力んで、身体に上下の動きが出ている。いままで手の力だけで投げていたのを、身体全体で投げようとしている反動だな」
「どうして、それを試合中に教えてくれなかったんですか」
かもめは、非難がましい目で聖志をみる。
「せっかくの練習試合だ。課題を見つけだすことのほうが目先の勝敗より大事だよ。制球力は、球を置きに行くんじゃなく、軸足をぐらつかせないフォームで投げることを頭においてなきゃならない。手首の使い方も」
「はい」そう素直に答えたかもめは、わずかに固かった表情をゆるめる。「それにしても、疲れました」
「基本的に、疲れない投球フォームというのは無い。それを頭に置いてなきゃ、楽なほうへと逃げようとする気持ちに負けてしまうんだ」
身体の切り返しのがんばりが利かないと、そのぶん開きが早くなる、肘の位置がさがり、腕の振りが鈍る。身振りを交えて聖志は説明する。
「でも、力んじゃだめなんですよね……。難しいです。わたしも、立花さんみたいになれるんでしょうか」
同い年にもかかわらず、かもめが立花をさん付けで呼んでいるのは、それだけ相手の空気に圧倒されているからかもしれない。
「さっきも言ったが、沖野一人が全部を抱え込む必要はない。バックのカバーも、少しはあてにしていいんだからな。なあ」
聖志の言葉は、秋上他の選手達に向けたものだ。聖志とかもめのやりとりを聞いていた、半数ほどは任せておけとばかりにうなずき、残り半分は曖昧な笑みを返してきた。
第七話に続く
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