
第七話
(二十三)
三浦高に大敗した練習試合は、部員達に新しい緊張感を与えたようだった。本物のプレイを目の当たりにして、翌日からの練習はこれまで以上の気迫がこもるようになっていた。
もちろん、それは聖志自身にも言えることだった。今まで通り、打撃投手を務め、ノックを行い、可能な限り部員達と同じ練習メニューに参加していたが、気持ちの張りが違っている。
練習試合から一週間後の日曜日。
聖志はレギュラーを守備位置につかせ、実践的な守備練習を行っていた。バント攻撃など、かもめのフィールディングの悪さを衝く攻めに対抗すためのものだった。
うまくいくかどうかは判らないが、相手に対する圧力にはなる。聖志はそう考え、この練習を繰り返させていた。自らバットを握り、実際にバントの球を転がしたり、強打に切り替えた場合の動きなどをこまかくチェックしていく。
特にシフトの名前は決めていなかったが、『アレ』といえば部員達の中ではすぐに通じるようになっていた。
「うまくいきますかね。強打に切り替えられると厳しいかも」
選手達に負けないぐらいに野球知識の習得に熱心な秀美が、もっともらしい事を言って首をひねっている。
「外野はある意味しんどいが、やってもらうしかない。後はかもめの球威を信じるだけだ」
その当のかもめが、敗戦のショックで少し落ち込み気味なのが、聖志の気にかかるところだった。場数を踏んで経験を積むにはあまりにも時間が足りない。次の練習試合の予定もない以上、今度の試合は夏の地区予選ということになりそうだった。それまでになんとか気持ちを立て直してもらうしかない。
「どっちにしろ、これは何度も使える手にはなりませんね」
聖志の思いを知ってか知らずか、秀美は腕を組んでそう呟く。
「そうだな。ここ一番で見せるぐらいだ、と――」
グラウンドに続く坂道から、自動車が砂利道を踏みならす音が聞こえてきた。
よりにもよって、人目につかない秘密基地のようなグラウンドだからこそ心おきなく出来る練習をしているときに、と聖志は舌打ちする。選手達に声をかけ『アレ』のシフトを中止させ、普通の守備練習に切り替える。
登ってきた車が視界に入る。誰の車であるか、聖志は覚えていた。牛尾の車だった。
「監督、お客様がみえられております」
運転席から降りた牛尾が聖志を呼ぶ。
彼女が助手席に載せてきた男は、夏が近いというのに紺の背広の上着を着たままで、雰囲気はやり手のセールスマンか銀行員を思わせた。
(野球用品の売り込みか?)
首を傾げながら、聖志は野球帽をとって会釈する。年の頃四十前後と思しき男は、丁寧かつ慣れた手つきで胸ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を差し出した。
「船場と申します」
そう名乗った船場の名刺には、意外な肩書きがついていた。
「……スカウトさんでしたか」
パッと見だけでは、とても野球関係者のようにはみえない、という言葉をぐっと聖志は飲み込む。去年まで、自分がどんな仕事をしていたかを考えれば当然のことだ。
船場は、聖志のような反応には慣れているのか、動じた様子もない。
「この間の練習試合を観させていただいていたんですよ。といっても、目当ては」
「もちろん、ウチの選手であるはずはないでしょう」
聖志はにやっと笑った。いじけたところではじまらない。大負けした後ではなおさらだ。
「スカウトってのは、常に可能性を意識していないといけませんのでね」
船場は涼しい顔をしていた。
「可能性。ええ、そうですね。まだ鍛え方が足りませんけど、ウチの部員達にもそれは充分にあると思います」
聖志は一塁側ファウルグラウンドに置かれたベンチへと船場を誘い、並んで腰を下ろす。
ちらちらと部員達が船場の姿を気にしている。
「気にする必要はないが、気合い入れていけ!」
笑いを含んだ聖志の声に、守備位置に散った部員ばかりではなく、ファウルグラウンドでトスバッティングに励んでいる一年生までもが「オー」と声をあげて応えた。
スカウトは、直接に高校生の選手とは話をすることは出来ない。野球部を引退してからが勝負となるが、もちろんそれまでぼんやりと待っている訳ではない。監督や部長など、周辺を固めていくのは基本中の基本だ。
だが、それにしても。今の時点でスカウトの目に留まる選手とは誰だろうか。
かもめだろうか。義足で、なにより女子選手という大きな問題を差し引けば、彼女の投げる球をみたスカウトなら、まず一番に候補にあげるだろう。
他にも、秋上や倉田など、光るものを持っている部員は多い。しかし、監督としての欲目もあるし、スカウトが野手に対してどのような基準を持っているかまでは、聖志にも想像の付かない部分が多かった。
「ところで、一度大きな病院で精密検査をされてはいかがですか?」
そう言って、船場は右腕を振って球を投げる動作をしてみせる。
「え?」
考え込んでいたせいで、虚をつかれた格好の聖志は思わず尋ね返していた。
言われてみれば、これまで痛みらしい痛みを感じなかったので意識していなかったことに気づく。滑稽な話だが、それだけ野球部の事が頭の中を占めていたのだろう。
「いえ。腕を痛めて現役をあきらめたにしては、試合前の練習で、実にいい球を投げているのを見ましたものでね」
船場は聖志の瞳の奥をのぞき込みながら笑う。
「そう言われてみれば、違和感がなくなってる気もしますね」
聖志は腕をぐるぐると回しながらつぶやいた。
四年間のブランクが、肘の故障を癒してくれたのか、それともグラウンドづくりの為にスコップを振り回していたのがなんらかのリハビリ効果を生み出していたのか。確かに、一度検査をうけてみる価値はありそうだった。
しかし。ややあって聖志は首を振った。
「ま、気にならない訳じゃないんですが、今はやめておきますよ。下手にドクターストップをかけられてもつまらない。今は、野球部をなんとか形にすることだけを考えておきたいんですよ」
「なるほど。差し出がましいことを申し上げました。では今日のところはこれで失礼させていただきます」
しばらくとりとめのない話をした後、船場は腰を上げた。
それまで少し離れた場所に立っていた牛尾は助手席のドアを甲斐甲斐しくあけたが、船場はそれを笑顔で手を振って断った。
「帰りは乗せていただかなくても結構です。港まで歩いていくことにしましたから」
「え? 結構距離がありますが」
予想外の言葉に、牛尾は怪訝そうな顔をする。船場はどこか照れくさそうに応じる。
「わたしもこの仕事をやる前は野球をやっていたものでね。彼らを見ていると、今の自分の運動不足が嫌になりました。少しぐらいは身体を動かしておかないと」
牛尾が呆気にとられるのにもかまわず、船場は坂道を歩いて降りていった。
(二十四)
その日の練習後。
「カントク、さっき来てた人って、プロ野球のスカウトだったんですね」
クールダウンを終え、帰り支度をはじめる部員達の中から、そっと鮎川が抜け出てきて、聖志にそっと耳打ちした。
「どうしてそんなことを?」
また野球部長がいらぬことを吹き込んだのか、と渋面を作った聖志は内心舌打ちする気持ちで問い返した。
だが、今度ばかりはそうではなかった。
「だって、これ。ベンチのところに落ちてましたよ」
鮎川が差し出したのは真新しい感じの、二つ折り式の名刺入れだった。聖志が受け取って中を見てみると、さきほど聖志がもらったのと同じ名刺が何枚か挟み込まれていた。
「そうか。さすがに抜け目がないな」
苦笑しながら聖志は名刺入れを閉じる。
「こんな大事な商売道具を落としていくんだから、案外抜けてるんじゃないですか?」
「いや、そうじゃないんだ。これは俺が営業マンをやってた時のマニュアルにも載ってる基礎的なテクニックなんだ。新規客のところに飛び込んでもほとんどの場合は体よく断られてしまって次回の訪問につながらない。だから、次に足を運ぶ為の口実としてわざと自分の名前と連絡先の判る品物を忘れ物のふりをして置いていくんだ」
連絡があれば恐縮しながら引き取りに行き、なかったとしてもなに食わぬ顔で「忘れ物をしたようで」とのこのこ顔を出してみせる。それをきっかけに二回目のセールスを仕掛けていくという段取りを聖志は説明する。
「その証拠というか、ほら、こいつはほとんど使い減りしてないだろ。モノも百円ショップで手に入る安物だ。安物だから、本当に使っていればじきに端が両側から裂けてくるのが普通なんだが、これはまだ綺麗なままだ」
「なるほど。大人ってのはいろいろと考えるものなんですねえ」
鮎川が大げさに感心する。
「直接スカウトが選手に接触できない決まりになってるから、いろいろアピールの仕方も考えてるんだろう」
「で、お目当ては誰なんですかね。やっぱり沖野ですか」
いつの間にか、鮎川の後ろに他の部員達も興味津々といった風情で顔を並べていた。気にならないはずはないのだ。
「はっきり誰とは言わなかったがな。どうやら俺も対象に入っていたみたいだ。練習前の打撃投手をやっていたのを褒められたよ」
聖志は冗談めかして言ったつもりなのだが、その響きに真実味があっていたのか、期せずして、部員達の間から感嘆の声が漏れた。
(二十五)
翌日。全員でのランニングとストレッチを行った後、かもめを相手の投球練習に向かおうとしている秋上に聖志が声を掛けて呼び止めた。
「悪いが、ちょっと俺の球を捕ってくれるか」
「練習メニュー変更で打撃練習ですか」
いつも聖志は打撃投手としてマウンドにあがっている為、さほど不思議にも思わない様子で秋上が尋ね返す。練習メニューは予選がはじまるまでのかなり長期に渡ってあらかじめ設定されているが、習熟度に応じて臨機応変に変更する旨は以前から申し伝えてあるため、他の部員にもとまどいの様子はない。
むしろ、歯切れが悪いのは聖志のほうだった。
「そういう訳じゃないんだ。ブルペンでいい。自分の球がどの程度走っているか、確かめておこうと思って」
「ははぁ、昨日のスカウトさんの話が気になりますか」
「そんなところだ。気にしないつもりだったけど、意識すると逆に再発しそうな感じもするし、地区大会がはじまるまではなんとか持ちこたえて欲しいと思ってるんだ」
「判りました。そういうことなら」
三塁側にはベンチはなく、投球練習用のブルペンが設置されている。二人並んで練習できるだけの造りになっているが、部員総数十四人では、実際に二人同時に練習という機会はなかった。
「カントク、今日は全力投球ですか?」
「まあな」
かもめが横で興味深げに見守る中、聖志は秋上相手のキャッチボールで肩を暖めていく。
「そろそろいくか」
そう声をかけ、秋上を座らせての投球に入る。棒立ちになったままのかもめの独特のフォームとは異なり、動きの大きなダイナミックなピッチングだ。
秋上が構えるミットに、鈍い音をたててボールが飛び込んでいく。
「どうだ。沖野の球とどっちが速い」
五十球近くを投げ込んでから、秋上に聞く。
「監督が沖野と張り合ってどうするんですか。でも悪くないと思いますよ」
「昨日のスカウトさんに何を言われたんです?」
苦笑いを浮かべる秋上と対照的にかもめは眉間にしわを寄せ、軽く聖志をにらむ。
「故障持ちの割にはいい球を投げるとか、まあ、そんなところだ」
さすがに照れながら聖志はうなずいた。
「勘弁してくださいよ。これからって時に監督が現役復帰なんか考えられちゃ、俺達はどうするんですか」
不安になったのか、秋上が口を尖らせている。
「判ってるよ。甲子園にいくために全力は尽くす。俺はその後のことを考えていただけさ」
「後のこと、ですか。そういう気の抜けるようなこと、言わないで欲しいな」
かもめにもそう言われ、聖志の眉が情けなく下がる。
「悪い。だけど、いくら俺が監督を続けたいと言ったところで、野球部長にクビと言われたらそれでおしまいなんだからな」
「そりゃまあ、そうですが」
三年生六名が引退すれば、野球部には部員が八名しか残らないことになる。試合も出来ない抜け殻のような部の存続を許してもらえるかどうか、あまり考えたくない話ではある。
「せっかく作ったグラウンドだし、やっと作った野球部だ。出来ることなら続けさせてやりたいよ。それも、今のチームがどれだけ結果を残せるかにかかってる訳だ」
苦い顔つきでかもめと秋上が黙り込む。
「それで、だ。一度、家に戻ろうかと思ってる」
「え……?」
「さっきも言ったように、この間来ていたスカウトの人に腕の故障のことを言われて、気になってるんだ。万が一、練習中にまた痛みがぶりかえして打撃投手とかやれなくなったら困るからな。念のため、医者に診てもらおうと思ってる」
「でも、なにも戻らなくても、お医者さんなら街に出たらいくらでもいますし」
かもめがとまどった声をあげる。
「どうせなら、前にかかっていた医者がいいと思うんだ。経過とかを説明して診断してもらったほうが安心だ」
「じゃあ、何日かかかりますね」
「そうだな。ついでに、俺の母校にも顔を出してみるつもりなんだ」
「……東翔学園、ですか」
秋上はその名前を口にするだけで緊張する様子だった。聖志がこくりとうなずく。
「社会人の時もそうだったけど、やっぱり一番『恩師』って呼べるのは、高校の時の監督なんだ。ま、教え子が監督やってますって挨拶がてらの宣戦布告さ」
ついでに、使い古しの用具でもたかってくる。冗談めかして聖志はそう付け加えたが、かもめは笑わなかった。
「そういう訳だから、沖野のことをよろしく頼む」
「まあ、マネージャですから」
聖志から説明を聞いた秀美は、何気ない口調で応じた。
「なんといっても男ばかりのなかで野球をやろうってんだから、居心地がわるいこともあるだろう。君が入部してくれて良かった。親友がそばにいてくれて、沖野も心強いと思う」
秀美は、ぴくんと身体を堅くした。
「私は、かもめの親友なんかじゃない」
「そんなことはないさ。君の支えが、沖野にとってどれだけ励みになっているか」
「そうじゃないんです」
秀美は絞り出すような声をあげた。聖志は首を傾げる。
「前もそんなことを言ってたな。俺にはムキになって否定する理由が判らない。興味本位だと怒られるのを覚悟で聞くが、訳を教えてくれないか」
「監督は、かもめの足の事故のこと、聞いてます?」
「あまり深くは尋ねていないけど、一応はな。車から降りようとして壁との間に挟んで切断したって言ってた」
「そうですか」
「それがどうしたんだ」
秀美は、うつむきながら頭を振り、顔を上げた。
「その事故の原因を作ったのは私なんです。あの時、私はかもめの家に遊びに行って、留守だったから家の前で、彼女が車に乗って帰ってくるのを待ってました。それに気づいたかもめは、車が止まるのを待ちきれずに降りようとして、それで」
秀美の目に涙はなかった。後悔の涙など、とっくの昔に流し尽くしているのだろう。
「自分を責める必要はない、とか言葉にするのは簡単だけど、そうもいかないんだろうな」
「はい。かもめの力になりたいと思うこと自体、偽善というか、後ろめたさの裏返しでしかない気がして。だから、親友だなんて言えない」
「俺は先生じゃないから、ああしろこうしろなんて言えない。そう思ってるんなら、それが間違ってるとか言うつもりはない」
「監督」
秀美に見つめられて、聖志は表情を緩めた。
「俺にとって大事なのは、今、かもめにとって助けになってくれているということ。その事実さえあれば十分だよ」
その言葉に、秀美はこれまであまり見せたことのないはにかんだ表情をみせた。言葉は無くとも、その思いは聖志にもしっかりと伝わっていた。
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