
第八話
(二十六)
出発当日の朝。
とりあえず前日のうちに一通りの片付けを済ませた部屋の中を見渡した聖志は小さくうなずいた。
民宿の一室であるから、アパートのように生活に必要なものすべてが揃っている場所ではないが、長く暮らしているとそれなりに愛着も沸いている。
「まあ、別に戻ってこないってわけじゃないけれどなあ」
気ままな旅のはずが、いつの間にかこうなってしまったことを思うと、ふと苦笑がもれる。
部屋を出ると、かもめの母親と鉢合わせした。
「あ、おはようございます。しばらく空けますが、また戻ってきますので、部屋はこのまま置いておいてもらっていいですか」
聖志の問いかけに、かもめの母親は聖志の全身をゆっくりと眺めまわしてから、「……ええ」と覇気のない声で応じた。
この態度が、機嫌が悪いとか、聖志のことを毛嫌いしているとかいった理由によるものではなく、元々誰に対してもこのような疲れた雰囲気であるらしいことを、聖志はなんとなく聞き知っている。
もちろん、かもめの事故がその一因になっているのだろうが。
だから、聖志もいちいち気を悪くしたりすることもない。それどころか、最初は本当に一部屋を借りるだけのはずが、トイレや洗面台は言うに及ばず、風呂や食堂まで使わせてもらっている。食事を作ってくれていたりすることもある。
それだけに、本当は心根の優しい人なのだと聖志は信じている。だが、彼女に本来の姿を取り戻させる術は聖志にもそうそう思いつくはずもなかった。
聖志は外に出て、駐車場に停めてある軽トラックの元に向かった。荷台の後ろに板を渡し、バイクを載せているところにかもめが顔を出した。
「バイクも持っていくの?」
首をかしげながらたずねてくる。
「ああ。もう乗らないから、ついでに中古屋に売り払うつもりなんだ」
「もったいないなぁ」
かもめがあげた声に聖志は気弱げな笑みを浮かべてうなずく。
「とは思うけど、潮気のあるここにいつまでも置いていたら、錆びてしまうだけだから」
「一度、後ろに乗せてもらいたかったなぁ」
残念そうに口を尖らせたかもめが、ぽつりとつぶやいた。
「悪いな。けど、もともとこれは二人乗りが出来るバイクじゃないから」
足を後輪に巻き込んだらどうする、とまではさすがに聖志には口に出来なかった。
それでも、なんとなく空気は伝わったらしく、うつむいたかもめは視線を足元に落とした。
「待ってるから、はやく帰ってきてね。カントクがいないと、みんな……」
「判ってる。よく判らないうちに、いろいろ責任のある立場になっちまってるからな」
聖志は冗談めかして笑ったが、かもめは笑わなかった。
(二十七)
阿久津島では目に出来ない、十数階建ての大学病院の建物を振り返って見上げながら、聖志は半ば呆然としていた。
別に田舎暮らしになれて高層建築物が物珍しくなったからではない。
先ほど検査を終え、結果を聞かされたところだった。彼に大きな衝撃を与えていたのは、ほかならぬその結果だった。
「当時に比べて状態は非常に良くなっている、か」
かみしめるように独り言を漏らす。社会人野球時代に主治医だった外科医の口から直接発せられた言葉が、未だに信じられない。
嬉しさや驚きよりも先に、拍子抜けという言葉が頭に浮かんだ。腕の故障であれほど思い悩んだ末にユニフォームを脱いだ、あの時のつらさはいったいなんだったのか。
「現役復帰……、も可能ってことだよな。考えてもみなかったな」
とりあえず呟いてみるが、しかしそれは、外科医と同時に自分自身をも偽る作られた思いだった。
考えてみなかったはずがない。スカウトに指摘されてから、意識せずにはおれなかったのだ。
こうして検査を受けに来たのも、白黒をはっきりさせておきたかったからだ。もっと本音をつきつめてみれば、過度の運動を控えるように注意されたかったとさえ言える。
そうすれば、心おきなく監督業に専念できるからだ。現役の目があると言われて、心が揺れているのは皮肉な現実だった。
「責任がある、か。沖野にはああ言ったが、しかし……」
(二十八)
聖志はいったん実家に戻ってから、懐かしい母校へと足を向けることにした。
家を出る間際になって、服装をどうするかしばし悩んだ。会社を辞めて一年が経ち、それ以来、まともに背広に袖を通すことも無くなっている。
結局、ラフな格好のまま出かけた。バイクを売ってしまったので、順序を間違えたかと少々後悔しながら軽トラックを運転しての母校訪問となる。もっとも、バイクを使っても大きな違いがないのも確かだったが。
聖志の母校である東翔学園は、三浦高と設備面ではほとんど同等のものを持っている。
強豪校としての歴史は東翔学園のほうが長いので、スコアボードやバックネットなどの一部に老朽化がみられる部分もあるが、それすらも伝統のすごみを感じさせる。
東翔学園の野球グラウンドは一塁側が山側になり、斜面がそのままスタンド状にコンクリート製の階段になっている。
真っ先に聖志の目に飛び込んできたのは、一塁側のファウルグラウンドの奥にあるブルペンで、二人のサウスポーが競い合うように投球練習をしている姿だった。
練習用ユニフォームの背中にはそれぞれ一と十の数字が見える。背番号一は内山、背番号十は渡瀬と書いた布を胸に縫いつけているのが判った。
(あの二人が、今年の東翔学園のエースと二番手ということか)
ホームベースとその両脇におかれた都合三つのバッティングゲージには、一桁の背番号を背負うレギュラー達が、続けざまにバットの快音を響かせている。
中でも、背番号五の今滝、背番号七の色部、背番号四の矢竹といった選手達の放つ打球の伸びはすさまじい。彼らがおそらくクリンアップを占めるのだろうと見当をつける。
ざっと見回しただけでも、六十人前後の部員が練習に汗を流している。
よりきめの細かい指導を行う意味からも、二軍、あるいは三軍制を敷く強豪校は多い。しかし、東翔学園においては二軍は存在しない。
全ての部員に対し、吉川監督は目を行き届かせている。そして、背番号を背負うレギュラーメンバーは、監督の鶴の一声で随時入れ替わるのだ。
聖志もバレないように手を抜いているつもりでも、必ず見つかって叱責されたものだ。
バックネットの脇ではその吉川監督が、やや肥満気味の身体をパイプ椅子にどっかと預け、一塁側スタンドに背を向ける格好でグラウンドに目を向けている。
東翔学園の監督業一筋で三十年近く続けており、ノックバットをもって自ら練習に参加するようなことは、聖志の現役当時からもあまりなかった。
どっしり構えて見守る姿勢は練習時でも試合の時でもあまり変わらない。よほどの接戦ともならない限り、ほとんどサインプレーも行わない。
そのスタイルから、『待ちの吉川』との異名があるほどだ。
(さて、どう切り出したもんかな……)
スタンド側から近くまで歩み寄ったところで、さすがに聖志も声を掛けかねて立ち止まってしまう。とりあえず内野の守備練習に一区切りがつくのを待つか、と聖志はコンクリート製のスタンドに腰掛けた。しばらくそのまま練習に目を向ける。
いくつかのグループに分かれ、グラウンドのあちこちで練習が行われている。外野ではダッシュを繰り返している組があり、ファウルグラウンドで素振りをしている一年生らしき組や、ブルペンで投球練習をしている投手陣もある。
自分にはとても、これだけの人数がどこでなにをやっているのかすべてを把握するのは無理だ、と聖志は正直に思う。冲鷹高野球部の人数が十四人というのは、自分にとっても手頃な数字なのだなと実感する。
「そんなところにぼーっと座っとらんで、こっちに来てさっさと挨拶せんか」
スタンドに背を向けたままの吉川監督が、不意に鋭い声を発した。
「は、はい!」
途端、聖志は飛び上がって思わず直立不動になって、慌ててスタンドを駆け下りた。
「会社を辞めたという話は聞いておった。しかし、まさかお前が高校野球の監督とはな」
一塁側のベンチ。驚いているのか呆れているのか、隣に座る聖志が語った経緯を聞き終えた吉川監督は、長々と息を漏らしてからそう呟いた。
「野球部といっても、こことはずいぶん違います。ですが、めいっぱい野球をやっていることに関しては、負けていないと思います」
「そうか」
聖志の気負いを吉川監督は軽く受け流した。どのような言葉を飾ったところで、甲子園に出場し、優勝するという大目標に近づけない野球部に価値はない。少なくとも、吉川監督にはそう言い切れるだけの実績がある。
「成り行きとはいえ、これからも監督を続けるつもりか」
「正直、判りません。腕がぶっ壊れているままだったら、諦めもついたかと思うんですが」
「どういう意味だ?」
「野球部の練習につきあってボールを投げていて気づいたんですが、少々数を投げても痛みがこないんですよ。で、ものは試しと精密検査を受けたら、かなり健常者にちかい状態に戻っているという話でした」
「現役に未練があるのか」
腕が完治した、という話にさほど驚いた様子もみせず、吉川監督はそれだけを尋ねた。
「まあ、まだ歳もそんなにいってないですし。あと五年や十年、なんとかなるんじゃないかという気はしています」
「選手と監督を両立させるのは不可能だな。高校野球の監督となれば」
「ええ。判ってはいるんですが、なかなか」
それを聞き、吉川監督は、決して軽やかとは言えない動作で立ち上がった。
「ま、せっかくこうして顔を出してくれたんだ。餞別というには少々くたびれてはいるが、あれをおまえに譲ってやろう」
吉川監督が指さしたのは、グラウンドに設置されたバッティングマシンだった。
「え、しかし……」
「ちょうど新型が来ることになっていて、処分する予定になっている。あと、痛みの激しいボールや金属バットも必要なら、器具庫から持っていっていいぞ」
「それはありがたい話ですが、どうしてそこまで」
聖志の問いに、吉川監督は怒ったような厳しい口調で応じた。
「指導者というものは、生半可な気持ちでやるべきものではない。後身の人生がかかっている事を絶対に忘れるな。だが、その責任と覚悟を背負えるのであれば、監督ほどすばらしい職業は他にない、私はそう信じているんだ。監督をやるなら、本気でやれ。用具が足りないなどという言い訳は聞きたくもない」
(二十九)
「監督、なにかずいぶんといろいろ積み込んでありますね」
冲鷹高自慢のお手製グラウンドに姿を見せた軽トラックに真っ先に気づき、駆け寄ってきた鮎川が声を挙げる。他の部員も、思わず練習の手を停めて集まってくる。
「言ったろ、用具をもらってくるって」
聖志も少々得意げに応じる。
緑色のシートがかぶせられた荷台に載せられた様々な品の中で、ひときわ目を引くのは使い古しのバッティングマシンだった。
縦横に張り巡らせたロープをはずし、シートを取り去った下からマシンが姿を見せると、部員達が打ち合わせをしていたかのように「おお」と声を挙げた。
「よくこんなのが手に入りましたね」
「俺が現役の部員だった頃から使っていた古いやつだ。モーターもかなりへたっていて、音ばかりやかましくて肝心の球速が出ないそうだ」
他にも中古のボールがケース一つ山盛りになっていたり、あちこちくぼんで痛みの激しい金属バットなども積まれていた。実際の試合にはもちろん使えないが、素振りやトスバッティングなど、使い道はいくらでもあった。
トラックの荷台に群がった部員達は、それらを一つ一つ手にとっては、しきりに感心して声をあげる。
「いくらお古の用具とはいっても、これだけの量をくれるなんて。本当にいいんですかね」
金属バットのへこみを確かめながら横路が訊く。
「向こうにとっちゃ、どっちにしろ新品が入ってくれば捨てるだけの品だからな。タダで引き取ってもらえて助かってる、ってところだよ。気にすることはない」
聖志の声がどこか苦々しげなものに変わった。それが当たり前だと思っていた昔の自分に対して腹を立ったからだ。
いずれにせよ、用具の充実により、練習メニューの作成にも幅が出る。なにしろこれまでは、全員が同時に素振りをするだけの金属バットすら揃っていなかったのだ。
と、嬉々としている部員達の輪から少し離れたところでかもめが立ちつくしていた。
「カントク……」
聖志と視線があった途端、涙目でかすれた声をあげる。
「どうした、なにかあったのか」
「だって、このまま帰ってこないんじゃないか、ってずっと心配だったから――」
かもめは絞り出すように言って目元をこする。その肩を秀美がやさしく抱き、心配するなとでも言いたげに聖志に向かって小さく首を振った。
第九話に続く
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