
第九話
(三十)
冲鷹高野球部は聖志の指導の下、残り少ない日々を目一杯に使って練習を重ね、いよいよ地区予選を迎える事となった。
最後となるかもしれない前日の練習を終え、聖志は簡単な訓辞を行った。
「強豪校はいくつもある。そのすべてを叩きつぶさなくても良いのがトーナメント方式のありがたさだ。少なくとも半分は、決勝で出くわす相手が引き受けてくれる」
いままでおよそ耳にしたことのない聖志の論法に、部員達は思わずにんまりとしている。なんとなく、やれるんじゃないかという気になってくるようだった。
「マスコミの通りいっぺんな取材じゃ判らない本当の実力をみせてやろう」
「はい」
部員達の声が揃う。
マスコミ、などという島には似つかわしくない単語が出てくるのは、予選に先立って型どおりの取材を地元紙の他、いくつかのメディアから受けていたからだ。
グラウンドづくりからスタートしただけあり、いろいろと話題には事欠かない野球部ではあるが、やはり記者達も義足の女性投手には目を引かれるのか、記事にしない訳にはいかないらしい。
もっとも、それはあくまでも突拍子もない話題としてであり、その実力に注目してのことではない。いくら情報化社会とはいえ、さすがに全国の野球部で毎週行われている練習試合の結果までマスコミがすべてチェックしている訳ではない。かもめの速球は世間には全く知られていないのだ。
一度でも試合で投げればそれだけで判ってしまうことなのだが、せめてそれまではかもめの実力を隠しておきたかった。
聖志は部員一人一人の顔を眺め渡した。彼らの思いが一つになっていることを信じる。
「落ち着いて、その上で気を引き締めていこう。相手は甲子園経験の無い進学校、この間の三浦高相手のように一方的にやられることはないだろう」
つい、分析というよりも願望に近い言葉が締めくくりとなった。
(三十一)
地区予選の開会式から二日後、冲鷹高は公式戦初試合に挑むことになった。
一回戦の相手は実盛高。聖志が部員達に語った通り、三回戦まで進めば上出来という公立の進学校だった。
聖志は試合に先立ち、山中で出来るだけ引っ張り、後をかもめに託すという策を立てた。
「――と、いうわけだ。どう思う?」
かもめと山中、そして主将の秋上を集めたうえで、改めて確認のために説明しなおす。
「監督の指示に従います」と、殊勝な返事を返したのは山中だった。もちろん、自分が投げたいという思惑があってのことだ。
「悪くはないと思います。山中の球も、伸びてきてますし。ですが、そう簡単にいくでしょうかね」
と秋上は首をかしげたが、反論するつもりはないらしい。
「全試合の全イニングを沖野が投げ通しというのはしんどい話だろう」
「わたしは大丈夫ですよ」と、かもめ。
「一試合や二試合ならなんとかなる。けど、先に行けば行くほど厳しい試合が待ってるんだから」
「だったら、カントクにお任せします」
「おいおい、試合をやるのは俺じゃないんだぞ」
「そのほうが気楽ですから」
かもめはしれっと言って笑った。
シード校を決める春季大会に参加していないため、一回戦からの出場となる冲鷹高は、都合六試合を勝ち抜く必要があった。
秋上はじゃんけんで負けたため、先攻となった。
試合開始を告げるサイレンが鳴りやまない初球に、先頭打者の倉田はいきなりセーフティバントを敢行した。
まったく予想外だったらしく、実盛高の内野陣の反応が遅れた上、三塁線ぎりぎりの絶妙の位置に勢いの死んだボールが転がった。
マウンドから駆け下りたピッチャーがボールを拾い上げた時には、倉田は一塁ベースを駆け抜けていた。
マウンドに戻ったピッチャーは、緊張をほぐすように肩を上下させて深呼吸している。
二番・横路は最初から送りバントの構え。いっぽうの倉田はちらちらとリードを広げてピッチャーの注意を引きつける。
いきなりセーフティバントを決められてムキになり、平静さを欠いたのか、バッテリーは二球続けてウエスト気味に大きく外してくる。倉田は思わせぶりな動きをみせるだけでスタートを切らない。
結局、制球が定まらずにフォアボールを与えてしまう。
三番バッターの柴橋が、バッターボックス手前でフルスイングの素振りを何度も行って打席に入る。
そして今度は、なんとか意識を切り替えてバッターに集中しようとするバッテリーの焦りに乗じる格好になった。初球が投じられた瞬間、ランナー二人が同時にスタートを切る。そして柴橋は大きな背中を丸めてバットを寝かせたのだ。
金属バットが鈍い音をたてる。ボールはサードの前に転がった。サードは前進して捕球したものの、三塁には投げられない。やむなく一塁に投げる。ワンアウト・二、三塁とチャンスは広がる。
さらにスクイズを警戒する守備陣形をあざわらうかのように、四番・秋上は強打に出る。打球は低い弾道で伸びていき、右中間を深々と破った。
あっという間に相次いでランナーが本塁を踏み、二点を先制する。
「面白いように作戦が決まりましたね」
スコアブックを抱えた秀美がはしゃいだ声をあげる。
「向こうは、こちらの先を読めずに、後を追いかけている。こうなるとこっちが鼻面を引き回すだけだよ」
「ウチのペースってことですね!」
結局、この回はさらに一点を加え、三点のリードでの上々の滑り出しとなった。山中も気をよくしてリズムの良い投球を続け、終盤に二点を奪われたものの、それまでに冲鷹高はさらに三点を追加しており、かもめの出番がないまま、スコア七対二と快勝した。
公式戦初勝利はチームに勢いをつけた。なにより、山中が大きな自信をつけた。
一回戦突破。この幸先よい結果を素直に喜ぶ一方で、勝ち進む間じゅう聖志が頭を悩ませ続けることになったのは、試合の内容よりもむしろ、その前後の段取りだった。
週に三回しかない定期汽船の運行通りに試合のスケジュールが組まれている訳ではない。かといって二日前から乗り込んで連泊できるような予算はどこにもない。
二回戦の際などは、漁船二隻に分譲して街の港まで送ってもらう羽目になった。その手の段取りはほとんど野球部長の牛尾に任せきりになってしまっている。
やる気がなさそうにみえて、案外ときちんと仕事をしてくれるのはありがたかったが、それだけに牛尾の本心が聖志にはよく判らなくなる。
それはともかくとして、島の住人とはいえ、誰もが船に乗り慣れている訳ではない。小さな漁船に揺られ、船酔いになるものが続出した。
「気持ち悪い」
船縁に寄りかかったかもめは、見るからに青い顔をしている。
「ここで音を上げてどうする。これからバスに揺られて球場入りなんだから」
「そういうことを言わないでくださいよ。よけいに気分が悪くなります。それにしても、なんでカントクは平気なんですか」
「そういう体質なんだよ」
聖志はそう強がってはみるが、実際のところ、部員達の前で情けない真似をみせられないという空元気にすぎなかった。
そんな状態で望んだ二回戦で山中が完封試合を決めてみせるのだから、野球は奥が深い。
その後、三回戦まで山中が全て完投という望外の好成績をあげる快進撃となった。
「カントク、わたしのこと忘れてないですか?」
と、登板機会がなく、手持ちぶさたな様子のかもめがじれているほどだ。
「焦るなよ。出番はそこまで来てるんだ」
実際のところ、試合運びは拍子抜けするほどに危なげなく、聖志も細かな采配に頭を悩ませる必要すらなかった。
初回、倉田が渋いヒットを放ち、横路がきっちりと送りバントを転がし、柴橋、秋上、深田のクリーンアップのヒットで倉田をホームに帰すという基本的な攻撃が二回戦、三回戦でも面白いように決まった。
リードをもらった山中は強気の投球で相手打線を封じ、三回戦までの失点はそれぞれ二点、零点、三点と安定していた。
あれよあれよという間に準々決勝に駒を進めたが、さすがに強豪校ばかりが残る中、余裕のある試合運びは続かない。
準々決勝の相手は春季大会の決勝で三浦高に破れて準優勝となり、第二シードとなっていた都路高だった。投手陣はさほどではないが、切れ目のない強力打線が売りのチームだ。
その自慢の打撃陣に、三回裏に山中が捕まった。
二点を失い、なおツーアウト・ランナー一、二塁というピンチで迎えた四番バッターには、あわやホームランという大きな当たりを放たれた。これはなんとか、センター・持友の好捕で切り抜ける。
ベンチに戻ってきた山中の顔は蒼白になっていた。
「やっぱりここまで来るチームは、違います」
三試合を完投した経験は自信になっているが、いかんせん目に見えない疲労が蓄積している。今日の山中の球にはキレが失われていた。
その言葉にうなずき返した聖志は、試合展開を見ながら、軽くキャッチボールをさせていたかもめのところに向かう。
「次の回からいよいよ出番だ」
かもめはこくりとうなずく。緊張や不安の色が目に浮かぶのは隠しきれない様子だった。
「大丈夫かなぁ」
そんな弱気な言葉がかもめの口から漏れる。
「大丈夫でなけりゃ困るぞ」
「はい」
聖志の言葉に、かもめは生真面目にうなずいた。
四回表の冲鷹高の攻撃は三者凡退に終わった。
聖志は投手交代を主審に告げる。
かもめは肩を揺らしながら、ひょこひょことした歩き方でマウンドに向かっていく。
彼女の左足が膝下から義足であることは、公表されていない。
聖志は、無駄に話題になることを避けたかった。どのみち女子選手というだけで注目されてしまうのは判り切っていた。
マウンドに立つかもめの姿をベンチから見ると、他校の投手の姿を見慣れた目にはやはり小さく映った。本人も落ち着かないのか、投球練習の合間に、軸となる右足の感触を確かめるように片足一本でプレートの上を何度か跳ねる。
打席に都路高の五番バッターが入り、主審が右手を挙げて試合再開を告げた。
かもめは小さく振りかぶった。体重を右足に残したまま、腰から上を一塁側に大きく傾け、右腕をほぼ真上から振り下ろす。
その細い指先から放たれたストレートが、糸を引くようなまっすぐの軌道を描いて、秋上のミットが構えられた低めに突き刺さる。
呆気にとられた様子で見送ったバッターがいったん打席を外し、気持ちを落ち着けるように素振りを繰り返す。自分の目が信じられないといったところだろう。
しかし、彼の動揺は二球目を全くタイミングが合わずに空振りしたところでさらに高まった。
三球目、ストレートしか頭にない状態で前のめりになって構えるバッター心理を読んで、秋上の出したサインはスローカーブだった。山なりのボールがホームベース付近を通過する一呼吸も前に、三番バッターが泳ぎながら振り出したバットはむなしく回っていた。
「やった!」
ベンチの秀美が思わず声をあげる。
「もっと声をあげていこうぜ。観客はともかく、ベンチ入りの人数に大差はないんだ」
聖志の檄を受け、さらに一年生の控え選手達がはやし立てる。
「行ける行ける!」「全員三振ですよ!」
かもめが照れくさそうにベンチを見た。しかし、その姿は先ほどよりもずっと大きく聖志には見えた。
かもめの登板により、都路高は勢いを完全に削がれて四回裏は三者凡退に終わった。
逆にペースを奪った冲鷹高はその裏、連打を浴びせて一点を奪い返した。
その後、息詰まる投手戦となった。かもめがストレート主体の真っ向勝負で三振の山を築けば、都路高は投手三人を短いイニングで継投させて冲鷹高打線の矛先を交わしながらイニングが進む。
勝負を決めたのは、九回表に飛び出した、柴橋にとって公式戦初本塁打となる、逆転ツーランホームランだった。
九回裏。食い下がる都路高打線に対し、リードをもらったかもめは浮き足立つことなく、低めにストレートを集め、二つの三振とショートゴロで試合を終えた。
痛快な逆転勝利に選手達は大喜びで盛り上がっている。ただ、聖志だけが少しばかり険しい表情をしていた。
「どうしましたか、監督。これからのことが気になりますか?」
「ああ、そうだな」
秀美の怪訝そうな問いかけに、生返事をかえす。
ほとんど完璧といえる投球内容だったが、気にかかる点がひとつあった。都路高の選手が、かもめの速球に歯が立たないと、時折セーフティバントを仕掛けようとする構えがみられたことだ。
もちろん、柴橋と深田がかもめの守備範囲の狭さをカバーするように練習は重ねてきた。そして実際にバントを試みた選手もいたが、かもめの球威に押されてファウルや小フライとなり、結局一度も成功させられなかったのだ。だが、不安は拭えない。
豪打を売りにする都路高だけに、小技が苦手だった面もある。まだかもめの足のことがよく伝わっていなかった可能性もある。フィールディングの悪さが露呈した時にどう対処するか、考えておく必要がありそうだった。
(アレをやるしかないか……。島に戻ったら、もう一度集中的に練習をしておこう。ぶっつけ本番では、うまくいくものもいかなくなる)
が、特別練習を選手達に告げるのはもう少しあとでもいい、と聖志は思い直した。いまは勝利の美酒に酔わせてやっても、そう悪いことではない、と。
(三十二)
準決勝進出を決め、これまで三々五々といった体で応援に駆けつけてきていた冲鷹高のOBや父兄達から、そろそろ正式な形での応援団を組織すべきだという声があがるようになった。
いささか遅きに失した感もあるが、中学・高校合同のブラスバンドやチアリーダー、男子応援団などが急いで作られ、海を渡って準決勝の行われる市民球場に乗り込んできた。
市民球場の第一試合である冲鷹高の対戦相手は桑島第二高。甲子園の常連校である。続いて行われる第二試合では、先日の練習試合で聖志達が苦杯をなめさせられた三浦高が、学校創立十年目の港島高と対戦する事になっている。
港島高は二年生エース・一条が準々決勝までほとんど一人で投げ抜いてきている。さほど上背は無いが、しなるような身体さばきから繰り出される伸びのあるストレート主体のピッチングでバッターをねじ伏せている。
実績面やピッチャーのタイプから、冲鷹高にどことなく似ている感もある。もっとも、港島高は歴史こそないが設備は小規模ながら室内練習場を完備するなど最新のものを揃えている。それに野球部を率いる谷野監督は過去、別の学校の野球部を二度に渡って甲子園に導いた実績を持つ優勝請負人だった。
「順当に行けば三浦高が頭一つ飛び出している。波乱が起きて港島高が勝って、決勝で桑島第二高を封じることが出来るか、てな感じか」
いつの間に買ってきたのか、ロッカールームにおかれたベンチに腰掛けた鮎川がのんきにスポーツ新聞を広げている。
「なんだよそれ、ウチのことは最初っから無視か? そんなひどい記事あるかよ!」
憤慨した柴橋が新聞をひったくろうとする。それをベンチから立ち上がった鮎川は、身体を翻らせてかわす。
「待て待て。ホントにそんな風には書いてないって。でも、ほとんど相手にされてないのは確かだけどな」
「普通に考えて、よくこんなオンボロチームが勝ち残ってきたもんだという話だろ」
スパイクの手入れをしていた横路が気乗りしない口調で会話に割り込む。鮎川と柴橋は顔を見合わせて渋面を作る。
「冷静だなあ」
「油断させておけばいいさ。下手に対策を考えられたら厄介だ」
「そういうことだ」
横路の言葉を引き継ぐ格好で、聖志が審判用の更衣室を借りて着替えてきたかもめを伴って、ロッカールームに入ってきた。
「あ、監督。今日は沖野が先発ですか」
先回りして鮎川が聞く。その隙に、柴橋が鮎川の手元から新聞を奪い取った。
「その予定だ。……って、なにスポーツ新聞なんぞ読んでるんだ」
「まあそう言わないでくださいよ。これも情報収集の一環ですから。それよりもこれ、ちょっとまずいかもしんないですよ」
のっそりとした口調で、柴橋が聖志に向かって新聞を突き出した。
そこには、囲み記事でかもめの事が書かれていた。
県大会で女子選手の参加は四人を数える。歴史的な女子選手の参加から数年が経過しているとはいえ、多いとも少ないとも表現しがたい数字だ。もっとも、うち勝ち残っている高校に所属しているのはたった一人だけ。しかもその選手は片足の障害を乗り越え、先日公式戦初登板を見事に果たした、云々。
「確かにあんまり良くはないな。いずれは判ることだが。沖野は最近、なんかインタビューとか受けたか?」
ざっと記事の内容に目を通してから、聖志はかもめに顔を向けてたずねる。しかしかもめは「予選が始まる前に一通り聞かれただけです」と、小さく首を振った。表情が固いのは、足の件が記事に載ったからか、初登板を前に緊張しているからなのか、判然としない。
「けど、誰もわざわざ義足の話なんてしてないだろうしなあ」
聖志は首をひねる。
「部長じゃないですか?」
深田がぼそりと言う。聖志と部員達は顔を見合わせた。
「ありえるな」
「で、その部長はいまどちらに?」
「第二試合待ちの三浦高にご挨拶だそうだ。向こうのほうが、居心地がいいらしいな」
聖志は肩をすくめて答えた。士気がさがるほどではないが、部員達がげんなりとなる。
「嫌になりますね。よそに比べたら見劣りするかもしれませんけど、これでも準決勝まで勝ちあがってきたチームなんですから」
秋上が口を尖らせる。
「まあそういうな。今日は島から応援団がいっぱい来てる。部長がなにをしてようと、俺達は戦って、勝つだけさ」
「おう」
威勢の良い部員達の返事に、聖志は満足した。ただ、かもめの表情からこわばりが消えないことだけが、気にかかっていた。
(三十三)
試合は、都路高戦よりも厳しい立ち上がりとなった。
一回表、かもめのピッチングは制球が乱れ気味だった。先頭打者をフォアボールで歩かせると、二番打者に対する初球を秋上がパスボールしてみすみす二塁にすすめてしまう。
引き締めるべき内野陣も、せっかく打ち取った二番打者のあたりを深田がエラーするミスを重ねてしまう。三番打者こそファウルフライに討ち取って調子を取り戻すかに思われたが、公式戦通算三十八本のホームランを放っている強打の四番・菱沼のライト前ヒットで、あっさり二点を先制される。
五番打者が打ち損ねのキャッチャーフライに倒れ、六番打者が放った強烈な打球がファースト・柴橋の正面を衝いてくれたおかげで、あやうく二失点で済んだ状態だった。
「球が走っていないな。腕の振りが縮んでいるぞ」
ベンチに戻ってきたかもめに対して、聖志は頭ごなしにしかりつける口調ではなく、本当に疑問を抱いて問いかていた。
島から駆けつけた応援団がスタンドを埋めているせいで、萎縮しているのではないかと心配していたのだが、かもめの返事は意外なものだった。
「これから九回投げなきゃいけないかと思うと、力を抑えようとしてしまって、つい」
握力が気になるのか、かもめは右手の指を屈伸させながらうつむきがちに答える。
「大丈夫だ。一試合投げきるだけのスタミナは、ちゃんと沖野の中に備わっている。一年近く、そうなるようにトレーニングしてきたんだ」
試合経験のなさは、こんなところにも現れてくる。場数さえ踏んでいればペース配分も身についてくるのだろうが、こればかりは日々の練習だけでは学べない要素だ。
「それよりも。全体的に動きが固いぞ。応援団が来てるからって浮わついてどうする」
かもめの緊張をほぐす意味も込めて、聖志はレギュラーの選手達に矛先を向けた。
「だって気になってしょうがないですよ。ほら、聞こえてくるのがあれじゃあ」
しかめ面の横路が、応援団の陣取る一塁側スタンドに耳を傾けるしぐさをみせる。
腹下しを連想させる、調子の外れたトランペットの音が力なく響いた。かと思うと、意味もなく太鼓が一度だけ打ち鳴らされる。
「なにをガサガサやってるんだろうな?」
「今からウチの攻撃ですからね。応援歌をやろうとしてるんですよ。格好つけて俺達一人ずつにそれぞれ応援の曲も決めてあるそうなんですけど、ろくに練習もしてないでしょうから、うまく出来るかどうか気になって」
神経質な言葉はいかにも横路らしい。
「せめて、相手に失礼にならない程度にこなしてくれて、笑いものにならないでくれたらいいんですが」
真顔で秋上が心配している。
彼らの懸念をみていると、聖志は場違いだとわかっていながら笑い出したくなった。頼もしいと言っていいのかは微妙だが、妙なプレッシャーを感じていないとわかっただけでも、聖志には収穫だった。
やはり急造の応援団は、どうにも息があっておらず、騒がしいだけで士気を高めてくれるような効果は期待できない。調子を狂わされたわけでもないだろうが、一回裏の攻撃は三者凡退に終わる。
二回表に入っても、かもめのピッチングが安定しない。
球が高めに浮き、七番、八番と振り遅れながらもバットに当てられた打球は連続して野手の間に落ちた。かもめの足のことは当然彼らも知っているだろうが、あえて守備の乱れを誘うセーフティバントを仕掛けてくる必要すらなかった。
九番打者に対して、秋上が再びパスボール。ランナー、二、三塁のチャンスを与えてしまうと、聖志の指示を待たずに、マウンド上に内野陣が駆け寄る。
「どうしても浮き足立ってしまうのはある程度しかたがないけど」
聖志は伝令役の寺元を手元に招いた。「スクイズは覚悟の上で、ひとつずつアウトを確実に取っていこう」との指示を与えて送り出す。
一点にこだわって二点失う状況を恐れたのだ。が、心持ち前進気味の守備陣形にもかかわらず、桑島二高は強攻策に出た。バッターの打球は三遊間を破った。
一点を追加され、なおもノーアウト一、三塁。
「やっぱり、かもめの球は通用しないんでしょうか」
秀美の目に不安の色が濃い。
「そんなことはない。本来の調子さえ取り戻せば。むしろ、調子が出ていないのは秋上のほうだ。パスボールが続いて、沖野が思い切り投げ込めないでいる」
「そんな」
「まだだ。まだあきらめるのは早い」
自分に言い聞かせるように聖志は呟いた。桑島二高の打順はトップにかえる。かもめのストレート主体の配球は変えさせない。あくまでストレートの威力あってこその変化球だ。
だが、その頼みの速球が低めに決まらない。またも半端な前進守備に対し、一番打者は初球スクイズを敢行してきた。
先ほどの強打があるだけに意表を衝く格好になったが、打球は三塁線を割るファウルとなった。球威に押された格好だった。
「まだ、ツキは残っているか」
安堵のため息がまじった聖志の独り言が終わらぬうちに、強襲に切り替えた桑島二高の一番バッターは、かもめの投じたカーブを高々とセンター方向に打ち上げていた。
タッチアップで三塁ランナーが四点目のホームを踏む。
続く二番バッターに対する初球。低めを要求した秋上に対し、かもめの球は高めに外れた。構えなおしたミットの縁をかすめ、ボールは秋上のキャッチャーマスクを直撃した。
「ぐがっ」
嫌なうめき声が一塁ベンチの聖志の耳に届いたほどだった。だが、誰もが息をのむような状況の中にあって、もっとも冷静だったのが秋上本人だった。足元に転がっているボールを拾い上げると、そのまま一塁めがけて投げた。
中途半端に一塁ベースを飛び出していたランナーが、われに返ってあわててヘッドスライディングするが、タッチアウトとなる。観客席がざわめいている。
「大丈夫なのか」
治療の為に引き上げてきた秋上の顔を、ベンチにいる全員が一斉に覗き込む。
「だと思います。少しふらふらしますが、頭を打ったわけじゃないですし、一度ミットに当たってる分、衝撃も弱まってます。これで目が覚めたようなもんです」
キャッチャーマスクをはずした秋上は、目を何度もしばたたかせながらも、しっかりした言葉で応じる。鼻血が出ていたりはしない様子だった。多分に強がりが混じっているだろうが、控えのキャッチャーである由比に交代させるのは一層心もとない。
さすがに顔面にコールドスプレーを吹きかけるわけにもいかず、濡れタオルで顔を拭いただけで、ほどなくして秋上はグラウンドにもどった。
ツーアウト、ランナーなし。やっと落ち着くかに思われたが、さきほどの捕りそこねは秋上以上にかもめを動揺させてしまったようだ。ストライクが決まらず、二番バッターを結局フォアボールで塁に出してしまう。
「リズムに乗れていけないな」
ベンチで出来ることなど、あまりにも限られている。聖志は歯噛みして見守るしかない。
三番バッターは、セオリーどおり初球から引っぱたいてきた。ストライクを狙うあまり、球威のないかもめの球をはじき返す。打球はショート・倉田の正面へのゴロ。しかしバウンドがイレギュラーし、倉田は身体にあてたものの送球できなかった。
そして桑島二高が誇る主砲、菱沼が打席に入る。
(ここで打たれたら、試合の流れが完全に決まる)
かもめだけでなく、内野に散る選手達が、ちらちらとベンチを伺う。地に足が着いていない証拠だ。だが、高校野球では監督が直接グラウンドに出て声を掛けられない。
大丈夫だ、とばかりにさほど意味の無いうなずきを返す。
初球。外角低めへのストレートが決まる。今日はじめてといっていい狙い通りの一球だった。主審のストライクのコールが心地よく響く。マウンド上のかもめが、ふうと息をついて帽子のずれを直しながら返球を受けた。
二球目もインハイへのストレート。菱沼が踏み込み、バットを振る。鈍い音。打球は後方へと飛んだ。秋上が反射的にボールを追ってカエルのように飛び上がったが、捕れるはずもない。ボールはファウルグラウンドに転がった。
しかし、そのバットスイングの鋭さは、ベンチにいてもひしひしと実感できた。やはり四番打者ともなればただものではない。
「逃げるな。勝負だ!」
心理戦でもなんでもなく、聖志はそう怒鳴らずにはいられなかった。
背筋を伸ばしたかもめが、セットポジションから背中を倒し、右腕を振り下ろす。
ストレートがど真ん中へ。菱沼のバットが再び一閃する。が、鋭く回転する球はホップしてバットの上を突き抜けていた。ミットに収まる鋭い音が、スイングの響きをかきけす。
「ストライク、アウト!」
主審のコールに、かもめはマウンド上で小さくガッツポーズをみせた。
やれやれといった様子で選手達がベンチに戻ってくる。
「いい球だった。やっと調子が出てきたな」
聖志の言葉に、まだ自信が持てないのか、かもめは首をかしげながらも白い歯を見せた。
しかし、四対ゼロという現実は変わらない。
二回裏、四番・秋上からの攻撃となるが、攻略の手がかりをつかめない。球の速さだけならかもめのほうが上なのだが、桑島二高のエースは制球が安定しており、変化球も多彩だ。狙い球を絞り込めず、相手の配球を後追いする格好になって捉えきれない。秋上はセカンドゴロ、深田はファーストフライ、六番・藪中もピッチャーフライに打ち取られる。
「カントク。このままじゃ、相手のペースで試合が終わってしまいます」
かもめが今にも泣き出しそうな表情で訴えてくる。
「そんな顔をするなよ。なあ、沖野。俺は沖野が甲子園で投げる姿をみてみたいと思って、島にグラウンドを作り、ここにいる連中に野球を教えてきた。とんでもないエゴだけど、これは事実だから仕方が無い」
いきなりの聖志の話に戸惑いながら、かもめがうなずく。
「でも考えてみりゃ、別に甲子園でなくても良かったのかもしれない。公式戦の場で、小さな島にもこんなすごいピッチャーがいたんだ、ってことは今日の試合で充分に、世間に向かって声をあげられたと思う」
「でも、わたしは――」
「桑島第二の四番バッターから三振を奪ったんだぜ。それだけで誇りに思っていい。少なくとも、俺自身は自分の目的を果たしたつもりでいる。せっかくだ、今日は全員三振でアウトを捕るつもりで行って来い」
そう言ってから、聖志は二人の会話を聞いていたほかの選手達に眼を向ける。
「いいか。男なら、って言い方は沖野には失礼かもしれないが、あえて言う。男なら、沖野の添え物のような扱いのままで終わりたくはないだろ。特に三年。負ければもうこのメンバーで公式戦をやることはない。最後の試合だ。沖野はいいところをみせた。お前達も、ひとつぐらい格好いいところを応援団にみせてやれよ」
「はい!」
部員達の声がそろう。
「おっしゃ。打てるかどうかは判らないけど、ファインプレーぐらいやってやる!」
見え透いた激励に、鮎川が演技がかった口調で乗ってくれた。他の選手達も、ヤケクソ気味に声をあげながらベンチを飛び出していく。
五番バッターに対して、かもめはストレートで押し切り、空振り三振を奪う。
球威とキレはベストに近い状態になっていた。四点差が、開き直りの気持ちを彼女に与えているようだった。少なくとももう、萎縮はしていない。
この回、二つの三振を奪ってはじめて零点に抑えると、ようやくリズムに乗ってきた。
打撃陣にも、強い当たりが出る。惜しくも野手の正面をついたり、ヒットになっても後続が続かずに得点につながらないが、勝敗は別として、決して闘志では負けていないと、吼えるような勢いを見せ始めていた。
かもめのピッチングも、回を追うごとに凄みを増していく。序盤で四点を奪われたのが嘘のような立ち直りぶりで、三振の山を築いていた。
一方的な試合になるかと思われた序盤戦から一転、六回まで両チーム無得点が続く。
七回裏の攻撃は、九番に入るかもめから。
これまで冲鷹高が放ったヒットは散発の三本。しかも二度ダブルプレーを食らっている。
かもめ自身、第一打席ではまったくタイミングがあわずに三振に倒れている。
足のこともすでに知られている。下手に塁に出てしまえば、攻撃の起点どころか制約になりかねない。だが、歩かせてくるような姑息な真似はしてこなかった。あるいはそのような策を不要としただけなのかも知れないが、真っ向から投げ込んできた。
かもめはバットのグリップをこぶし二つほども余らせて握っていた。
「センター返しに徹しろ」
との聖志の指示を頭に叩き込み、それだけを狙ってバットを振る。
二球続けて空振りしたのがバッテリーの油断を誘ったのか、三球目に投じられたカーブはやや甘く入ってきた。
かもめがバットをかぶせるようにしてたたきつける。打球はきれいにピッチャーの足元を抜いた。しかし、守備範囲の広い二塁手が逆シングルで二塁後方でボールを捕る。
かもめは懸命になって左足で跳ねながら一塁を目指す。バッティングで足を引っ張りたくないと、決して素振りやトスバッティングにも手を抜かなかった一心さがなにかに通じたのか、二塁手の送球は高くそれた。かもめは頭から飛びつくように一塁に滑り込んだ。
「よし、よくやった!」
かもめの届くように声を張り上げる。ベンチもここぞとばかりに騒ぎ立てる。
ノーアウトでの貴重なランナーが出た。代走を出すというのもひとつの手だろうが、かもめのここまでの投球内容を考えれば、マウンドからおろせない。
打順は一番に返って、倉田。四点差を考えれば、送りバントという手はない。しかも足の悪いかもめがランナーでは、どのみち足を絡めた攻撃は考えづらい。
しかし、初球のカーブが外れ、二球目を投じる寸前になってかもめが走った。意表をつく動きに、倉田が立てていたバットを寝かせ、セーフティバントを仕掛けたことで桑島二高の動揺は広がった。
一塁ランナーは足が悪く、打席に入っているるバッター者は足が速い。その両方が頭にあったせいで、三塁線に転がった打球を拾い上げたサードは一瞬送球先を迷った。普通に一塁に投げていればアウトのタイミングだったが、虚を衝くバントにムキになったのか、二塁に投じていた。
しかし、かもめは足を引きずりながらの必死の走塁で、一瞬早く二塁ベースにヘッドスライディングを決めていた。カバーに入ったセカンドは即座に一塁に投じるが、こちらも背を丸めた倉田が先にベース上を駆け抜けていた。
二塁ベースに腰を下ろした状態で、かもめが胸についた土ほこりを払っている。二度のヘッドスライディングですっかり土まみれになっているが、その顔は喜びに輝いていた。野球をやっているという実感を存分に味わっているのがベンチの聖志にも確かに伝わってきた。
二番・横路が打席に入る。自分のペースを取り戻そうとの桑島二高のピッチャーの焦りが、力の無い置きにいく球となってストライクゾーンに飛び込んできた。
ようやく様になってきた声援に押されるように、横路はこれを見逃さずにひっぱたいた。
だが、その勢いとは裏腹に、打球は高いバウンドで三塁手の正面に飛んだ。ランナーを気にしながら待って捕球した三塁手が、自ら三塁ベースを踏む。即座に一塁に投げたが、こちらはセーフとなり、ランナーが入れ替わる格好になった。
「あーあ、残念」
屈託の無い表情をみせてかもめがベンチに戻ってくる。
「ナイスラン、ナイスガッツだったぞ」
聖志が掲げた手を、かもめは少し困ったような顔をみせてたたき返した。
「あれ、エラーですよね? 内野安打じゃなくて。ヒット、打ちたいな。打率零割のままで終わりたくないですよ」
かもめがぽつりとつぶやく。内心で、ランナーが入れ替わったおかげで攻め口が広がったと考えていた聖志には、とっさにかける言葉が思いつかなかった。
三番・柴橋は簡単にツーストライクに追い込まれた。しかし、そこから粘る。ファウルが続き、根負けしたかのようにはっきりと判るボール球が三球続いた。四球を出したくないとばかりに、桑島二高のエースが投じた球は、速さはあるが甘いところに入ってきた。
柴橋が歯を食いしばりながらバットを振りぬく。低い弾道の打球は三塁線へ。
「切れるなあーっ!」
一斉にベンチから乗り出した部員達が叫ぶ。その願いが通じたのか、ボールはライン上に落ち、石灰を跳ね上げた。倉田と横路が相次いでホームを踏む。これで二点差。柴橋は二塁に達した。両腕を天につきあげ、全身で喜びを表している。
ここで、四番・秋上に打順が回る。前の打席ではあわやという左中間を深く破る二塁打を放っている。打線のなかで、一番タイミングがあっているだろう。
長打を警戒する外野陣が、柴橋の打席よりもさらに心もち後退する。
初球。内角を衝く難しい球だったが、秋上は積極的にバットを振る。打球はライト線に飛ぶ。飛距離は充分だったが、スピンのかかった打球は惜しくもポールの外側に切れた。
「くわー、もったいねぇ。三振前のバカあたりってか」
ベンチから伸び上がって打球の行方を追っていた鮎川が頭を抱える。
しかし、この当たりにピッチャーはさらに警戒心を深めたようだ。ボール球覚悟で厳しいコースを狙い、結局フォアボールとなる。空いていた一塁を埋める格好になる。
ワンアウト、一塁、二塁。
五番の深田は、ここまで凡フライに三振と、秋上と対照的にタイミングがあっていない。
桑島二高の内野陣は、ここで今日三つ目のダブルプレーを狙った中間守備の構え。
この場面でも、深田はタイミングがあわず、ツーストライクを簡単に奪われる。
続く一球は、間合いを計るための外にはずす球だった。しかし、それが失投となり、中に入ってきた。やや高すぎるボールにも、長身の深田は伸び上がるようにしてバットを合わせた。打球は力なく飛んだが、長打を警戒していたセンターの手前に落ちた。柴橋が生還し、さらに三塁コーチ・水戸が回す腕を見ながら秋上も三塁を蹴って本塁に突っ込む。
クロスプレーになったが、返球が一塁側にそれた。
スコア四対四。ついに追いついたのだ。深田は二塁を伺ったが、キャッチャーが頭の切り替えが早く、矢のような送球をセカンドに送ったため、やむなく一塁ベースに戻った。
「このまま一気に逆転だ!」
マウンド上に桑島二高の内野陣が集まるのを尻目に、冲鷹高の応援団は、天を衝かんばかりに盛り上がっている。
六番・藪中が気負った様子で素振りを繰り返しながら左打席に向かう。
試合再開。薮中はその初球を狙っていた。内角に入ってきたストレートを引っ張る。打球の勢いは鋭かったが、ファーストの正面に飛んだ。ファースト・菱沼が拝み取りする。
深田は打球の勢いにつられて飛び出してしまっていた。頭から一塁ベースに飛び込んだが、間に合わずにタッチアウト。ダブルプレーとなって攻撃は終了した。
「惜しい惜しい。当たりは良かった」
グラブを取りに戻ってきた藪中に聖志は明るい声をかける。一年生で唯一のレギュラーであり、先輩達の足を引っ張らないようにいつも気にかけている薮中の心境を思うと、自然とそんな言葉が口をついて出ていた。
しかし、それはそれとして試合を振り出しに戻した以上は、開き直りの精神ばかりではなく、勝ちにいく必要があった。
山中と一塁コーチ兼任のキャッチャー・由比の二人をブルペンに向かわせる。今のかもめの調子ならそう簡単に山中の出番は回ってこないだろうが、延長の可能性もある。
八回の表裏は両チームともに三者凡退に終わった。八回裏、ツーアウト・ランナーなしの状態では、さすがにかもめに代打は出せなかった。かもめ自身も、ヒットを打ちたい気はやまやまだっただろうが、自分が出塁してもあとの攻撃がうまくつながらなくては意味が無い、とばかりにあっさりと見送り三振に倒れていた。
「すまないな」
「カントクが謝ってどうするんですか。ヒットを打てないのは、カントクのせいじゃないですよ」
ピッチングで調子を取り戻したのか、かもめの表情はほがらかだった。いまのところ、その様子からは疲労は感じられない。
九回表も、かもめは二つの三振を奪うなど三人で攻撃を終わらせて出塁を許さなかった。三振したバッターの中には四番・菱沼も含まれている。この試合、桑島二高に追加点を許していないのは、彼を完璧に封じている事が大きい。
九回裏の攻撃は、一番・倉田から。
さきほどセーフティバントで桑島二高の守備は引っ掻き回されただけに、内野陣はこころもち前進気味に守っている。
倉田は投球のたびに、ちらちらとバントのそぶりをみせながらバットを引っ込める。初球こそストライクになったが、続く二球は外れてボール。ボールカウントをこれ以上悪くしたくないバッテリーは、続く球をストライクゾーンに入れてきた。倉田がバットを寝かせる。内野陣が機敏に反応する。
と、倉田はいったんバットを引いてそこからコンパクトに振りぬいた。ボールは一、二塁に飛ぶ。通常の守備陣形ならファーストゴロだったが、前進していた分、ファーストの菱沼が反応できなかった。打球はライト前へと転がっていく。
横路は落ち着いてバントで倉田を二塁に送る。打撃ではあまり活躍できず、地味な仕事に徹しているが、彼のような存在があるからこそ、打線が文字通りの線として機能する。
聖志が手をたたいて横路を出迎えたのは、けっしておおげさでもなんでもなかった。
「一点でいいんだ、一点で」
スタンドの応援団も、いまや作り物ではない本物の応援となっている。その声に後押しされるようにして柴橋が打席に向かう。準々決勝でツーランを放ち、その快感をもう一度とばかりにフルスイングの素振りを繰り返す。
「いくらなんでも逸りすぎだな、ありゃ」
当たればホームランの破壊力を秘めたすさまじいスイングだが、そうそう甘い球はこない。柴橋は空振りとファウルでツーストライクを取られると、そこからさらに三球連続でファウルした。ストライクゾーンの外だろうがなんだろうが食いついていく様子に、桑島二高バッテリーが辟易としている様子だった。
なにしろ、一発どころか、シングルヒットさえ許されない状況だ。かといって、いまさら敬遠など出来ない。第一、四番に控える秋上は、今日一番タイミングがあっているのだ。
六球目。フォークボールが抜けた。落ちない。フォアボールを恐れて腕が縮んだ。ここに来て痛恨の失投だ。
柴橋は迷わずフルスイングした。
打球はきれいにライト前へと運ばれ、倉田は駿足を飛ばして一気にホームベースへと滑り込んだ。
一呼吸遅れて、ライトが投じたノーバウンドのすばらしい返球がキャッチャーのミットに飛び込んだが、それはすべてが終わったあとのことだった。
「よっしゃー!」
鮎川が叫び、他の選手達も口々に叫びながらベンチを飛び出していく。ブルペンで万が一のために準備を続けていた山中も、キャッチボールの相手をしていた亀井もグラブやボールを放り出して駆けつける。
殊勲の柴橋や倉田を出迎えるためだけではなく、整列をしなければならないからだ。
(次は、いよいよ決勝戦か)
万感こもる思いで、ベンチに残る聖志は空を振り仰いだ。雲間の向こうに、おぼろげに輝く太陽の姿があった。
第十話に続く
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