『スプリント&ドリフト(改)』第一話(全五話)
JR新大阪駅から西へ歩いて十分ほどの場所にある、一棟の雑居ビル。その四階には、少しばかり風変わりな事務所が構えられている。
事務所には接骨院のような設備が整っているが、実際に使う機会はあまりない。雑居ビルの一、二階を占めるアスレチック・クラブは商売相手の一つではあるが、そこの利用客に対する整体・マッサージも表看板ではない。
事務所の主、菱谷圭一は、「コンディショニング・トレーナー」という肩書を自称している。一般のスポーツ・ドクターと区別する為だ。主に、大学・社会人の体育会系のクラ
PNF――正式には「Proprioceptive Neuromuscular Facilitation」と呼ばれるトレーニング法に代表される科学的トレーニングを指導するのが、彼の仕事である。まだ三十前ながら、その知識と理論は卓越している。とはいえ、年輩の「名監督・名コーチ」と呼ばれる人ほど、科学的根拠をもとにした指導を嫌う傾向にあり、なかなか仕事がうまく行かない場合も多い。
それでも、菱谷はこの仕事を天職と考えている。
彼は、ただの理論屋ではない。高校時代には野球部のエースとして、弱小チームを県予選の決勝まで引っ張っていった経験を持っている。その際、まともなコーチがいなかったために肩を痛め、野球を辞める羽目になった。その無念な思いを後身に味あわせたくないとの一念で、科学的トレーニングの普及に尽力しているのである。
事務所の応接室には、依頼人が訪れていた。高校時代の野球部の同輩、成田猛である。ポジションはキャッチャーで、菱谷とはバッテリーを組んでいた。今は、スポーツ関係を専門にしたフリーのカメラマンをやっている。
「また、妙な依頼か?」
事務所のただ一人の従業員が入れたお茶を一口すすり、菱谷が尋ねた。渋い顔をしているのはお茶のせいではない。かつて、菱谷は成田に『マインドコントロールによる実力の発揮』なる、人騒がせな理論を提唱したある人物と対決させられた経験がある。結果的にその時は『判定勝ち』を収めたものの、ひどく割の合わない仕事だったとの印象が強い。
「そう言うな。ま、これを見てくれ」
普段は締まりのない顔をしている成田が、珍しく真面目な顔で手帳に挟んであった写真を取り出した。
写真には、陸上競技用のユニフォームに身を包んだ、髪の短い女の子の姿が写っている。雰囲気からして、何かのトラック競技で走り終わった直後に撮影したものらしい。カメラを意識していない分だけ、自然な顔つきをしている。女性にしては割と眉が太い方なので、一見すると少年のようにも見える。
「水沢穂。讃輪大学付属高校二年。陸上部所属。実は、俺の遠い親戚でもある」
「みずさわみのる……。名前まで、男みたいだ。で、彼女がどうかしたのか?」
「先日、区の競技大会で、百メートル走で十一秒八の記録を出した」
「おい、ちょっと待て。いきなりな話だな。日本の女子記録は確か……」
「手動で十一秒六。電気計時なら十一秒四八だ」
あらかじめ調べていたらしく、成田は細かい数字を口にした。
「凄いじゃないか。まだ高校二年なんだろう? これから、まだまだ伸びそうだ」
「と、誰もがそう思う。そうはうまく行かないから、こうやって話しをしに来ている」
「何か問題が? まさか、実は男だった、何て言うんじゃないだろうな」
菱谷の軽口を成田は真に受け、目をむいた。
「冗談じゃない。確かに彼女は胸は小さいが、可愛いお嬢さんだよ。会って見れば判る」
「すまん、言ってみただけだ。で、実際、何に困っている?」
「モチベーションだ」
「つまり、やる気がないって事か?」
「そうだ。誰もがうらやむ才能と素質の持ち主なのに、真面目に練習しようとしない。試合も面倒臭がって出ようとしない。現に、区大会でこの成績を収めたにも関わらず、市大会はキャンセルした。大会の日に、友達と映画を観に行く約束があった、ってのが理由でな」
「個人の自由だからな。やる気がないのを、無理にやらせるわけにもいくまい」
「冗談じゃない」成田は同じ台詞を繰り返した。「俺は、今までたくさんのアスリートを見てきたが、彼女ほど素晴らしい身体能力を持っている女子選手を見たことがない。女子陸上はマラソン以外、まるで国際レベルに達しないお寒い状況だ。だが、彼女はその現状を打破出来る力を持っている。こういう選手が核になって、陸上競技全体を引っ張っていかなければならないんだ。これは、個人の問題を超えている」
「随分な入れ込みようだな。ま、落ち着けよ。俺にどうしろと言うんだ」
「彼女にやる気を起こさせて欲しい。それだけだ」
「どうやって?」
「それを考えるのが、お前の仕事だろうが」
成田の言葉に、菱谷は溜め息をついた。
「全く……。気持ちは判らなくもないが。彼女が超一流選手になった暁には、それを無名時代から追っていたカメラマンって事で一山当てられるからな」
「やかましい。否定はせんが、それはお前も同じ条件だ。将来の懸かった大仕事だぞ」
「判った。とりあえず会ってみるよ」
「会えば判ると思うが」成田が念押しするように言う。「努力を超えた才能ってやつの存在を思い知らされるぞ」
「困るなあ、『素質は養うもの』が指導方針なのに。第一、個人指導は行っていないんだが……。まあいい、とりあえず会ってみるよ」
成田の依頼から三日後。予定に空きを作った菱谷は、水沢の通う讃輪大学付属高校のグランドに訪れていた。大学のほうにはオールウェザーと呼ばれる、競技場と同じつくりの豪華なトラックがあるが、高校には土のグランドがあるだけだ。
陸上の用語で言えば、アンツーカーと言うところか。菱谷はやや気勢を削がれる思いでグランドを眺めた。様々な部が入り乱れて練習している様は、とても日本記録を目指そうかという選手がトレーニングする環境には見えなかった。
彼は、水沢に会う前に、飾らない普段の様子を見たかった。写真を頼りに、彼女の姿を探す。不安がある。「やる気がない」と成田に言われているだけに、練習に顔を出していない可能性があるからだ。
が、すぐに見つかった。部の器具庫の前でぶらぶらしているだけなのだが、グランドの外縁でダッシュを繰り返している他の陸上部員とは違う輝きを放っている。
陸上部員に、監督の居場所を聞く。監督は校舎前の藤棚で、部員の練習ぶりを眺めていた。水沢の態度は見て見ぬ振りのようだった。
成田が事前に話を付けていたお陰で、監督との交渉はスムーズだった。
「正直なところ、手に余っていたんです」
長尾という名の気弱そうな監督は、救われたような顔つきで言った。彼の話によれば、彼が陸上をやっていたのは中学時代だけで、教師になる際に、体育会系の部の監督など考慮していなかったという。
「あのレベルに達してしまうと、とても私の指導では役に立ちません。彼女は、部の中で浮いた存在になっています。どうかよろしくお願いします」
監督に頭を下げられ、菱谷は安堵する反面、困惑していた。全国でトップレベルの選手を抱える部の監督となれば、そのステータスは大したものになる。その点に相手がこだわられば、説得が難しいと考えていたからだ。
(誰もが、野望を抱いているって訳じゃないんだな)
菱谷は当たり前の認識を新たにした。
「では、これから当人と話をしたいと思いますが、よろしいでしょうか」
「はい。お願いします」
監督に許可を得て、未だ器具庫の前でぼんやりしている水沢の元に向かう。
「どうも。水沢穂さん、だね」
「はい、そうですけど……?」
水沢は不思議そうな顔で菱谷を見た。
間近でみると、体つきが他の部員と違う事が良く判った。腕や脚の筋肉の付きかたは、激しいトレーニングの賜物のように見える。女性が筋肉を付けるのが難しい点を考えても、とても練習嫌いの選手の身体ではなかった。声もやや低く、男性的な要素を感じさせる。
ただ、あどけない表情が全体の印象を一変させている。
「あの、何か?」
「ああ。良かったよ。もし君が練習に顔を出していなかったら、どうしようかと思った」
菱谷が安堵の表情を隠さなかったので、水沢はくすりと笑った。
「どういうことですか?」
「監督さんにも伝えてあるんだが、君の指導――PNFトレーニングが中心になると思うが――に協力させてもらう事になった、菱谷圭一だ。よろしく。こっちとしては光栄だよ。何しろ、君は日本の女子陸上界を変えるかも知れない存在だからね」
手渡された名刺と菱谷の顔を見比べ、水沢は眉を寄せた。
「PNFってなんですか?」
「ああ、つまり、ストレッチングに筋力トレーニングの要素が組合わさったものだと考えてもらえばいい。筋肉に柔軟性を与えることで、その力を最大限に発揮できるようにするんだ。君の記録はまだ伸びる余地がある。頑張ってもらいたいね」
「そんなの、なんかやだな」
「普通の女子高生でいたい、って事かい?」
「……はい。それに、真面目に練習するのって、疲れるじゃないですか」
菱谷は年齢差を感じた。考え方が同じ訳がないと判っていても、一方的にこちらの主張を押しつける事もできない。今後の苦戦が予感された。
「疲れるのは嫌かい?」
「え? 当たり前じゃないですか」
水沢はまた不思議そうな顔をした。
「だって、遊んでたって、疲れるときは疲れるだろう?」
「それは疲れ方が違いますよ。楽しいことなら、疲れても平気です」
「つまりは、そういう事だ。要は、君が陸上を好きになってくれたら、こっちも助かるという訳だ」
「ふうん……」
「さてと。今日は挨拶だけだから、と」菱谷は腕時計に視線を落とした。
「もう帰るんですか?」
「ああ。ちょっと寄るところがあってね。また来るよ。話しが出来て良かった。これからよろしくな」
「はぁい……。あの」
「ん?」
「菱谷さんの事、なんて呼んだらいいですか?」
「そうだなあ……」
菱谷は意外な質問に、はたと困ってしまった。ここでコーチと呼ばせるのは感心しない。菱谷は具体的な陸上の指導を行うためにここにいる訳ではないのだ。
「先生、でいいですか?」
「あ、うん、構わないよ」
特に異論もない。菱谷は、とりあえずコミュニケーションが取れた事に満足してグランドを後にした。
次に菱谷が水沢の学校に訪れた時、彼はストップウォッチを持参していた。
その前に、長尾監督に基本的な練習メニューを確かめてあった。ウォーミングアップに続いて、二十メートルほど助走をつけての百メートルダッシュが十本。百、二百、四百メートルのどれかを適度な本数。その後、フォームを矯正するための腿上げと呼ばれる練習があり、ウエイトトレーニング、各自の専門種目の練習を練習時間が終わるまで行う。
菱谷がまず考えたのは、定期的にタイムの計測を行う事だった。自分の記録が伸びていると判ればやる気もでるし、落ちていたとしても課題を考えるようになるとの判断だった。
土のグランドでは、やはりいい環境とはいえない。菱谷は大学の陸上部の監督に、オールウェザーグランドの使用の許可を求めた。
相手は余りいい顔をしなかった。高校の長尾監督とは違い、自分の職域を侵されたくないとの考えがはっきり読みとれた。
結局、「いずれは、あなたの元で活躍することになる選手ですから」という殺し文句で納得させた。
他の部員の練習をなるべく妨げないよう注意しつつ、百メートル、二百メートル、四百メートルのタイムを計る。続いて、幅跳び、走り高跳びの記録も計測する。
水沢のフォームはやや前傾姿勢で、腰の位置が低く保たれたままトップスピードに入る。理論的には問題がないわけでも無かったが、いかにも速そうに見えるフォームだ。腕の振り、足の運び一つを取っても、他の女子選手にないキレがある。
見た目だけではなかった。実際、計測の結果はどれも鍛えれば日本記録を目指せそうなほどの凄さだった。百メートルは十二秒ジャスト。二百メートル二四秒四五。四百メートル五五秒二二。走り幅跳び五メートル七八。ただ、走り高跳びだけはフォームが身に付いていないので、一メートル四十と物足りない。一通りの指導は受けているとはいえ、成田が言った通り段違いの才能だ。
「何か専門種目を決めておこう。何がいい」
「百メートル走るだけじゃ駄目なんですか?」
「せっかくの能力を使わないのは勿体ない」
「能力……」
「そうだよ。人は自らの能力を発揮している時に、一番輝くんだ」
「うーん。ハードル、かな……」
水沢がためらいながらも笑顔で言う。
ハードルは身長の高さも記録に影響する、水沢は身長百六六センチ、体重五一キロと、陸上選手としては普通の体格である。取り立てて不利であるとは言えない。
そう考えた菱谷は即座に準備を始めた。大学の部員の手も借りて、すぐさまハードルが並べられる。この頃になると、水沢の走りに誰もが度肝を抜かれ、練習を止めて彼女の走りを見物しているという有様だったので、菱谷としては仕事がやりやすかった。
クラウチングスタートの構えは無造作とのイメージが強い。簡単に構えてしまう。
部員が気を利かせ、わざわざスターターとして合図用のピストルを持ち出してきた。
乾いた音が響くと同時に、弾かれたように水沢が飛び出す。
スタートからの加速が素晴らしい。ハードル走では、第一ハードルをうまくクリア出来るかが、記録の善し悪しに大きく関わってくる。それに加え、柔軟性とリズム感が重要である。その全てを、彼女は備えていた。
水沢は、力強く膝から脚を蹴りあげ、奇麗に第一ハードルを飛び越えた。
ほとんど練習していない筈なのに、足の運びは完璧に近い。リズムに乗って、次々にクリアしていく。障害の無いコースを走っているのでは、と錯覚するほどだ。
「いいぞ……!」
菱谷は記録を計りながら声を出していた。
最後に胸を張り、ゴールに飛び込む。菱谷のストップウォッチは十四秒一二を記録した。
「日本記録と約一秒差か。凄いな」
「あの……、もういっぺんお願いできますか。ちょっと納得出来ないんで。もっと速く走れます」
珍しく、水沢が闘志を見せていた。菱谷に異論のあるはずがない。
再測定。先ほどの走りが霞むほどのスピードに乗り、水沢はゴールを駆け抜けた。
「十三秒四一! 凄い、少し前の日本記録まで、百分の二秒差だ」
一気にタイムが跳ね上がっていた。記録の一覧表を確認して、菱谷が呻き声を上げる。
どこまで伸びるのだろう、菱谷は空恐ろしくなった。こんな逸材を、自分ごときが指導していいのだろうかとさえ思う。粗削りでこれだけの力を見せるのであれば、完成を見た暁には……。
こうして、比較的あっさりと実力の片鱗を知った菱谷だったが、その後が一苦労だった。気まぐれそのものの水沢が、いつもやる気になってくれるとは限らないのだった。
特に、菱谷の専門であるPNFを嫌がるのには手を焼いた。当たり前と言えば当たり前。PNFは水沢の身体に菱谷が手を触れ、補助する形で行わなければ効果が期待できない。水沢ならずとも、年頃の女の子が認めるはずもなかった。菱谷はそれを納得させる為だけに、一ヶ月を要する羽目になった。
当然の事ながら、菱谷は、水沢の指導だけを行っているわけではない。せいぜい週に二日か三日高校に顔を出して、気になった点を指摘するだけだ。大学のグランドを練習場所に確保した以外、大したことはしていない。
ただ、コンディショニング・コーチとして、身体能力の測定を念入りに継続し続けていた。単なる脚力だけではなく、握力、背筋といった数値も計測の対象だった。全般的な数値は確実に上昇していた。
練習嫌いとの成田の話だったが、実際、菱谷が学校に訪れた日でも練習をサボった事が一度ならずあって、菱谷は頭を痛めていた。
「ですが、菱谷さんのいらっしゃらない時はもっとひどいですよ。あれだけの逸材なんですから、もう少し自覚を持ってくれると良いんですが……」
菱谷が顔を出す度、長尾監督がこぼす。それは期待を暗示する言葉でもあって、菱谷の心に重くのしかかる。
「判ってますよ。……こっちもプロですから。意地でも水沢を本物の超一流選手に育ててみせます」
そう応じる菱谷はいつの間にか、水沢の体調管理にとどまらず、練習全体に指導を行う立場になっていた。監督も水沢本人も、ごく自然にそれを受け入れていた。菱谷は陸上の専門書を読みあさって、練習メニューを考えなくてはならなくなった。素材は超一級の選手が相手だから、やりがいはあるものの、難しい仕事だった。
――第二話に続く
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