『スプリント&ドリフト(改)』第二話(全五話)



 春休みのある日、菱谷がグランドに顔を出した時、水沢の姿はそこにはなかった。
「申し訳ありません、今日はちょっと練習出来ないもので……」
 長尾監督が冷や汗を浮かべて頭を下げる。
「なにか、あったんですか?」
「いや実はその、……肩を痛めてしまったもので」
「肩? 何かにぶつけたとか?」
「いえそうではなく……。昨日、槍投げの真似事をして遊んでいたらしいんです。それで調子にのって。まともなフォームも理解していないのに無茶をするから、それで。今日になって痛み出したらしくて」
「それは……。困りますね、そういうことでは」
 菱谷は露骨に顔をしかめる。
「申し訳ありません」
 平身低頭の長尾監督を見ると、菱谷もそれ以上は怒る気になれなかった。そもそも菱谷が横から口出しをすることが、水沢も長尾の存在を軽視する理由だと考えると、申し訳ない気さえしてくる。
「で、水沢はどこに?」
「保健室のほうです。湿布を貼ってもらってる筈です」
 長尾の答えに、菱谷は軽く唸った。
「ちょっと見てきましょう」

 菱谷が校舎に入り、不案内ながらも保健室の前に来た時、ちょうど水沢が扉を開けて出てくるところだった。
「どうだ肩の調子は」
 少し皮肉っぽく、菱谷は声を掛ける。
「監督に聞いたんですか?」
 なんとも冴えない顔の水沢が聞き返す。菱谷はうなずき、水沢の鼻先まで顔を近づけた。
「……なんですか?」
「どっちの肩だ?」
「……右です」
「ちょっと見せてみろ」
「え、やですよぉ……」
 水沢はたじろいだが、菱谷が強い調子で肩の具合を見せるよう要求するので、渋々体操服の袖をまくり上げて肩を見せた。
 市販の湿布薬が貼り付けられている肩をしばらく睨んでいた菱谷が、いきなりそれを引き剥がした。赤く腫れた肩が露わになる。同時に水沢が悲鳴を上げる。
「なにすんですかあ!? せっかく貼ってもらったのに!」
「こんなんじゃ駄目だ。……来い!」
「ど、どこへ……?」
 本気で腹を立てている菱谷は怯えた目で問い返す水沢の様子など無視した。
「俺の事務所だ。俺はお前が好記録を出せるよう雇われた。それが故障したとなれば、その治療にも責任を持つ」
 そういって、菱谷は水沢の左腕をとってぐいぐいと引っ張っていく。
「痛いです、ちゃんと歩けますから、離して下さい!」
 裏門近くの来客用駐車場。菱谷のRV車の前まで来たところで、水沢が憤然と腕をふりほどく。
「いいか、走るだけだからって腕が要らないなんてことにはならないんだ。身体のバランスはもっとも大事なんだ。肩を痛めては、全身の筋肉を生かして走れるわけがない」
「先生……」
 菱谷は水沢を、自分のRVの助手席に座らせた。エンジンを噴かせ、勢いよく走らせ始める。
「で? なんでまた槍投げなんだ? ハードルよりそっちに興味があるのか?」
「いえ、そういう訳じゃ……。大学の先輩達を見てたら、なんだか楽しそうで」
「投擲運動は必ずしも身体に好影響をもたらさない。きちんとしたフォームを身につけずに行えば、簡単に肩や肘を壊す」
 菱谷は自身の高校時代を思い出していた。まともなコーチもうけられず、ただひたすら投げ続けた結果、三年の夏には肘も肩もぼろぼろになって、使い物にならなくなっていた。
「……ごめんなさい」
 身体を小さくして水沢が頭を下げる。今まで見たことのない菱谷の厳しい表情に困惑している様子だったが、当の菱谷はそこまで気が回らない。
「心配するな。肩の故障とその治療に関しては特に詳しく研究してある。必ず治してやる」
 その言葉を受け、こわばっていた水沢の表情が緩んだ。つい軽口が口をつく。
「……先生、どうしてそこまで熱心に私のことを? あ、もしかして、私に気があるとか?」
「馬鹿いえ。お前ほどの逸材が、こんなくだらない故障で潰れちゃたまらないからな。それだけだ」
 憮然として言い返した菱谷だが、ふと思いついて問う。
「ところで、記録はどれくらいだ?」
「え?」
「だから、槍はどのくらい飛んだんだ?」
 水沢はしばし顎に指を当てて考え、そして口を開いた。
「ええと、追い風でしたけど、六十メートルに少し届かなかったくらいです。私、記録のことはよく判らないんですが、それでも先輩が誉めてくれました」
「……」
 屈託ない水沢の言葉に菱谷は絶句する。彼の知る日本槍投げの女子記録は六十メートル五十二センチであったからだ。
「……馬鹿肩だな」
 菱谷の小さなつぶやきは、水沢の耳には届かなかった。

 四月になり、水沢は三年生になった。その頃には菱谷の大げさとも思える治療が奏功し、肩の故障は完全に治っていた。再開された練習はインターハイに目標が絞られ、百、二百、ハードルの三種目のレベルアップを計る。
 この頃になると、百メートルはコンスタントに十一秒八を出せるところまで調子を上げていた。
 ゴールデンウィークに行われる市の記録会が、仕上がりぶりを試す舞台となった。
 水沢は、あくまでも讃輪大学付属高校陸上部部員である。競技会は部の単位で参加する事になるから、菱谷がずっと張り付いている訳にも行かない。
 もっとも、実際に走るのは水沢なのだから、特に気にする必要はない。菱谷は関係者がほとんどを占める競技場のスタンドの中段で、彼女の走りを見守ることにした。
「いいのか? 彼女に付いててやらなくて」
 成田が菱谷の横にやってきた。首と肩に、カメラ及び機材をあれこれとぶら下げている。そうする事で、自分がカメラマンであると主張しているかのようだった。
「俺がやるべき事はやった。何もしなくても十一秒九を出す選手だ。市大会レベルでどうこう言うまでもない」
「そうかなあ? 何だか不安そうな顔している」
 成田がファインダー越しに、他の陸上部員とウォーミングアップを行う水沢の様子を伺っていた。
「他の部員とはそりが合わないんだ。だから、つまらなさそうにしているんだろ。競技場入りする前に話した時は、特に問題は感じなかったが」
「うーん……。試合前にはちゃんと声掛けてやれよ。俺が何かアドバイスする訳にもいかんからな」
 それだけ言って、成田は好ポジションを探しに行ってしまった。
 余計なお世話だ、と菱谷は思ったが、確かにいつもの元気がないようにも見えた。調子を確かめておく必要があるかと思い直す。
 やがて大時計の針が九時半を指すと、選手がフィールド上に整列して、開会式が始まった。女子の百メートル予選はその後すぐである。菱谷は陸上連盟関係者の挨拶を聞き流し、腰を上げた。
 讃輪大学付属高校陸上部は、バックストレートの芝生のスタンドにシートを引き、場所を取っていた。スタンド外縁を通ってその場所まで行って待っていると、開会式を終えた選手がぞろぞろと戻ってくる。
 菱谷より先に水沢が相手の存在に気づいた。
「先生ー!」
 手を振りながら駆け寄ってくる。周りの眼を気にしている様子はまるでない。
「調子はどうだい」
「それ、朝も聞いたんじゃないですか?」
 水沢の様子は、いつもと変わりなかった。元気がないようには見えない。
 やはり、成田の思い過ごしだな。菱谷はそう結論づけた。
「どうかしましたか?」
「いや。場慣れしていないと、実力が出せないかと思ってな」
「私、一年の時から試合に出てるんですよ」
 初心者扱いするなとばかり、水沢が口をとがらせる。
「ああ、こっちが心配する事じゃなかったな。じゃあ、スタンドで観てるから」
「ちゃんと応援して下さいよぉ」
「判ってるよ。さあ、すぐに始まるぞ。早くスパイクに履き替えて来い」
 水沢のスパイクは、菱谷が注文した物だった。それまで水沢は、部が一年生用にまとめて注文したスパイクを使い続けていたのだ。
 菱谷は職業柄、用具の入手にも人脈がある。特注とはいかないが、かなりの品を手に入れることが出来た。
 スパイクの性能で、まだ記録の上積みが期待できるな。菱谷は一瞬湧いた不安を打ち消し、大記録達成の可能性に胸を躍らせていた。
 菱谷がスタンドに戻ってしばらくして、予選が始まった。水沢は最後から二つ目の組である。
 それまでの間は、菱谷には何とも退屈に思われた。水沢の走りを見慣れてしまったせいだろうか。予選を走る女子選手の全力疾走がスローモーションに見えた。
「真面目で地道なトレーニングの有用性を訴えておきながら、いざ天才を目の当たりにするとこの様か」
 菱谷は鼻を鳴らした。ここにいる陸上部員は、記録向上を目指して毎日練習を積み重ねて来ている。水沢がサボっていたとは言わないが、死にものぐるいの努力をしているわけではない。真面目な部員達の心境を思うと、心苦しいものがあった。
「結局は、どこに向かって走っているか、だな」
 スタートライン後方で身体を動かしていた水沢が、自分の番が回ってきたことを知ってブロックの前に出てくる。しきりにスタンドのほうを気にしている。どうやら、菱谷の姿を探しているらしい。
「仕方がないな……」
 かぶっていた野球帽を振って合図すると、水沢が気づいた。ようやくスタートブロックに足を乗せる。
号砲が鳴る。最初の二十メートルで勝負が付いていた。八人の集団からするすると抜け出した水沢は、驚異的なスピードを維持したままゴールラインを駆け抜けた。
 菱谷の手元のストップウォッチでの記録は十一秒六八。大会記録だったが、練習での自己記録からは百分の一六秒遅い。それでも、競技場のあちこちでどよめきが起こった。
 再び菱谷が陸上部のシートのほうに顔を出すと、水沢はVサインで彼を出迎えた。

 二百メートル予選でも、水沢は好記録を出した。午前中最後のトラック競技となる百メートルハードルで、水沢がスタートラインに現れた時には、競技場全体が静まり返った。この頃には誰もが水沢の驚異的な記録を知っていたからだ。
 普通ならばプレッシャーで耐えられなくなるような場面。そんな中、水沢はスタンドに向かって手を振って見せた。菱谷への合図だったのか、観衆へのアピールだったのかは判らない。
 期待が高まる中、水沢は十三秒二三でハードルが立ちふさがる百メートル間を走り抜けた。
 昼の休憩を挟んで、決勝が行われる。水沢の疾走の余韻を残したまま、トラック上から人影が消える。
「あ、いた。先生!」
 ふいに、菱谷の後ろから声が掛けられた。通路の階段に、陸上部のジャージを羽織った水沢がにこにこしながら立っている。
「調子は良さそうだな。決勝では好記録が期待出来そうだ」
「あの……」
「ん?」
「お弁当、作ってきたんですけど、一緒に食べませんか?」
 このあたりは、やはり女の子なんだな、と菱谷は大発見をしたような顔で水沢の笑顔を見た。自分の仕事はスポーツ用サイボーグを作ることではない。水沢の記録にとらわれ、危うく彼女の人間性を見失いそうになっていたと気づく。
「こりゃ、謝らないといけないな」
「駄目、なんですか……?」
「あぁ、いや。違う違う。君が料理をする姿を今まで一度も考えた事も無かったんで驚いたんだ。それで」
「なぁんだ」
 いざ水沢が弁当のふたを開けようとした時、成田が通路をもの凄い勢いで走ってきた。
「おい、菱谷! 呑気に飯食ってる場合じゃないぞ」
「どうした、何かあったか?」
 菱谷が成田の剣幕につられて腰を浮かす。
「あぁーっ、成田さんの分はありませんよ!」
 水沢が怒ったような声を出す。彼女は、遠い親戚という事もあり、菱谷と会う以前から成田を知っている。ただ、どういう訳か余り快くは思っていないらしい。
「何のことだ? そんなことより」成田は早口で言った。「羽田のところの東が怪我したらしいぞ」
「まさか! なんてことだ」
 羽田康行は成田と同じく、菱谷の高校時代の野球部のチームメイトである。彼は現在高校野球の監督をしていて、かつての夢の実現を狙っている。東義隆はチームの主砲として、最も期待されている選手である。菱谷は羽田が指揮する野球部のコンディショニングも担当しているので、成田が報告してきたのである。
「どうして、そっちに連絡が来るんだ?」
「ご挨拶だな。お前、携帯の電源を切ってるだろう? 連絡がつかんからって、羽田が俺に電話してきたんだ」
「そうだったか。とにかく、すぐに行かないとな」
「待て待て、病院の住所を聞いてある」
 慌てて立ち上がった菱谷に、成田がメモを押しつけた。
「済まない。聞いての通りだ。弁当を食べてる暇が無くなった」
「えぇー……! 病院に運ばれたんだったら、わざわざ先生が行くことないじゃないですかぁ」
 水沢が頬を膨らませて抗議する。
「本当に悪い。だけど、怪我の具合も気になるし、羽田と善後策を練る必要があるんだ。弁当は、成田と食べてくれ」
「……早く戻ってきて下さいよ」
 水沢が寂しそうな声を出す。
「判った。それじゃ。午後の決勝、期待しているから」
 菱谷は取るものもとりあえず、慌ただしくスタンドから飛び出していった。
「ふぇーん、せっかく作ったのに……」
 残された水沢が情けない溜め息をつく。
「まあ、あいつも忙しい身だからな。おっ、穂ちゃん、なかなかうまく出来てるじゃないか」
 成田が水沢が抱える弁当箱に手を伸ばした。途端にふたがパタンと閉じられる。
「成田さんの分はありません!」

 東の怪我は右足首捻挫だった。骨折していなかったのは不幸中の幸いだったが、お陰で菱谷は競技場に戻れなくなった。捻挫の直り具合は、初期治療に大きく左右される。夏の予選が近いこの時期、いい加減な治療で怪我を長引かせるわけには行かなかった。結果、ほとんどつきっきりの看病となった。
 捻挫の場合、時間を見計らって患部を冷やし続けなければならない。捻挫の患者が相手では、病院はそこまでやってくれない。菱谷は東の自宅に押し掛け、一人で一晩中看病を続けた。ほとんど徹夜だった。

 水沢の決勝の結果は、翌朝、お見舞いにやってきた成田が知らせてくれた。
 東の捻挫の具合は、菱谷の治療が功を奏して、長引かずに済みそうだった。菱谷は東に治療法を伝え、家を出た。成田の「家まで送る」との言葉に甘え、菱谷は成田が運転するRVの助手席に乗り込んだ。
「一言で言えば、散々、だな」
 改めて、成田は水沢の成績をそう評した。確かに、予選時の記録を上回った種目は一つも無かった。特に二百メートルでは、二位になっていた。予選の結果を見て監督に急遽参加させられた百メートルリレーでは、バトンを取り落とす失態を演じていた。
「俺が見てないと、さぼり癖が出てくるのか……? 困ったもんだ」
 東を看病し続けて目の下に隈を作った菱谷は、疲れ切った声を出した。
「そういう言い方は無いだろう? 彼女はお前がいなくて不安がってたんだぞ。さぼったんじゃない。走れなかったんだ」
「だから、それが困るんだ。日本の女子陸上界を背負う存在と言ったのはそっちだ。トップレベルの選手が、そんな情けない事でどうする」
「確かにそうかも知れんがな。彼女にとっちゃ、お前はただのコンディショニング・コーチじゃない。かけがえのないパートナーなんだ。それを判ってるんだろうな?」
 成田の言葉に、菱谷は声を失った。
「……確かに俺は、そこまでの覚悟をもっていなかった。ちゃんとした専属コーチが必要なのかもしれん」
「馬鹿いえ。そんなことで彼女が納得するかい」
「……」

 数日後、水沢の元に菱谷が顔を出したとき、水沢は案の定と言うべきか、すっかりむくれていた。大学グランドのホームストレートに面した場所にあるコンクリート製のスタンドに腰掛けたまま、動こうとさえしない。
「私のことなんか、どうでもいいと思ってるんでしょ!」
 そっぽを向いてしまう水沢に、菱谷は怒るというよりは呆れていた。
「確かに、試合を見てやれなかったのは悪かった。しかしな、俺が見ていることがそんなに大事なのか?」
 選手のメンタル面の把握が、これからの自分の課題だな、菱谷は自省しながら聞く。水沢の考えていることが全くといっていいほど掴めないからだ。ただのコンディショニング・コーチと本業のコーチとの差と言ってしまえばそれまでだが、水沢に関してはそれだけでは済まされない。彼が全面的な指導を任されているからだ。
「だって、見てもらいたかったんだもん……」
 試合を誰かに見せたいという感情を、菱谷はいまいち理解出来ないでいる。彼の経験によれば、野球の試合に出ることは、あくまでも自分の為だった。もし見せたい相手がいるとすれば、プロのスカウトか大学の野球関係者だけだっただろう。
 菱谷は大きく溜め息をついた。
「やっぱり、俺じゃ力不足なのかも知れないな。なぁ水沢、高体連か陸連にでも、指導を頼もうか? 今の成績だったら、二つ返事でOKしてくれるぞ」
 特に同意を求めての言葉ではなかった。だが、何気ない菱谷の一言に、水沢は予想外の反応を見せた。
「えっ、あの、先生……。そんなの、嫌です」
 取り乱した様子で言葉を詰まらせる。
「どうかしたか?」
「……私、練習します。メニューを教えて下さい」
 水沢はそそくさと立ち上がった。
「ん? ああ」
 何故急に水沢が練習する気になったのか、菱谷にはまるで判らなかった。

 夏休みを目前に控えた時期に行われた市の予選大会では、水沢は全力を発揮できなかった。菱谷が見ていたにも関わらず、だ。
 今まで、最高の記録を出そうと気負った経験など無い為、力の入れどころが良く判らなかったのが原因だ。
 とはいえ、記録がいまいちと感じているのは水沢と菱谷の二人だけといっても過言では無かった。百、二百、ハードルのどれもが県大会に進むのには十分すぎるほどの成績だったからだ。
「もう、判りました」
 大会終了直後には気の毒なほどしょげていた水沢だが、翌日には、練習前に水沢は菱谷に対し、悔しさの中にも余裕を見せた。「判った」とは、大会の感覚を掴んだという意味だ。飲み込みの非常に速い水沢がそう言うのなら大丈夫だろう、と菱谷も気に病む事なく、県大会に挑んだ。
 ところが、県大会の会場となる陸上競技場で彼らを待っていたのは、予想外に多いマスコミ陣だった。その中には成田の姿もあった。勿論、全国的に知られた選手に対するそれとは比べ物にならない程度の規模だったが、調子が崩れるのではと菱谷は緊張した。
「一体、どうなってるんだ?」
 ウォーミングアップにつきまとう記者を尻目に、菱谷は成田を捕まえて聞いた。
「あれだけの選手だ。マスコミが放っておかない」
「そんなもんか……? 大丈夫かな」
「なあに、これくらい、どうって事無い。相手は、俺達とは訳の違う天才だからな」
「だといいがな」
 菱谷の表情は厳しかった。ここまで、期待通りの記録とはいかない面があるからだ。
「そうだ。ジュンちゃんが来てるぞ」
 成田が唐突に言った。菱谷は眉を跳ね上げて反応を示した。
 ジュンちゃん││菱谷達の高校時代、野球部のマネージャーだった同級生、出浦純の事だった。
 高校時代の彼女は、敢えて気恥ずかしい表現を用いるなら、野球部のマドンナだった。気丈な性格ではあったが面倒見が良く、部員の全員が憧れていたと言っても過言ではない。菱谷も成田も例外ではなかった。結局彼女は誰のものにもならなかったが。
 出浦は大学進学後、新聞社に就職して、記者として活躍していた。その後数年前に取材を通じた人脈を頼りに退社して独立、フリーライターとしてあちこちの雑誌や新聞にコラムやエッセイを載せている。
 高校時代のマネージャー経験が生きているのか、スポーツ、特に野球に関する話題には特に冴えを見せている。仕事柄、成田とは顔を合わせる機会も多いらしいが、菱谷は高校卒業後一度も会っていない。
「取材にか?」
「あぁ。さすがに勘がいい。一発で話題性を見抜いてる」
「良く会うのか?」
「まあな。持ちつ持たれつだよ」
 菱谷の口調に羨望の色を感じ取ったのか、成田はにやりとして見せた。
「へっ、それじゃ、お前が彼女を焚き付けたんだな?」
「まあな。後で会ってこいよ。いいネタを一つ二つ教えてやれば、きっと喜ぶぜ」
「今更、出浦さんのご機嫌を取る気にはなれん。俺は、水沢のメンタル面のほうが心配だよ」
「相変わらずだな」
 成田がつまらなさそうな顔をした。

 菱谷の心配は、結果的には全くの杞憂だった。県大会の記録は、菱谷でさえ興奮を抑えかねるほどの好成績となったからだ。特にハードルは、追い風参考ながら、日本記録を百分の四秒も上回っていた。記録が表示された瞬間は、当人よりも周りの人間が熱くなっていた。
「いよいよ、日本記録更新が見えてきたな」
 スタンド裏の通路。ハードルを走り終えたばかりで、まだ息を弾ませている水沢に菱谷が手を差し出した。水沢は嬉しそうに握手する。その様子を成田が待ってましたとばかり写真に収めた。
「先生のお陰です」
 長尾監督や他の部員もいる前で、水沢は頬を上気させ、臆面もなく言い放った。
本当なら、長尾監督はプライドを傷つけられたとしてもおかしくはない。だが、彼自身は自分の力量を客観的に見ているようだった。大して気分を害した様子もない。それどころか、
「私も、お陰で面目が立ちます」
 と、逆に菱谷を持ち上げる有様だ。
 水沢にくっついていた記者が、菱谷に注目してコメントを求めてくる。
「私も特別なことは何もしていません、全ては水沢自身の努力の結果ですよ」
 菱谷は正直に、そう応じざるを得なかった。

「相変わらずの台詞よね。本当は自分の功績だと思ってるくせに」
 記者がある程度散った後、辛辣な言葉が菱谷の背後から浴びせられる。
 振り返った菱谷は最初、その発言者が出浦であることに気づかなかった。成田に前もって教えて貰っていなければ、相手が名乗るまで判らなかったかも知れない。それほど、彼女の印象は高校時代とは変わっていた。
 マネージャー時代の土埃の匂いは微塵も感じさせなかった。理知的な表情がひどく印象的である。
「……やぁ。成田から聞いてはいたんだが。見違えたよ」
 なんとか冷静さを取り繕おうとした菱谷だが、先制した出浦のほうが数段余裕があった。
「答えになっていないわね」
 菱谷の狼狽ぶりがおかしいのか、出浦が口元を緩める。
「あぁ、いや。つまり……」
「先生に何か文句があるんですかぁ?」
 二人のやりとりを不満げに見ていた水沢が口をとがらせ、出浦を睨み付ける。
 一方の出浦は、水沢と菱谷の顔を交互に見比べ、やがて楽しげな顔で頷いた。
「ま、今日は挨拶だけで退散するわ。……これからもバンバンいい記録を出して頂戴ね、水沢さん」
 出浦は二人に名刺を手渡すと、返事も待たず去っていった。
「ふん、だ!」
 水沢は出浦の後ろ姿に舌を出して見せた。菱谷の方は、あんな態度で他の取材も大丈夫なんだろうかと、ひとごとながら不安になっていた。

 噂とは、予想外に簡単に広がるものらしい。『コンディショニング・トレーナーの菱谷圭一が、水沢の能力を大きく引き出した』と、あちこちから講演依頼や指導の要請が舞い込むようになった。意外にも、と言うべきか、出浦がスポーツの専門誌に載せた記事も、彼の実力を評価するものだった。高校時代のエピソードを絡めて書いてあるのには参ったが。それが出浦の持ち味なのだと思うと、取り立てて文句を言う気にはならなかった。
(それはともかくとして、俺は実際、何をしたのだろうか)
 評価だけが一人歩きする中、菱谷は繰り返し自問するようになっている。
 水沢の驚異的な記録の伸びは、彼女が本来持っている能力が現れてきたに過ぎない。菱谷がやったことは、せいぜいが水沢の能力を数値に置き換え、その増減を計測し続けていたに過ぎない。勿論、彼の売りである科学的トレーニングは重点的に行っている。だが、一番の問題であったモチベーションを彼女に与えた自信は持てないでいる。
「ま、記録が伸びているうちはいいんじゃないか? 名コーチって評価を有り難く頂いておけばいい」
 第三者の成田は気楽なものだ。しばしばそう言って菱谷をからかう。
そして菱谷の葛藤とは関係なく、日は過ぎていく。変わったことといえば、週三日の割合だった水沢の指導が、週二日になった程度だ。皮肉な話だが、水沢によって菱谷の株が上がったのが原因だ。
「どうしてもっと、コーチに来てくれないんですか?」
 それが水沢には不満らしい。大学のグランドを借りてのいつもの練習の途中、そんな言葉を漏らした。
「コーチは結局コーチでしかない。走るのは選手である水沢だ。俺の存在意義なんて、水沢の潜在能力に比べればちっぽけなものだよ」
「そんなことはありません!」水沢はむきになって反論する。「私、先生のお陰でやっと陸上が面白くなってきたんです。もっと色々な事を教えて欲しいのに……」
「水沢が頑張ってくれたから、こっちの評価も上がってるんだ。商売繁盛だよ」
 菱谷は冗談めかして言うが、その顔は言葉ほど明るい訳では無い。本心では、水沢の能力がどこまで伸びるか、指導を通じて見届けたいとの気持ちがあるからだ。
「先生の為に、私は走ってるんですか?」
 独り言を呟くような水沢の口調。そう言われると菱谷は何も言い返せない。
「水沢が走るのは、水沢自身の為だよ」
 ただ、そう答えるしかない。
「いえ、いいんです。先生の為で。私、そのほうが頑張れます。先生に誉めてもらったら嬉しいし……」
 何気ない呟きだったかも知れない。だが、水沢のこの言葉の重みを、後々菱谷は感じることになる。


 ――第三話に続く

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