『スプリント&ドリフト(改)』第三話(全五話)
インターハイまで一ヶ月を切ったある日。菱谷の事務所に、思いがけない客人が訪れた。日本体育連盟の役員と、長尾監督だった。
「水沢が、何か?」
全国レベルのアスリートを相手にする体連役員と、冴えない一介の高校の陸上部監督を見比べつつ、菱谷が聞く。
「なんと言いますか、非常に難しい問題が発生したのです」
役員は苦渋に満ちた顔つきで切り出した。菱谷は、相手が大っぴらに出来ない問題を抱えている事に出迎えてすぐ気付いていた。従業員を適当な理由を付けて買い物に行かせたくらいだ。
「菱谷さんも、女子選手の性別検査についてはご存じでしょう。実は、水沢選手の記録が余りにも素晴らしいので……、その、万全を期すという形で、あくまでも念のためにですね、性別検査を実施させて頂いたのです」
(まさか!)
菱谷の全身に悪寒が走る。懸命に口を挟みたくなる衝動を抑え、話に耳を傾ける。
「水沢選手の学校で、献血を呼びかける日がありまして、その際、水沢選手の血液を採取し、染色体を検査致しました。今回は血液検査だけで、その、人道上に関わる外診は行っておりません」
「……それで、結果は」
「水沢選手の染色体はXXY型であることが、複数の医師によって確認されました。なお、この検査は、匿名で行われておりますので、体連の一部の関係者しか、まだこの事実を知りません」
菱谷は目の前が真っ暗になるというたとえが、現実に沿った表現であると思い知った。
有性生殖をする生物の性別の大部分は、性染色体によって決定される。人間も当然例外ではない。人間の場合、男性はX染色体とY染色体を一つずつ、女性はX染色体を二つ持つ。ところがごくまれに、染色体を三つ持つ人間がいる。XXYの場合、外見はほとんど女性と変わらないと言われている。だが、医学的に女性とは言えない。
「それを、どうして私に」
懸命に絞り出した菱谷の問いに、長尾監督が応じた。
「私のほうから、お願いしました。菱谷さんは水沢の体調管理に尽力されておりますし、当然知る権利があると判断したのです」
「それは……どうも。で、水沢には?」
役員と長尾監督が同時に首を振る。
「水沢選手の染色体異常が確認され、医学上女性でないと判断された以上、競技会への出場は不可能です。ですから、今後どうするか、慎重に協議する必要があります」
「それを、菱谷さんにお任せしたいと思い、こうして伺った訳です」
長尾の言葉に、菱谷は顔をひきつらせた。水沢への選手生命の死刑宣告を、菱谷に押しつけようとの魂胆に気づいたからだった。彼女がどんな反応を見せるか、考えただけでも気が重い。
「水沢は、菱谷さんを大変信頼しております。ですから、菱谷さんのほうから話して頂けるのなら、水沢も比較的ショックを受けず、現実を受け入れると思うんです」
長尾が念を押すように言った。
菱谷は迷ったが、もはや聞いてしまった以上、否は無かった。苦虫を噛み潰す表情で菱谷が了承すると、役員と長尾は憎らしいほど安堵の表情を見せて帰っていった。
「どうすりゃいいんだ……」
菱谷は頭を抱え込んだ。気がつくと、成田に電話を掛けていた。
成田に真実を話していいものか、一瞬悩んだ。結局、相手は水沢の将来を案じる親戚なのだと言い聞かせ、ありのままを伝えた。
しばし、受話器の向こうが沈黙した。
『それは、選手生命が断たれたってことなのか……?』
「そうだ。彼女は医学的にみた場合、女性とは言えないんだ」
『馬鹿な! 何が、医学的、だ! どう見たって、穂ちゃんは女の子だ』
「……以前、メンス、いや、正確には初潮が来ない、と相談された事がある。運動をやっている女性にはしばしばある事だから気にするなと教えたし、実際こっちも気に留めていなかったんだが……」
『どういう事だよ』
「染色体XXY型の人間は、社会生活のほとんどを健常者と変わらずに過ごせる」ここまで言って、菱谷は言葉を切った。それから罪を自白するような口調で続けた。「ただ一つの相違点は、子供を産めない事だ」
『……!』
成田が声にならないうめき声を出す。
「なあ成田。俺にはどうしていいか判らん。水沢は社会的には明らかに女性だ。だが、いくらその事を強調しても、彼女が何の衝撃も受けないとは考えられない。事は、陸上選手でいられないだけでは済まないんだ」
『だが、黙っている訳にも行かんだろう?』
「そうだ。だから困っている」
その後、しばらくやりとりがあったが、最後まで結論が出ないまま、電話を切った。
水沢の指導は、明日にも予定があった。本当なら今すぐ伝えるべきなのだろうが、どうしても踏ん切りがつかない。菱谷は他の仕事を言い訳にして、問題を先送りにした。その間に、穏便に話を進める方法を考えた。しかしながら、名案がそう簡単に浮かぶはずもない。翌日、菱谷は覚悟を決めて水沢の元に向かった。
いつも練習を始める場所である、大学のグランドのスタンドの脇。
その日、水沢は制服姿のまま、そこに立っていた。
「水沢。実はな……」
「……成田さんから聞きました。私、女じゃ無かったんですね」
「!」
見ると、水沢の眼元には、泣きはらした後があった。だが、無理をして笑顔を保っている。菱谷を逆に気遣ってのことらしい。菱谷はより一層胸の苦しさを覚えた。
成田が、苦悩する菱谷の代わりに汚れ役をかって出てくれたのだ。菱谷は成田に感謝すると同時に、己の責任を放棄し、全う出来なかった自分に、猛烈な自己嫌悪を感じた。
「済まないっ……! 俺は……」
「そんなぁ……。先生のせいなんかじゃないですよ。たとえ、私が先生の指導を受けずに、好記録も出さなくて、普通に生活していても、私は私。最初から女じゃなかったんですよ」
「しかし、能力は発揮するべきだと教え、記録の世界に引っぱり出した責任は……。世間から注目されるほどの記録を出したばかりに、こんな事になるなんて」
「もう、いいですってば。謝られても困ります。……男の部分が混じってるんなら、少しくらい足が速くても、当たり前だったんですね。それなのに調子に乗っちゃって、馬鹿みたい……」
「水沢……」
菱谷は、掛けるべき言葉を思いつけなかった。どんな言葉も、気休めにすらならない。
「でも、私、これでも割と結婚願望があったんですよ。一度くらい、結婚してみたかったなあ」
「君は社会的には立派な女性だよ。結婚だって出来る」
「でも、子供は作れないんでしょ……」
「それは……。だが、子宝に恵まれない身体の女性でも、たくさんの人がちゃんと結婚している。心配はいらない」
再び自己嫌悪に陥る。彼女が『自分が医学的に女性でない事』を知ってしまった事が問題なのだと、菱谷自身が気づいているからだ。
彼女が自分の染色体異常を知ってしまった以上、交際相手のその事実を告げるか、隠しとおさなくてはならない。どちらにしても、苦渋の選択になる。
水沢が、懸命に作っていた笑顔を消した。目元には涙が見える。
「じゃあ、私と結婚してくれますか?」
「水沢、何を……」
唐突な水沢の言葉に、菱谷は困惑した。
「あ……! ごめんなさい。今のは、忘れて下さい」
水沢は自分の言った言葉の意味に気づき、頬を赤くしていた。
その日は練習をする事もなく、早々に菱谷はグランドを後にした。とても長話をする心境にならなかった。
菱谷はその足で図書館に向かった。染色体異常に関する曖昧な知識を整理するためだ。
遺伝に関する生物学の本を手に取っては、索引で「染色体異常」を探す。
その結果、染色体がXXY型は、クラインフェルター氏症候群と呼ばれ、医学的には雄であり、生殖能力を持たない事、乳房の肥大や精神薄弱が現れやすい事、新生児の千人に一・七人の確率で起こりうる事などを知った。
ただ、どの本を調べても、外見上は男であると書かれているのが気になった。
「水沢は女の子にしか見えないぞ……? 染色体異常の他のパターンだったのか?」
もっとも、たとえばXXX型やXO型の異常であれば、医学上女性として認められるのだから、これほど問題にする必要もないはずである。第一、過去において同じように染色体異常が理由でグランドを去った女子選手は数多く存在している。
(結局は、個人差なのだろうな)
と、菱谷は結論づける。染色体に異常が無くても、女性的な男性も男性的な女性もいる。水沢の場合、女性的な特徴が多く発現していたのだろう。
「それにしても、ひどい……!」
一時間近く本を調べ続けた菱谷は、閲覧用の席で大きく伸びをしてから、思わず盛大に溜め息を付いた。静かに本を読んでいた数名が何事かと怪訝な顔を上げたほどだった。
菱谷は、冷徹に記された染色体異常の症例の数々に、ひどくショックを受けていた。それらに比べると、水沢は奇跡的なまでに恵まれているとも感じた。
実際、クラインフェルター氏症候群が運動能力に優れているとの記述は、どこにも見あたらなかった。彼女の素質は、染色体異常とは何の関係もない。
それに、今までの言動を見る限り、水沢は人並みの知性と感性を持っている。やや情緒不安定なところもあるが、素晴らしい集中力を発揮する時もある。社会生活を送るのに、何の支障もない。
そこまで考えて、菱谷は再び、今度は小さく溜め息をつく。
水沢の能力が優れているだけに、染色体異常という壁がなんとも恨めしく思われたのだった。
菱谷はふと、小学校の一時期、日曜日には教会で礼拝に参加していた昔を思い出した。幸いにも、輸血や日本の祭りや進化論を拒否する非社会性を持ち合わせることなく成長したが、神の存在は信じていた。野球の試合中に、心の中で加護を願った経験は一度や二度ではない。
だが。今回ばかりは、彼は神の存在を疑いたくなった。この試練は過酷すぎる。克服のしようもない。
(もしこれが神の悪戯などと言うのなら、俺は神など信じないぞ!)
その晩、菱谷は千里ニュータウンにある水沢の家を訪れた。彼女の両親に事情を説明するためだった。
「これは、わざわざどうも……。娘は、気分が優れないと言って自分の部屋で寝ております。……どうぞ上がって下さい。狭いところですが」
玄関先で菱谷を出迎えた両親は、共に五十代半ばに見えた。十八歳の娘を持つ親にしては少し歳を取っている。
応接間に迎え入れられた菱谷は話を切り出すのに相当の勇気を必要とした。が、意外にも両親は水沢の染色体異常について、前々から知っていたという。
「私達は結婚して五年以上も、子供に恵まれませんでした。これはもう、どちらかに問題があるのだと諦め掛けた時、あの子を授かったんです」
洋風の応接間のソファに座る水沢の父親が言った。その姿はひどくやつれ、頼りなく菱谷の目に映った。
母親がコーヒーを二人に運んできた。それを置き、そのまま父親の横に腰を下ろす。
「私は三十過ぎての初めての妊娠で、正直言って、とても不安でした。だから、元気にあの子が生まれた時は、本当に嬉しくて……」
そう語る母親の口調には、まるで水沢がこの世の者ではなくなったかのような暗い響きがあった。勿論当人は気づいていない。
染色体異常は、母親の出産時年齢が大きく影響する。高年齢になるほどその発生率は上昇する傾向がある。菱谷は図書館で仕入れた知識を思い起こした。
「それで、いつ頃から、その、染色体の問題に……?」
「あの子が生まれてすぐです。外診で、お医者様が気づかれまして。検査してみたら、XXY型だと判ったのです」
母親がそう答えると、しばらく三人とも黙り込んでしまった。菱谷にしてみれば、事情の説明が不要だと判った以上、話すべき事も特になくなってしまったといえる。気まずい沈黙が続いたが、結局それは菱谷によって破られねばならなかった。
「女の子として育てようと思われたのは、どうしてです?」
菱谷はそう口にして、余りにも非難めいた言葉であることに自分で驚いた。あたかも今回の問題の責任を、両親に全て押しつけようとする感じさえ伺えた。
「それは、まあ……。見分ける一番の特徴があれでは、とても、男の子だとは言えませんでした。ただ、大きくなっていく内に、顔つきが男にしか見えなくなったらどうするか、それが心配でした。幸い、親の目にも、十分女の子らしくなって、安心していたのに……」
「『穂』という名前も、男の子としても女の子としても通用するようにと考えた名前だったんです」
水沢の両親は、全て過去形で話していた。その言葉の端々に、今まで守り通してきた何かを失った悲しみが溢れていた。
(だが、まだこの事実はごくわずかな人間しか知らない事だ。何も、敢えて大々的に公にするような話ではない)
水沢が陸上競技の大会に出られない以上、菱谷がこれ以上指導を続ける理由も必要性も無くなった。菱谷はこのまま放って置くつもりはなかったが、しばらくはそっとしておいたほうがいいと考えていた。
だが、水谷の将来を心から案じている哀れな両親を前にして、知らぬ振りは出来ないと思い知らされた。
「安心して下さい。なんとか、今までと変わらぬ生活が出来るよう、努力してみます」
「どうか、よろしくお願いします。娘は、先生のことをよく話してくれました。今まで、とても良くして下さったそうで。勝手な頼みとは思いますが、娘の苦しみを和らげてやって下さい」
深々と頭を下げる両親。菱谷は決意を一層新たにした。
翌日から、菱谷は陸連・体連の関係者を精力的に訪問した。全ては、自然な形で水沢を陸上界から身を引かせるシナリオを作り上げるためだった。
数日後。
当の水沢から電話が掛かってきた。会って話がしたいとの事だった。
気持ちの整理がついているか確かめるためにも、菱谷は快く申し出を受けた。
「近くまで、散歩しませんか?」
待ち合わせ場所は高校の校門前。私服姿の水沢は、菱谷と挨拶を交わすのもそこそこに歩き出す。
学校近くの緑地公園に入ったところで立ち止まる。夏休みであり、様々な世代の人達が行き交っている。
「先生、高校球児だったんですよね」
ふいに、水沢が聞く。
「うん。ピッチャーをやってた」
答えた菱谷は、ふと、区大会での一件を思い出した。結局、羽田の野球部は、四回戦まで勝ち進んだものの、惜しくも予選敗退していた。彼らを倒したチームは結局府の代表になった。
「前、肘を痛めて野球を諦めたって言ってましたけど。その時、どんな気持ちでしたか?」
「そうだなあ……。俺の場合は三年で、夏の予選が終わった段階で、これ以上無理だと医者に言われたからなあ。一通りやり終えた後だから……、水沢が感じているほどのショックは無かった。大学のセレクションを受けられないのは参ったけど」
「……」
「済まないな。何か気の利いた事を教えてあげられればいいんだが」
「いえ」
水沢が黙ってしまうと、嫌な沈黙が訪れた。菱谷は、自分の方から何か話をしなければと思うのだが、言葉が出てこない。
「野球って、面白いですか?」
「水沢は野球のルールが判るか?」
「大体は」
「野球の面白いところはな」菱谷は、言葉を選びながら話し始める。「ごく単純なように見えて、実は底知れない奥深さを持っている点だ。ルールを知らない者にとっては、投げられたボールをバットで打つ、野球はそれだけのスポーツだ。しかし、ルールブックの分厚さ一つ取ってみても、本質がそれだけでは言い足りない事が判る。走・攻・投・守、それぞれが複雑に絡み合っていて、とても一言では言い表せられない」
「それが魅力……?」
「いや、ただ複雑なだけが魅力とは言えない。どんなに複雑なルールがあっても、本質的にパワーとスピードのある選手が活躍出来る。それでいて、より緻密で頭脳的なプレーで、時にはパワーとスピードを凌駕出来る時もある。そのバランスがいいんだ」
「へぇ……。私、団体種目って、本格的にやったこと無いんです。チームプレーとか、団結力とかが苦手だし」
「野球はただのチームプレーを要求しはしない。むしろ、限りなく個人競技に近いスポーツだ」
「え、そうなんですか?」
「野球は基本的に九人で行う。だけど、打順があり、攻撃側は一人で相対しなければならない。それは守備側でも同じ事。マウンドに登るのはたった一人。他の八人も、それぞれに守備位置が決まっていて、みんな違う役割を与えられる」
「でも、個人技に走ったら勝てないんでしょう? 管理野球って、よく言うじゃないですか」
「あれはな」菱谷は言葉を切った。つい、熱のこもった話し方をしているのに気づいたからだ。
「?」水沢が首を傾げている。
「こんな話、面白いか?」
「はい。続けて下さい」
表情を見る限り、水沢の言葉に嘘は無いようだった。菱谷が一呼吸置いて続ける。
「管理野球が選手にとって面白くないというのは、自分が何をやっているか理解出来ていないからだ。選手にはそれぞれ特性がある。監督はその特性を見抜き、見合った仕事を与える。送りバントとかだな。選手である以上、自分が何が出来て、何が出来ないかを把握しておかなければならない。何でもかんでもホームラン狙いというのは、本当の野球とは言えない」
「面白そうですね。……何だか、野球がやりたくなっちゃったなあ」
「じゃあ、バッティング・ センターにでも行ってみるか? 野球の一部が判る」
菱谷にしてみれば、半ば冗談のつもりだった。が、水沢は意に反して嬉しそうにうなずいた。
公園から歩いて十分のところにあるバッティングセンターは、親子連れが一組いるだけで、すいていた。
「水沢は、利き腕はどっちだ?」
「右です」
菱谷は見本を見せるために先にゲージに入った。備え付けの金属バットを手に取り、右打席で構える。
「利き腕と逆の手がグリップの下に来る」
菱谷はコインを投入口に入れた。マシンが作動する。
アーム式のマシンが等間隔で三十球を投じた。さすがに勘はいささか鈍っていたが、元高校球児の打球はしばしばホームランコースを描いた。
「凄ぉい!」
水沢が大げさにはしゃぐ。菱谷はバットを持ったままゲージを出た。
「ほら」
バットを手渡された水沢は、ゲージの中で、見よう見まねで構えてみせた。一度ブルンとバットを振り回す。
「左の脇を開けないようにして振るんだ。バットは上から振って、ボールを叩き付けるように打つ」
菱谷は、いきなり本格的な指導を行っているような錯覚を覚えた。馬鹿馬鹿しいと思う。しかし反面、水沢の気が晴れるならそれで構わないと思う。
数度の素振りで、見違えるほどヘッドスピードが速くなった。
「そろそろ、ボールが打てるかな?」
水沢が入ったゲージは、マシンは時速百キロの球を投げるようセットされている。素人なら男でも、最初の十球はまるで打てないのが普通である。
たぶん、水沢も同じだろう。かえってストレスが溜まる結果も、十分予測出来た。だが。
(冷静に考えればその筈なのに、何故俺は、こんなにも期待して水沢を見ている?)
菱谷が自問する。
「行きまーす」
水沢はコインを入れ、急いで構えた。
機械のランプが灯り、アームがゆっくりと回転する。
初球。水沢がバットを旋回させる。
カキン、と気持ちの良い打球音。ボールはライナーですっ飛んでいった。
「!」
菱谷は思わず目を見開いた。だが、二球目、三球目は空振り。四球目は真上に上がった。五球目も空振り。
「全然当たらないよぉー!」
助けを求めるように水沢が後ろを見る。
「タイミングが遅れてる。もっとマシン側でボールを叩くようにしたほうがいい。バットの持ち方は、小指の握りを意識して。握る位置は今より指二本分上」
六球目。これも空振り。
「ボールの下を振っている。ボール一個分、イメージより上を振る」
次第に、アドバイスにも熱が入り始める。それにつれて、水沢の打球は確実に芯に捉えられた鋭いものになっていく。
最後に、強烈な当たりをマシンを防護するネットに叩き付けて、三十球が終わった。
「どうだ? 感想は」
ゲージを出た水沢に菱谷が問いかける。
「手が痛いです。でも、面白かった!」
「手が痛いのは、握力が足りなくて球威に押されているからだな。でも、最初にしたら上出来だよ」
「先生が色々教えてくれたから……です」
コンディショニングならともかく、実際の競技で何か教えるほどの知識があるとすれば、野球しかない。菱谷は、正直にそう打ち明けた。
「だから俺が今まで水沢を指導してきたのは、随分と力不足だったと思う」
「そんなことは……」
一週間ほどして、また水沢から電話があった。例のバッティングセンターに行きたいという。
声の調子は大分落ち着いたものになっていた。一方の菱谷は、それだけでは単純に喜べない。
(自分を頼りにしてくれるのは嬉しいが、早く彼女の新しい道を見つけてやらないと……)
新しい道は、必ずしもスポーツとは限らないだろう。だが、彼女がスポーツを辞めるには、難問が一つ残ったままだった。
それは、いままで素晴らしい記録を残しておきながら、どうしてインターハイに出ないのか、理由を関係者に説明することだった。
染色体異常の事実は、ごく一部の人間しか知らない。公表しても、何も得にならない。他の、判りやすい理由が必要だった。怪我・故障では一時凌ぎにしかならない。
並の選手なら、辞めようがどうしようが、誰かに説明する必要はない。だが、水沢はオリンピック代表候補とまで言われたトップアスリートである。引退会見の一つも行って、納得の行く理由を説明しなければ、あれこれと詮索されかねない。
勿論、他の理由をでっち上げる事は可能だ。しかし、水沢の今後を考えると、どうすべきなのか、良く判らなくなる。
菱谷の今の仕事は、彼女を円満に陸上から足を洗わせ、新しい何かを始めさせる事である。そろそろ陸上関係の記者が、練習を全く行っていない水沢の動きを気にし始めている頃だろう。急がねばならない。
一週間の間通い詰めていたのか、水沢のバッティングは見違えるほど良くなっていた。
こんな才能もあったのかと、菱谷は驚きを隠せない。
「どうですか?」
「前よりずっと良くなってるよ」
「へへ。じゃあ、今度はキャッチボールを教えて下さい」
水沢は、用意していたゴム製のおもちゃのボールを持って、緑地公園の芝生に菱谷を連れていった。
「どうしてキャッチボールなんて?」
「これも、野球の一部でしょ? 野球なら教えられるって、先生言ったじゃないですか」
そう言いながら、十メートルほど離れた水沢が菱谷にゴムボールを投げる。
いわゆる『女の子投げ』。掌にボールを乗せ、押し出すような投げ方だ。
「しょうがないな……」
菱谷は、水沢の考えていることがまるで判らなかった。それでも、ボールの握り方から丁寧に教え始める。
「ボールは、中指・人差し指と、親指で挟む形で握るんだ。投げるときは大きく腕を振る」
菱谷は、水沢の背中から彼女の両手首を持ち、腕を動かした。
「ボールを指先から話す瞬間に、手首をすばやく切る。指先で弾く感覚を意識して投げるといい。全身を使わないと、飛距離も制球力もつかない」
「こうですか?」
三球ほど投げると、たちまち綺麗なフォームに生まれ変わっていた。
三十分ばかりの指導が終わる頃にはコントロールも付き、二十メートル以上の間隔があいても、難なくキャッチボールが出来るようになった。
「私、野球をやりたいな……」
額の汗を吹きながら、水沢が呟く。
「大学野球か? 確か、明大にジョディ=ハーラーって投手がいたが、結局途中で退部して――」
「大学じゃありません。それだと、今陸上を辞める理由にならない」
水沢が野球をやるのは自由だが、それは大学に入ってからでも出来ることだ。インターハイ出場を諦める理由にはならない。
「それを陸上引退の理由にするつもりか? じゃあ?」
「プロ野球です! 確か、プロは男女差別なく入団できるって聞きました」
唐突な話に、菱谷は面食らった。
「確かに、かつて、オリックスで女子選手が入団テストを受験したって話しは聞いたことがあるが」
「それです。私、オリックスのテストに挑戦します! 一応地元だし、ちょうどいい……」
「本気か?」菱谷は水沢の眼を見つめた。真剣な眼差しが返ってくる。
「もちろんです。それで……、その、指導をお願い出来ますか。野球なら、教えてもらえるって……」
「うーん。だけど、ビジネスとしての依頼なら、お金がいるぞ。こんな事は言いたくないけど、商売だからね」
しばらく黙っていた水沢が、上目使いで聞く。
「出世払い……ってのは、駄目ですか?」
その子供じみた仕草に、思わず菱谷は口元を緩ませた。
盆休みをまもなく迎えようかとしているある日曜日。綺麗な夕焼けに赤く色づけられた野球グランドに、成田が顔を出した。
そこは、羽田の野球部が使っている専用グランドだった。今は練習は行われていないので、部員の姿はない。
「こんな所に呼び出して、どういうつもりだ?」
一塁側ダグアウトのベンチには、スポーツウェアを着込んだ菱谷がどっかと座っていた。
「準備はして来ているだろうな?」
「ああ。言われたとおり、キャーミを持ってきてある」
成田は、紙袋に放り込んであったキャッチャーミットを取り出した。高校時代、彼が愛用していたものだ。今では草野球程度でしか活躍の機会がないが、手入れは怠っていない。
「よし。プロテクターや面は、ここにあるのを使わせて貰う。羽田にも許可は取ってある」
「今更、かつてのバッテリーの再現でもあるまい。何を始める気だ? 大体――」
「あれぇ、成田さんじゃないですか。どうしたんです?」
後ろから声が掛けられた。成田が振り返ると、水沢が立っていた。野球の練習用ユニフォームに身を包み、ヘルメットをかぶり、手には木製バットが握られている。
「どうしてここに穂ちゃんが?」
「あ、もしかして先生の言ってた助っ人って、成田さんの事ですか?」
ひどく残念そうに水沢が聞く。
「言ってなかったか?」悪戯を見つけられた子供のような口調で菱谷が言った。「成田は、高校時代の俺の相棒だ。バッティングはともかく、強肩には定評があった」
「俺の事はどうでもいい」
訳が判らない成田は憮然とした。
「そろそろ水沢に生きた球を見せてやりたいと思ってな。このさび付いた腕を振るうことにしたんだ。さあ、ウォーミングアップを始めるぞ」
「ちょおっと待て。お前、穂ちゃんに一体何を教えているんだ?」
「新体操でも教えているように見えるか? 野球以外の何だって言うんだ」
「なんでそんな事をする? 気晴らしのつもりか?」
成田は菱谷の首にぐいと腕を回し、菱谷の耳に吹き込むように小声で聞く。
「ゴタクは後だ。とにかく肩を暖めないと始まらん」
菱谷は成田の腕をふりほどいた。文句をたれながらも、成田は菱谷とキャッチボールを始めた。その間、水沢は素振りをしてフォームを確かめている。
「よし、こんなもんか。水沢、打席に入れ」
「はぁい」
ヘルメットのサイズが大きすぎるのか、しきりにずれを気にしながら水沢が右打席で構える。
「思い切り打っていいぞ」
「はい!」
菱谷が大きく振りかぶり、硬球を成田のグラブ目がけて投げ込んだ。
水沢がバットを振る。が、かすりもしない。球速は百二十キロ出ているかどうか怪しいくらいだが、マウンド上から投げおろしてくる感覚は水沢にとって初めてのものだ。水沢はバットの勢いにつられるように一回転しながら打席の外に出てしまう。
「薄暗くて見にくいかも知れないが、しっかりボールの軌道を見ろ」
「判りました」
水沢と菱谷のやりとりを、成田は唖然として眺めていた。
「なぁ、こんな事をやって、何になるんだよ?」
「水沢をプロ野球選手にする」
当然といった顔つきで菱谷が言い切る。成田は眼と耳を疑った。
「なんだとぉ? 本気で言ってるのか?」
成田は思わず大声で聞き返した。ほとんど怒鳴り声に近い。
「冗談でこんな話しが出来るか!」菱谷も声を荒げた。「いいか? 素人の水沢を、オリックスの入団テストまでに、野球選手として使いものになるように指導してやらなきゃならんのだ。徹底的に鍛え込むつもりだ。だが、その為には成田の協力が必要なんだ。頼む、手を貸してくれ」
しばしの沈黙。どこかで鴉のものらしき鳴き声が聞こえてくる。
グランド上に伸びた長い影。その一つ、水沢の影が動いた。
「成田さん……」ヘルメットを脱いで水沢が頭を下げる。「お願いします。協力して下さい」
「しかしだな……」
真剣な水沢の態度に、成田は戸惑った。ふざけている訳では無いことは、目を見ればすぐに判った。
「プロ野球の入団は、男女の差無く、実力次第なんです。私が女子スポーツの枠の中にいられない以上、こうするのが一番なんです」
水沢の眼を見据えたまま、成田はしばらく黙り込んだ。
「どうも、ピンと来ないな。穂ちゃんが野球をやる事の、どこに必然性がある?」
「それは、私が野球をやりたいと思っているからです。その他の理由なんて、……理由なんて、ありません」
最後は声が小さくなってしまったが、その決意のほどは読みとれた。
「もう一つ聞かせてくれ。俺に、なんのメリットがあるんだ?」
ぽつりと成田が漏らしたのを、菱谷は聞き逃さなかった。
「出世払いだそうだ。まあ、合格したら、体験記でも書けばいい」
菱谷は笑顔だった。照れ笑いではない。覚悟を決めた人間特有の、頼もしささえ感じさせる笑顔だ。九回裏ツーアウト満塁で四番バッターを迎えるようなピンチの場面でも、菱谷はこんな顔をしていたな、と思い出した成田も、凄みのある顔つきになった。
「ベストセラー間違い無しだな。口裏をあわせにゃならんだろうが」
「そういうことだ」
「よっしゃ! それなら、みっちりしごいてやる」
成田は右拳をミットに撃ち込んでから、高校時代と変わらぬどっしりとした構えで腰を据えた。
その日を機会に、一挙にハードな練習スケジュールが組まれた。陸上をやるために生まれてきたような水沢の身体を、数ヶ月で野球選手のそれに作り替えなければならない。菱谷は羽田の協力を得て、水沢の心と身体に野球を刻み込んでいった。
インターハイ出場を取りやめた事実は、たちまち関係者に知れ渡っていた。長尾監督に、あるスポーツ雑誌社が取材を申し込んだのを機会に、菱谷は合同の記者会見を行うことにした。説明は一度きりにしたいとの考えからだった。
当日。
芸能人相手のそれとは比べものにはならないが、結構な数が集まった。それだけ、水沢の記録が注目されていたという事だろう。
その会見の様子を思い出すだけで、菱谷は背筋に汗をかく思いがする。
水沢が開口一番、「陸上を辞めて、プロ野球に挑戦します」と宣言してからというものの、たちまち大騒ぎになってしまった。
菱谷は水沢の身体能力の数値を示し、彼女の挑戦が全くの実現不可能ではないと力説しなければならなかった。
だが、その為に、彼が水沢を唆したのだと、長年陸上に携わっていた記者に罵倒される羽目になった。彼らにしてみれば、菱谷の姿は、怪しげな新興宗教の広報部長にも等しく見えただろう。理論や理屈など、何もあったものではなかった。怒号が飛び交う様は、とてもそれが現実の光景で、自分がその当事者なのだとは信じられなかった。
が、彼らには実質的な影響力はない。水沢が、全て自分のわがままから出た話だ、と言っている以上、それを認めざるを得ないのである。
その日の晩、出浦から電話があった。彼女は記者会見に顔を出していなかった。他に取材があったかららしい。
『どうして、こんな大事な話を教えてくれなかったのよ!』
出浦の甲高い声が受話器を通して菱谷の耳を突いた。
「吹聴したい話じゃなかった」
『前もって教えてくれたら、スクープになったのに』
菱谷にしてみれば、そう言われても全くの心外だった。好き好んで出浦に教える理由など一つもない。それに腹を立てられても困る。
『……ま、済んでしまったことは仕方ないわ。でね、本当のところを教えて貰えないかな? どうして野球なのか』
「そういうやり口はフェアじゃないな……」
『あ、そう! いいわ。真実を知るまで、付きまとってやるわ』
すっかり機嫌を悪くした出浦の声。菱谷には不気味な宣戦布告に聞こえた。
菱谷の仕事は一時の盛況ぶりから一転してガタ減りになった。残った仕事は、羽田の野球部のコンディショニング・コーチの他、二、三あるだけだった。
そのお陰でというべきか、水沢に対する指導は熱の入ったものになった。
連携守備や試合感覚は、いくらマンツーマンで指導しても(時折成田を加えたとしても)、とても身に付くものではない。練習相手が必要だった。讃輪大付属高校の野球部では、水沢に対する冷たい視線が予想された。そこで、菱谷は気心の知れた羽田の協力を取り付けた。連日、野球部の男子部員に混じっての特訓が続けられた。
夏休みが終わりを迎える頃には、二年のレギュラー級部員レベルの動きを見せるようになっていた。
「驚きだな。ここまで伸びるとは」
一塁側ダグアウト。ノックの嵐に立ち向かう水沢の守備を見ながら、羽田が溜め息に近い声で感想を述べる。グランド中で、野球部ならではの意味不明の蛮声が上がり、活気のほどが伺える。
「こうやって、練習に混ぜてもらっているお陰だ。感謝してもしきれない」
羽田の隣りで、練習の様子を見ている菱谷が応じる。
「いやいや。彼女のお陰で、他の部員も張り切っている。女の子には簡単に負けていられないし、いいカッコも見せたいだろうからな。秋季大会が楽しみだよ。それに、東の一件以来、お前の信頼感は抜群だからな。毎日お前が顔を出してくれるだけで、みんな安心して全力を出せる」
菱谷は、水沢のポジションを内野、出来れば遊撃手に、と考えていた。槍投げの一件で見せたとおり、水沢は地肩も強かった。遠投は風向き次第で百メートル台に乗せる。
残念ながら、バッティングセンスは守備・走塁の華麗さに比べると、いまいち物足りない。上半身を大きく捻り、反動で破壊力を最大限に引き出しながらも確実にミートする打法にはセンスを感じたが、さすがに長打力の天分までは与えられていなかったものとみえた。が、ここで百メートル十一秒台の俊足が大きな武器となる。ただの内野ゴロをヒットに出来るのだ。俊足をさらに生かす為、セーフティバントや盗塁の練習も積極的に取り入れている。
「今の段階でも、ウチの一番・ショートでスタメン出場出来るぞ。はじめに話を聞いた時は無謀な真似をすると思ったが、こうしてみると、さすがに菱谷は卓見だな。ちゃんと才能を見抜いているんだからな」
「俺は彼女のわがままにつき合っただけだよ。ここまでやれるとは正直思っていなかった」
羽田には、水沢が陸上を辞めた本当の理由を教えていない。言葉を選んで話す事になる。信用していない訳ではない。だが、羽田は多くの部員を抱える野球部の監督だ。話をする機会は、カメラマンの成田よりはずっと多い。それだけ、口を滑らせる可能性も高くなるのだ。
(知ってしまえば、それだけ立場が難しくなる。許せよ、羽田)
「なあ、二学期が始まったらどうするんだ?」
「出来る限りこっちに来て練習に混ぜてもらいたい。いいかな?」
「こっちは構わない。彼女、今じゃチームのマスコットだからな。連中もそのほうが喜ぶ」
羽田と菱谷が会話している間にも、水沢目がけて残像が目に焼き付くような強烈な打球が浴びせられる。ノッカーをつとめるのは、チーム一の豪打を誇るスラッガーだ。グランド内での顔ぶれの中で、最も速い打球を打てる選手である。一メートル五十センチほどの高さを保ったままの、地面と水平のライナーが、三遊間を真っ二つに割るような位置に飛ぶ。
水沢がグランドを蹴って、伸び上がるように真横に跳ねた。伸ばしたグラブから、乾いた音が響いた。
――第四話に続く
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