『スプリント&ドリフト(改)』第四話(全五話)
特訓の成果が試される日がやってきた。
オリックスの入団テストは、グリーンスタジアム神戸近くのサブ球場で行われる。百人以上いる参加者のうち、女性は水沢唯一人。陸上関係者でもなければ彼女の過去など知らないだろうが、球場入りした途端にたちまち注目を浴びる存在になってしまった。
水沢自身は特に緊張したり恥ずかしがったりする事もなく、マイペースで身体を暖めている。
「ここ、意外と広くないですね」
一通りウォーミングアップを終えた水沢は、一塁側スタンドの一番前の通路に立つ菱谷に、フェンス越しに話しかけていた。
「まあ、四百メートルトラックの陸上競技場を見慣れた水沢なら、そう感じるかも知れないな」
「よお、調子はどうだい?」
初めから別行動を取っていた成田が、菱谷の横にやってきた。どいうつもりか、出浦と一緒だ。
「五十メートルと遠投はどうという事はない。問題は午後の打撃だよ」
菱谷はそう言いつつ、ちらりと出浦の表情を伺った。
「さて。どういう魂胆なのか、いい加減に白状して頂戴」
「見ての通りだよ」
「どうだか」
「ま、いい写真が撮れるよう、期待しているよ」
成田が慌てた様子でその場を取り繕った。
注目の50メートル走。合格タイムは6秒50。100メートルを10秒後半で走る水沢にはどうという事の無いタイムにも思われるが、異様な注目を浴びる中で走らなければならない。実力を出し切れるか、菱谷は不安だった。
500メートル走は一度に二人ずつ走る。水沢の隣は、年齢制限ぎりぎりかと思われる冴えない風貌の男。自分の巡り合わせの悪さを嘆いているに違いない。一方の水沢は、スタートラインに立つと顔つきが真剣なものに変わっていた。
クラウチングスタートは認められない。中腰に近い構えの水沢は、スタートの合図の旗が振り下ろされると同時に飛び出した。菱谷も手持ちのストップウォッチを作動させる。
「……いいぞ!」
菱谷の不安をよそに、水沢は素晴らしいダッシュをみせた。菱谷の手動計測では5秒8。
「いよいよもって凄い」
性別検査の一件以来、水沢が持つ男性の部分が、本性を発揮し始めているかのようだった。走り終わった後も険しい顔のままの水沢に、菱谷は背筋の寒くなる思いだった。
50メートルに合格した水沢は、続いて遠投の試験に移った。遠投の合格ラインは90メートル。
(練習通りの力を発揮できれば、何の心配もいらない)
菱谷が見守る中、番号を呼ばれた水沢が位置に付く。
大きく息を吸って、水沢が腕を引いた。全身をバネのようにしならせ、ボールを投じる。角度はやや低い。だが、軌道はまるでバットで放った打球のように伸びる。100メートルのラインで構えていた二軍選手がそれを捕球すると、あちらこちらで声が漏れた。
基礎体力測定が終わった時点で昼休みになる。菱谷は球場の通用口で水沢を出迎えた。
「ご苦労さん、よく頑張ったな」
「へへっ」
水沢が菱谷とハイタッチを交わした光景を、成田のカメラが逃さずフィルムに焼き付けた。
「心配しなくても、記事にはしないよ」
だが、そう言う間にも、他の記者やカメラマンが集まってくる。水沢は陽気に質問に答えていたが、菱谷は痛々しさを感じずにいられなかった。
昼食を市営地下鉄の駅からすぐ近くの噴水前のベンチで摂る。今回も、水沢は弁当を二人分作って持ってきていた。
菱谷は今度は無事に、水沢の料理の腕を知ることが出来た。
「おいしいですか?」
「うん、大したもんだよ。ただ、もう少し栄養のバランスを考えた内容にしたほうが良かったかな?」
食事の様子を、他人にじっと見られるのは恥ずかしいものだ。照れ隠しか、菱谷はつい言わずものがなの言葉を口走る。
「はぁい。でも、良かった。『まずい』って言われたら、どうしようかと思った」
そう言って、ようやく水沢は自分の弁当に箸を付けた。
「バッティングの実技が難関だな。柵越え連発でもなければ、簡単にはアピール出来ないだろうからな。長打力は期待しにくいし」
「とにかく頑張ります。ここで不合格になったら、今までの特訓が無駄になっちゃいます」
水沢が箸を握り、バットを振る真似をした。
「っと、そうだ。肝心のバットだ」
菱谷が傍らのジュラルミン製バットケースから、一本の真新しいバットを取り出す。重量・長さ・重心位置、その全てが今までの水沢のバッティング練習から得たデータを元にした、オリジナルデザインのバットだった。
「すまんな、こっちの注文が細かすぎて納期が遅れてしまった」
ふと、陸上時代に専用のスパイクを水沢に渡したときの事を思い出し、菱谷の声が少し曇った。メーカーは同じだった。
「わあ、これ、私に……? いいんですか?」
菱谷が差し出したバットを、水沢は目を輝かせて大事そうに受け取る。その仕草を見た菱谷は小さくうなずいて、独語するように言葉を継ぐ。
「北海道産のヤチタモ製。堅くてバットのしなりが少ない分、パンチ力がそのまま飛距離を生む。重心バランスは今までのデータから割り出してあるから微調整の必要は無いと思うが……。もし心配なら、今までのバットを使っても良いぞ」
水沢は練習に使っていたSSKの市販バットを持参している。市販品とは言え菱谷のアドバイスに従い、ヘッド側に重心が来るよう、バットの中程をビール瓶の欠片で細かく削って調整してある代物だった。
「……いえ。これで打たせて下さい。これで打って合格したら、このバット、宝物になりますね」
そう応じた水沢は、愛おしげに抱くように持ったバットの芯を、自分の頬に軽く押し当てた。
午後からは、野手希望者は打撃の実技試験である。残ったのは、投手志望の参加者のほうが多い。彼らはブルペンで投球をテストされる。かなりの人数が、午前中で既に姿を消していた。
水沢の番はすぐに回ってきた。手にするバットは、平均より軽いものである。あくまでもコンパクトなバッティングに徹する為だ。長打力のない水沢には、それしか道はない。
グリップエンドを頬の脇に添える独特のフォームで構える水沢に対し、三桁の背番号を背負うバッティングピッチャーが初球を投じた。菱谷が渡した特注バットが快音を発した。ワンバウンドで中堅のフェンスに届いた。
「頑張れ……」
コーチなんてむなしい存在だ。いざという時には、実際にプレーしているのは誰なのかを痛烈に思い知らされる。事ここに至っては、菱谷もまた、ただの観客と何も変わるところがないのだ。
再びバッティングピッチャーが振りかぶり、投げる。変化球。外に逃げるスライダー。水沢は内側に大きく踏み込み、腕を目一杯伸ばして逆らわずに流し打つ。意外に伸びた打球は一塁線のぎりぎり内側に入り、これまたワンバウンドでフェンスに達していた。
一ヶ月後。再びサブ球場に、水沢の姿があった。水沢は無事、二次試験に駒を進めていた。
守備コーチが転がすボールに水沢が前後左右に素早く飛びつく度、グランドに断続的にどよめきが起きる。
本来、同時進行のはずの他の試験は、全て停止してしまっていた。居合わせた全員が水沢の挙動を注視している。
「信じがたいレベルだ」
成田が、シャッターを押すのも忘れて呻く。
「才能が服着て歩いているような子だからな、水沢は」
「無謀な挑戦かと思ったが、どうやら芽がありそうだ。少なくとも、野球を始めて半年足らずの人間にはとても見えん」
水沢のグラブが小気味よい音を立てて、白球を受け止める。あれもお前がプレゼントした奴か、と成田が尋ね、菱谷は複雑な顔で頷いた。
「ささやかな投資といったところだ」
「グラブだけじゃないだろ? スパイクも手袋も」
「ほんのわずかでも、彼女の技量の上乗せになればと思えば、な」
「偶には可愛い服でも買ってやれよ?」
「莫迦いえ……」
笑えない冗談を機に、二人して黙り込んでしまう。水沢のこれからを考えると、どうしても溜め息以外の何も出てこなくなる。
水沢の抱える問題は体育連盟の他に、成田や菱谷、水沢の家族の他には、実際に性別検査を行った医師ですら知る者はいない。匿名の検査だったからだ。だが、水沢が仮にプロに入団し、注目の的で有り続けるような事になれば、いずれどこからか真実が公にならないとも限らない。その時どうするか、二人は答えを持っていない。
「女がプロになることだって認められているんだ。いわんや『男』の彼女……、変な言い方だな……、とにかく、穂ちゃんが恥じるような事は何もない」
成田の言葉には、真剣さのなかにもどこか揶揄するような口調が混じる。
「マスコミの前でそう言ってみろ」
菱谷のほうが深刻な顔つきだ。彼らの危惧する未来が現実になった時、矢面に立つのは菱谷だからだ。
「純ちゃん、あれから何か言ってきたか?」
「あぁ、色々とな」
菱谷は面倒くさそうに答えた。成田はなおも聞く。
「で、何も教えていないんだな?」
「当たり前だ」
菱谷は鋭く言い放った。何故そんな話をするのかという目で成田を見る。
成田はばつが悪そうに、ぽつりぽつりと話し出した。
「なぁ、彼女は言ってみりゃあ身内だぜ。本当のことを教えてあげてもいいんじゃないか? 彼女も真実を知れば、これ以上つきまとうような事は――」
「馬鹿いえ。彼女の職業は何だ? 気を許せる相手なもんか。教えた次の日には週刊誌か何かにドカンと載ってるに決まってる」
「そうかなあ……。可哀想になってくるよ、ずっと嗅ぎまわってるんだからな、穂ちゃんの周りを」
ドラフト会議当日。
テストに合格していても、現行の制度ではドラフトで指名されない限り支配下選手として認められない。この日は運命の一日となる筈だった。
とはいうものの、菱谷は午前中、菱谷は継続的に行っている大学アメフトチームでのPNF指導を行っていた。水沢を陸上から引退させたことで評価を著しく落としてしまった菱谷にとっては、有り難い顧客である。たとえ前日、出来れば一緒にいて欲しいと水沢に言われても、キャンセル出来ない仕事だった。
確かに、水沢が合格するにしろしないにしろ、マスコミ相手の会見は必要になる。オリックスの仰木監督が水沢に関して、例によってマスコミ受けを狙った発言を繰り返した結果、不思議なほど関心が高まっているからだ。
しかし、結局菱谷は予定通りの仕事をしていた。勿論、熱心に指導を行いつつも、水沢の件は気に掛かる。
(本当にオリックスは指名してくるだろうか)
指名され、入団してプロ選手になることが水沢にとってベストの選択とは、菱谷はとても断言出来ない。
反面、黒い考えも内心で渦巻いている。彼の指導した人間で、プロ野球の高みにまで登りつめるのは水沢が最初である。かつての高校球児である菱谷は自分の手でプロ野球選手を作り上げるのを、長年夢として望んでいた。それが現実になろうとしているのだ。素直に喜ぶべき事なのかも知れなかった。
昼食後、携帯電話がかかってきた。水沢からだった。はしゃいだ声の水沢の報告は簡単だった。
オリックスに、ドラフト7位で指名されたとの事だった。
年が明け、オリックスはキャンプを開始した。オリックスのキャンプ地である宮古島はここ数年、イチロー人気で多くの観光客を集めるようになっている。
だが、日が経つにつれて、水沢の練習風景もイチローの次くらいに注目されるようになった。
特に観客を湧かせるのは守備だ。守備コーチのノックに対して機敏に反応し、身を躍らせて捕球する様は絵になった。飛びつけるぎりぎりの位置、つまり球際に強い。水沢の背番号59が躍動する度、大きな歓声があがる。
自主トレでは指導を行ってきた菱谷も、実際に水沢がプロ選手としてキャンプに参加するようになると、直接関われなくなった。神戸の二軍キャンプならばともかく、宮古島では簡単に会いに行くわけにも行かない。
夜になると、水沢は毎日のように電話してきた。プロの練習メニューの内容の話なら、菱谷の仕事の参考にもなった。が、どちらかといえば、とりとめのない話に終始することも多かった。
「そろそろ、仲のいいチームメイトが出来たかい?」
「うん。みんないい人。オリックスにして正解だった。雰囲気も明るいし。湊さんって知ってます?」
「湊貴志……。千葉松戸高、東峰体育大からオリックス。96年のドラフト7位。下位指名ながら、今年はそろそろ一軍で芽を出しそうな売り出し中の若手内野手だな」
湊は遊撃手と三塁手をこなす。ちょうど水沢とはポジション的にもチーム内の位置づけからもライバルと呼ぶべき存在であり、菱谷はかなり細かい球歴や特徴を調べていた。
「あはは、先生、手元に選手名鑑持ってるでしょ!? 私、湊さんとペア組んで練習してるんです。湊さんったら、キャンプ初日にいきなり法事で欠席だったんですけどね――」
受話器の向こうの水沢の声はいつも弾んでいる。テレビに映る水沢も元気一杯で、なんの心配もいらないように見える。
日本初の女子プロ野球選手。誰もがそういう目で水沢を見ている。それだけに菱谷は不安が募る。彼女の秘密が嗅ぎ付かれた時に何が起こるか、想像がつかないからだ。
キャンプで注目を集めた水沢はオープン戦にも、ずっと一軍に帯同していた。が、なかなか肝心の出番がやって来なかった。
「仰木監督も人が悪い。話題作りの為に水沢を連れ回すだけで出場させないんなら、二軍で経験を積ませる方がよっぽどいい」
ある日、菱谷の事務所にぶらりと顔を出した成田などは、そう憤慨していた。
「心配はいらない。仰木監督だからこそ、使いどころを見計らって出場させてくれる」
菱谷は事務所で仕事の整理を行っていた。水沢がプロ入りを果たしたことで、どん底に落ち込んでいた菱谷の評価は唐突に跳ね上がっていた。それにつれて仕事量も、急激に回復しつつある。おかげで、スケジュール調整にひと苦労なのだ。いつの間にか、良くも悪くも、菱谷の景気は水沢の手に握られていたのである。
「使いどころか……。そんなもん、どこにあるんだ?」
「俺達みたいなアマチュアには見えないところさ。どっちにしろ、水沢はオリックスの支配下選手なんだ。俺達がどうこう言える筋合いじゃあない」
「水沢の練習には、もう全くのノータッチなのか?」
「当たり前だよ」
「どうせなら、オリックスにお前も雇って貰えば良かったんだ。第二の立花コーチになれるぞ」
「そんな事が可能なら、とっくにそうしている。残念ながら、俺の評価はそんなに高くない」
初出場の期待が高まる中、対ヤクルトでのオープン戦で、ついに代打で水沢が打席に入った。
注目の初打席は、結果から言えばサードゴロだった。ただし、打球が高くバウンドしたので、あわや内野安打かと思われた際どいプレーだった。
記録はアウトでも、その能力の高さは十分アピールされた。そして、その後はたびたび出場機会が与えられた。水沢は懸命にチャンスをものにして、ついに一軍登録のままペナントレース開幕を迎えたのである。
オリックスは西武からのペナント奪回を期待するファンを余所に開幕ダッシュに失敗した。他の5球団から容赦なく白星を挙げられ、一チームで借金を一手に背負い込む苦しい立ち上がりとなった。
独裁色の濃くなっていた仰木監督の長期政権に対し、不満の声があちこちから聞かれるようになっていた。水沢の入団に限らず、とかく仰木監督は人目を引くパフォーマンスを好んだ。勝っているうちは好意的に見られるパフォーマンスも、負けが込むとすぐさまそれは汚点となって跳ね返ってくる。
当然の事ながら、水沢にしてもいきなりスタメンなどという事はあり得ない。第二節までは、ベンチ入りはしても出場機会は無いまま時間が過ぎた。
第6節、ゴールデンウィークあけの対西武戦のナイターでようやくシーズン初出場の場面がやってきたが、大方の期待を裏切り、代打でも代走でもなく、守備のみの出場だった。残念ながらテレビ中継はない。幸運にも西武ドームのスタンドに詰めかけていた18,000の観衆だけが、プロ野球史上に残る出来事の目撃者となった。
九回裏。アナウンスに送られ、福留宏紀に替わってショートの守備位置についた水沢に、大きな歓声が起こる。
試合のほうはイチローの猛打賞の活躍もあり、スコア7対1でオリックスのリード。
西武は1番からの好打順。先頭打者・松井稼頭央の打球は狙いすましたかのように三遊間に飛んだ。回り込んだ水沢がワンバウンドで打球をグラブに収める。素早い動作で一塁に送球。当たりが強かった分、余裕があった。無事フォースアウト。必要以上とも思える声援に、水沢は手を振って応じる余裕を見せた。
続く2番・大友進も水沢の正面へ打球を放った。強烈なライナー。一瞬後、反り返るように飛び上がった水沢が捕球すると、いよいよ歓声は狂気に近くなった。
3番・高木大成もまた、強烈な打球をセンター方向に打ち上げた。あわやホームランという大飛球。が、センターを守るイチローがフェンスをよじ登り、さらにそこからジャンプしてキャッチした。
「最後まで、いいところをイチローさんに持って行かれちゃいました」
試合後の水沢は群がる取材陣に対し、こんな屈託のないコメントを残していた。
その日の晩、自室でテレビを見ていた菱谷の携帯電話が鳴った。通話ボタンを押した途端、水沢のはしゃいだ声が飛び込んできた。
「初出場おめでとう。ちょうど”ニューステーション”で西武対オリックス戦やってるぞ」
菱谷にしても、我が事のように嬉しい出来事だった。
「ありがとうございます! 先生のお陰です!」
「いや、結局は水沢の努力の結果だよ。本当に凄い……」
「あの、先生、明日からの大阪ドームでの近鉄との三連戦、見に来てくれませんか? また試合に出して貰えるかも、って湊さんが言ってたから、それで、その――」
「そういえば湊も一軍にあがってるんだったな」
「え? あ、はい、時々代打で出てます。湊さんは左打ちですから」
菱谷はスケジュールを書き込んだシステム手帳を開いた。なんとか時間の余裕はあった
「また試合に出られると良いな。よし、応援に行こう」
「わあ! 絶対、来て下さいね!」
オリックスは読売ジャイアンツから移籍の木田優夫、近鉄バファローズは新加入の外国人投手・フィル=レフトウィッチをそれぞれ先発のマウンドに送った。
試合は二回、長距離砲として復帰したばかりのトロイ=ニールのソロホームランで幕を開けると、続く三回、イチローの満塁ホームランで早々と勝敗が決定づいてしまった。
水沢の出番はないかと思われた八回表。
打席に入った水沢の手には、菱谷の渡したバットがしっかりと握られていた。
それを三塁側の内野席の通路上から見ていた菱谷が頬を緩める。水沢が「宝物にする」と言ったバットを、決してタンスの奥になどしまい込んでいなかった事が嬉しかった。
史上初の女子選手の初打席。空気が自然と盛り上がる。大阪だけに、藤井寺時代から受け継がれた品のないヤジが飛ぶ。こればっかりは菱谷は好きになれなかった。どうしても自分がグランドでプレイしている感覚が抜けない事実を、否応なく思い起こしてしまう。
勝敗とは別の意味でこわばったマウンド上の西川慎一が初球を投じる。内角高めに切れ込むストレート。踏み込んだ水沢はのけぞり気味にして見送る。
これでベテラン捕手・古久保健二は徹底的に強気のリードで攻める腹を固めたらしかった。一球外角に外させると、再び内角低めをつくストレート。が、先ほどよりボール一個分ベース寄り。水沢のバットが小さくテイクバックしてから鋭く振り抜かれる。
鈍い打球音。スピンのかかった打球は三塁側の内野スタンドに。ちょうど菱谷の間近に飛んできた。ファウルボールに注意する旨のアナウンスが空しく響く。
(相手のペースにあわせるな。全ての流れを自分のリズムに引き込むんだ)
4球目のシュート。水沢は身構えるようにして見送ったが判定はストライク。カウントは2−2。
5球目。再び内角高めにストレート。水沢が強振する。が、伸びのあるストレートに、芯を外された。
嫌な音がして、バットがぽっきりと折れた。ヘッド部分が三塁線に飛ぶ。同時に打球は三遊間の一番深いところへ力無く転がる。躊躇無く手元に残ったグリップ部を投げ捨て、水沢が一塁ベースへと奔る。
歓声。
ショート・武藤孝司からの送球もすばらしい速度とコントロールだったが、陸上式に胸を反らせて一塁ベースを駆け抜けた水沢のほうが一瞬速かった。一塁線審の両腕が水平に広がった。
だが、一塁ベース上に立つ水沢の顔に笑顔は全くなかった。初打席でバットを折られたことが心底悔しいらしく、憮然とした表情を隠そうともしない。また近鉄ファン――という名目の、無意味なヤジをとばしたいだけの酔漢――が下劣な言葉を飛ばす。近代的なドーム球場にはなんともそぐわない光景だった。
しかしこの時ばかりは菱谷も苦笑を禁じ得ない。
「球史に残る内野安打だぜ。……もっとにっこり笑って見せろよ。テレビが映してるんだからさ」
水沢にとっては、ヒットを打てたことより、バットを折ったことのほうが重大時なのか、まだプロ選手としての心構えが足りないか……?
その夜、泣き出しかねない口調で謝り続ける水沢の電話に閉口させられ、追加のバットを約束する羽目になるとも知らず、菱谷はそんな思いを抱いていた。
バットを失ったことはともかく、一度きっかけを掴めば、後は拍子抜けするほど順調に進んだ。
水沢は、五月が終わる頃にはもはやレギュラーになりつつあった。依然としてペースのあがらないチーム事情も、彼女にとってはチャンスといえた。それでもスターティングメンバーの組み替えが多い事で知られる仰木監督の元でなければ、とてもこう簡単にチャンスは得られなかっただろうが。
始めは8番だった打順は7番、さらに2番へと跳ね上がっていった。打率は2割8分前後をキープ。俊足で果敢に盗塁を決め、小さな身体を目一杯使って捕球する様は、チーム全体に活気を与えた。オリックスは次第に勝ち運に恵まれるようになっていた。
六月の下旬になる頃には、早くも新人王当確、オールスター出場間違い無しとの噂があちこちで聞かれるようになっていた。
チーム自体も、ようやくのことで四位に浮上。このままの調子で行けばAクラスに食い込むのも間近。その立役者の一人に水沢の名前が挙げられるのは、まず間違いないように思われた。
水沢は、相変わらず毎日のように電話をしてくる。それでも菱谷は、彼女が遠い存在になってしまったような気がしてならない。直接顔をあわせていないからではない。相手は、今や全国的に名前を知られたスーパーヒロインである。菱谷は、たとえ球場に観戦しに行ったとしても、とても声を掛けられないような気がしていた。
(それでも、今が一番いい時期なのかも知れないな)
水沢は完全に追い風に乗っている。菱谷自身も多忙な、充実した日々を送っている。確かに、これ以上の何かを求める事は出来ないだろう。
そう思った菱谷は、唐突な不安に囚われた。もし今が最高だとしたら、後は落ちるだけなのか?
嫌な気分を振り払うように、六月末のある日、菱谷はグリーンスタジアムに観戦に訪れていた。シーズン中に水沢の出る試合を生で見るのは、実は今回が初めてであった。
相手は日本ハムファイターズ。
水沢はこの日は九番に入っていた。仰木監督の采配にあっては、打順が固定されることなどまずあり得ない。
首位を走っていることもあり、グリーンスタジアムは盛り上がっている。イチローは相変わらずの大人気で、一挙手一投足で歓声を呼べる。
「それに比べりゃ、我らが水沢穂はまだまだだな」
菱谷と同じく、全くのプライベートで試合を観に来ている成田が呟く。
「そうでもないぞ、見てみろ」
菱谷は笑って、右翼側スタンドの一点を指さした。”神速で突っ走れ! 59水沢”と大書きされた横断幕が見えた。
一回表、オリックスの先発・ウィリー=フレーザーは三者凡退に押さえ、水沢の守備機会はないままチェンジ。
一回裏、イチローが期待に答えて一・二塁間を破る。が、後続が続かず得点につながらない。
「しかし、これはあれだな?」
成田の呟きに菱谷は口元を緩める。
「どれだよ?」
「いやなに、俺達は穂ちゃんだけを観に来てるから、試合の行方なんか気にしちゃいねえなあ、と思ってな」
三回裏、ようやく菱谷達が待ちこがれた水沢が打席に入る。
打席で足元を固めた水沢は左手に持ったバットをグリップを顔の前で一瞬構えて――ヘッドは相手投手に向けて傾いている――それから一度左腕を伸ばしてからぐいと手元に引き寄せる。打席前にいつもみせる儀式的な挙動だ。
「どうだ、もしお前がプロのピッチャーだったとして、女の子相手に本気で投げる気がするか?」
「今の打率は2割7分8厘。嘗めてかかる奴は一人もおらん」
真剣な眼差しで水沢をみつめる菱谷が、重い声で応じる。
「だろうなぁ」
だが、日本ハム先発投手の岩本勉を相手に、簡単にカウント2−1と追い込まれてしまう。
水沢は動揺した風も見せず、丹念に足元を均してから、頬の脇にグリップエンドを添える独特のフォームで構える。
「あのバッティングフォーム、何度見ても高校の頃のお前の打ち方にそっくりだよなあ……」
成田がにやつきながら感想を漏らす。
「俺はダウンスイング論者だからな。……ヘッドスピードが最大になる瞬間にバットの芯がボールを捉える、その為には居合い斬りのように、振り出しからトップスピードまでの所要時間は短い方が、相手の球を見極められる時間が多くなる。大きくヒッチさせずに打つとなれば、自然とあんな構えになる」
一息でそう言ったあと菱谷は照れたような表情を見せて言葉を継ぐ。
「まあ、俺が教えたんだから、構えが似るのも仕方ないかも知れないが……」
二人の会話など想像もつかないであろう水沢は、四球目の内角に突き刺さるストレートを強振した。強烈な打球が三塁線を襲う。
サード・片岡篤史が長身を伸ばして横っ飛びに飛び込むが、グラブの先を抜ける。レフト・西浦克拓がクッションボールを処理して返球したときには、水沢は悠々と二塁に達していた。
「心配はいらんよ」よほど菱谷が浮かない顔をしていたのだろう、成田が慰めるように言った。「聞けよ、この大歓声。みんな、彼女の味方だぜ」
「ああ、そうだな。楽観していいのかもな……」
言葉とは裏腹に、菱谷の顔は最後まで晴れなかった。
――第五話に続く
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