『翔子の挑戦』A――『試練編』


 ――MESSAGE#4 開幕前夜

 明日はいよいよ開幕。あっという間に、キャンプインから二カ月が過ぎていた。
(この部屋に引っ越しをしてから、もう二カ月。変わったことと言えば、殺風景だったこの部屋にも、ファンの人からもらったぬいぐるみが、たくさん置かれて少しは女のコらしい部屋になったこと、そして、机の上がファンレターでいっぱいなったことくらいかな)
 翔子は部屋を見回した。口元に笑みが浮かぶ。
(ファンの人からもらったあのぬいぐるみ……。手作りのイーグルスのマスコットね。名前は確か……。なんだっけ。エヘ! ド忘れしちゃった! それと、机の上に山積みにされたファンレター。返事を書いた方がいいってことは判っているんだけど、とても返事を書ききれない程の多さ。うーん、ゴメンなさい……。あーあ。いつの日か、この部屋に賞状とかトロフィーとかが、飾られることってあるのかな? あるよね、きっと)
 開幕と言っても、翔子は二軍で、しかも試合に登板する予定もない。それどころか、まだピッチング練習さえ、させてもらっていない。一軍ベンチは、今の翔子には全くの夢物語である。自然と彼女の思考は消極的なものになっていく。
 私の野球人生は始まったばかり。そんなに焦ることはない。今は確かに、私にとって一軍なんて絵空事だけど、夢に向かって一歩一歩近づいて行けばいい。もしも、途中で力尽き夢破れたとしても、それまで努力してきたことは決して無駄にはならないはず。そう。夢破れても、悔いが残らなければ、それはそれでいいのかも知れない……。
(あぁ、ダメダメ。もっとプラス思考のことを思い浮かべないとね)
 翔子は頭を振った。
 と、その時、部屋の電話が鳴った。
(いったい、誰かしら? もしかして、お兄ちゃんかな)
 受話器に手を伸ばしつつ、翔子はそう思った。
「もしもし。沢村です」
「翔子か? 俺」
「あっ、やっぱりお兄ちゃんだ!」
「やっぱり?」翔太が聞く。
「直感でそうじゃないかなって思ったの」
「直感か。よく言われてる不思議な双子の意志の通じ合いってやつか?」
「まあ、そんなとこかな。それより、どうしたの? お兄ちゃんが電話してくるなんて初めてでしょ?」
 声のトーンを落とし、翔子が聞きかえす。
「まあな。明日、開幕すれば、俺はパイレーツ、お前はイーグルスで、俺たちは敵同士ってことになるからな。そうなれば、いくら兄妹でも、話したりすることは、ちょっとまずいかなって思って」
 翔太がぼそっと言った。
「敵同士って言っても、私は二軍で、お兄ちゃんは一軍で。あっ、そうだ。言い忘れていたけど、開幕一軍おめでとう、お兄ちゃん」
「あ……。ああ」
 勢い込んで言った翔子とは対照的に、翔太は気のない返事をした。
「ああ、って、それだけ?」
「……?」
「もっと、言うことあるでしょ。お前も頑張れよ、とか、何とか」
「ああ。お前も頑張れよ……」
「もう! お前も頑張れよ、って、私が言ったことをそのまま言い返しただけじゃない! まあ、いいわ……」
 翔子は話題を変えた。
「あのさ、夢のような話だけど、もし私とお兄ちゃんが試合で対戦したら、お父さんとお母さん、どっちを応援するかな……?」
「そうだな。二人ともお前の応援をするさ」
「どうして? それって、私がお兄ちゃんに打たれそうだから私を応援するってこと?」
「まあ、はっきり言ってそんなとこだな」
 翔太がきっぱりと言う。
「へぇー。言ってくれたわね! もし、対戦するときが来ても、私は遠慮しないからね! そのかわり、お兄ちゃんは遠慮して打ってよね! もし、私からヒットを打ったら、絶交だからね。ホームランを打とうものなら、そのときには、兄妹の縁を切っちゃうからね! 判った? こんなにかわいい妹から縁を切られたら、お兄ちゃんだって困るでしょ」
 翔子の宣言を、翔太は鼻で笑った。
「なんだそりゃ。……まあいいや。とにかく、対戦する日が来るように頑張れよ! 俺も頑張るからさ」
「うん。ありがと。お兄ちゃん」
「ああ。それじゃ」
「うん。バイバイ。お休み……」
 電話を切る。翔子は思わず溜息をついていた。
(お兄ちゃん、開幕すれば敵同士になってしまうから、なんて言っていたけど、ホントは私のこと、心配して電話してきたんだわ。私がピッチング練習さえ、させてもらえないのを知っていて。それで、電話してくれたんだわ。お兄ちゃんて、昔から優しいお兄ちゃんだった。でも、やっぱり明日からは敵同士になってしまうのかしら?)
 小さい頃から、翔子は東海イーグルスのファンで、翔太はパイレーツファンだった。普段は仲が良かったが、イーグルスとパイレーツが試合したときだけは、よく二人でケンカしたものだった。そして今は、お互いに好きだった球団に入って、大好きな野球ができる。考えてみれば、こんな幸せなことはないのかも知れない。
(でも、お兄ちゃんてホント、すごいよね。今日のスポーツ新聞に『沢村翔太 三番サードで開幕スタメン!』って、大きく載っていたもんね。それに比べ、私は……。ううん、ダメダメ! もっと考えをプラス思考にもっていかなくちゃって、さっき決めたじゃない! そう。いつの日か、一軍に上がって、お兄ちゃんと対戦して、そして、お兄ちゃんから三振を取ってやるわ)

 ――MESSAGE#5 二軍

 華々しい一軍の開幕。それに比べ、やはりもの寂しい感のある二軍の開幕。
 が、今年は違う。
 二軍には翔子がいる。たとえ翔子が試合に出ずとも翔子の行くところ、マスコミが集まる、ファンも集まる。まるで一軍と見紛うばかりの光景である。かろうじて、収容人数の少ない小さな球場が、ここが一軍でないことを教えてくれる。
 しかし翔子は、一挙手一投足が注目されるほどの加熱する人気で練習になかなか身が入らない。練習に集中できないこともあって、翔子は実力が付かず、二軍の試合さえ登板する機会がない。
 翔子の心の中に焦り、いらだちといったものが見え隠れするようになっていた。

 そしてプロ野球が開幕してから早くも一か月が過ぎ去ろうとしていた。二軍のグラウンドには、今日も練習に励む翔子の姿がある。彼女の回りには誰もいない。選手・関係者の多くはまだ、昼休みである。
 気持ちのいいそよ風がグラウンドいっぱいに吹いている。こんな日に一日中、日向ぼっこしたらどんなに気持ちがいいかと思う。しかし、そんなこと、今の翔子にはできるわけもない。
(そういえば、今、気付いたんだけど。練習を見に来てる人の数、昔に比べたら随分減ってきたな……。日本人は熱しやすく冷めやすいって言うし、私も飽きられてきたのかな? でも、この方が練習に集中できていいんだけどね!)
 マスコミの数も昔の半分くらいに減った。事実、スポーツ新聞の翔子の記事も最近少なくなった。彼女はうれしいような悲しいような複雑な気持ちを感じている。
 マスコミ陣の様子を眺めていた翔子は、いつのまにかそこに川崎の姿を探していた。
(そういえば、川崎さん、ここ四、五日来ていないみたいね。どうしちゃったのかな? あれ。なんで私、川崎さんの心配してるんだろう?)

 ベンチ前。
「山さん、どうです? 沢村翔子。少しは使えるメドが立ちましたか?」
 松木が傍らに立つ山神に聞く。
「いや、翔子はまだまだ。やはり、体力が問題だ。今の実力では、二、三試合なら投げることはできるだろう。だが、シーズンを通して試合に登板できるかと聞かれれば、答はノーだ。磨けば将来きっと光り輝くであろう原石、それを今、あせって無にしてしまう事も無かろう」
「山さん、前から思っていた事ですが、沢村には落ちる球がない。今のプロ野球で、落ちる球がないと言うのは致命的であると言っても言い過ぎでない。なぜなんです。なぜ山さんは沢村に落ちる球を教えないんです?」
「松木、落ちる球が必要と言うのはその通りだ。では、なぜ落ちる球を教えないか。それは、わしは翔子を信じているという事だ」
 瞬間、松木が思い切り間の抜けた表情を見せる。松木はそれを咳払いでごまかして言葉を喉の奥から押し出す。
「……。山さんの言ってること、私にはよく判りません。しかし、沢村は山さんに預けたんです。山さんの思うようにして下さい。きっと、それが沢村にとっても一番良い事でしょう。おや、もうこんな時間。それでは、私は他に行くところがあるので、これで」
「すまんな、松木。現役時代から、お前には迷惑掛けっぱなしだな」
「いえいえ」
 松木との話を終え、山神はウォーミングアップを続ける翔子のもとに向かった。

「おはようございます! 今日もよろしくお願いします!」
 翔子が元気よく挨拶する。
「うーむ、二月にキャンプに入ってからそろそろ三カ月だな。どうだ、少しはプロの水に慣れただろ」
「ハイ、少しは。自分でそう思ってるだけかも知れませんが」
 翔子は肩をすくめて見せた。
「今日も午前中はいつも通り体力作り。そして、午後からはブルペンだ」
「えっ。ブルペン? じゃあ、今日からピッチング練習できるんですか?」
「そうだ」
「あの、山神さん。今日からピッチング練習して、いつになったら試合に登板できるんですか? 私は一日も早く試合で投げたいんです」
「わしも元はお前と同じ投手。お前の試合で投げたいという気持ちはよく判る。だが、今はそんな事、考えるな」
「ハイ……」
 メニューはキャンプの頃と何ら変わらない。ランニング、ストレッチ、百メートルダッシュ、筋力トレーニングの繰り返しである。特に毎日毎日ランニングで、まるで陸上部の選手になったような気がする。
「よし、午前はこれで終わりだ! それじゃ昼飯にしろ。飯が済んだらブルペンで待っていろ、判ったな」
 翔子がトレーニングルームでの筋力トレーニングを終えるのを見計らい、山神が言った。
「ハイ、判りました」

翔子は一人で昼食を取り、そのあとブルペンの近くで少し休んでいた。
(山神さん、まだ来ない。もうすぐお昼休みも終わるっていうのに。そういえば山神さん、お昼になるとどこかに行っちゃうけど、どこに行くのかしら?)
 ベンチのほうを見ていると、川崎の姿を見つけた。翔子を探しているらしい。これまで翔子はまともに投球練習をした事すらないから、ブルペンにいるとは思っていないのだろう。
「川崎さーん!」
 翔子に気づいた川崎が駆け寄ってくる。
「驚いたな、君から声を掛けてくるなんて」
「えっ。別にただ。そんな……」
 翔子はあとずさりした。変な風に思われなかっただろうかと不安になる。
「調子はどう?」
 川崎の口調に変わったところはない。翔子は安心しつつ答える。
「調子はどうと言われても、なんて答えていいか。だけど、ようやく今日からピッチング練習ができるんです! だからもう、今からわくわくしちゃって」
「そうか、君の投球を見るのは去年の夏以来だな。こいつは楽しみだな」
「でも、ピッチング練習って言っても今日が初めてだから。そんなに期待しないで下さいね」
「ああ、判ってるよ。あっ、山神さんが来たみたいだな。それじゃ、俺はネット裏から取材させてもらうよ」
 川崎と入れ違いに山神がやってきた。
「これから、ピッチングを始める。キャッチャーはわしがやるからな、遠慮せずに投げろ」
 山神がミットを叩きながら言う。
「えっ? 山神さん、キャッチャーできるんですか」
「心配するな。お前のへなちょこボールなど目をつむっていても捕れるわ。ふぁっ…ふぁっ…ふぁっ…ふぁー」
(い。言ったわね! いまにきっと、山神さんが悲鳴を上げるくらいのボール、投げてやるんだから!)
「よし、始めるぞ。さあ、来い! 翔子!」
そう言いながら、山神はベースの後ろでミットを構える。
「ハイ。……あの、山神さん」
 翔子がにんまりとする。
「どうした! 黙ってできんのか」
 山神が怒鳴る。が、翔子は笑顔のまま聞く。
「あの、山神さんはどこでお昼食べているんですか? 食堂にはいないみたいだし」
「ど、どこだっていいだろ。わしの勝手だ」
「あっ、判った! 奥さんの愛妻弁当を一人でこっそり食べているんだ! 図星でしょ」
「う、うるさい。そんなことはない!」
 山神の慌てぶりに、翔子は笑いをこらえるのに苦労した。
(山神さんて嘘の付けない人ね。すぐに顔に出ちゃう。山神さんがプロで一勝しかできなかったのって、もしかして、これが原因だったりして)
「いいか、最初は五分の力で投げろ。間違っても、全力投球はするな! 判ったな」
「ハイ!」
 翔子はストレート、カーブ、スライダーを十五球程度ずつ投げ込んだ。特別にセットポジションからも五球投げた。
「明日も投げるかどうかは、明日、肩の様子を見て決める。どうだ。久しぶりに投げて肩に違和感はないか?」
「ハイ、何ともありません、大丈夫です」
「うむ、そうか。それなら、今日はこれで終わりだ」
「あの……」
「ん、何だ? 用があるなら言ってみろ」
「今日の私のピッチング、どうでした? 私、プロの投手として通用しますか? とっても不安なんです!」
「無論、今の力では通用せんな。だが、大丈夫だ。お前はわしが見込んだ男。いや女。近い将来、一軍のマウンドに立つ日がくる。それは、わしが保証する。もっとも、プロ一勝の投手の保証など、何の気休めにもならんか」
「いえ、そんな」
 翔子が首を振る。
「さあ、風呂にでも入ってゆっくり休め。体の手入れもプロとしての大事な仕事だ」
「ハイ、判りました。……お疲れさまでした。明日もよろしくお願いします!」

 ネット裏。川崎は顎に手を当てて考え込んでいた。
(彼女の球種はストレート、カーブ、スライダーだけか。これから肩を作っていっても、おそらくストレートは百三十五キロ止まり。百三十五キロ前後のストレートなど、プロの打者なら容易に打ち返すだろう。と言って、変化球の切れがズバ抜けて良いわけでもない……)
 川崎の考えは、同業の記者連中や野球解説者と大筋で一致するものだった。確かにコントロールの良さには目を引くものがあるが、ただそれだけではプロとしては厳しいだろう、と。
 川崎の思いは続く。
(やはり、彼女には落ちる球が必要かも知れないな。落ちる球。そう、落ちる球だ! だが、フォークボールは彼女の小さな手では無理がある。……シンカー! シンカーなら俺が。いや、俺はいったい何を考えているんだ。これは、彼女自身の問題、彼女が自ら答を見つけるべきこと)
 川崎は息をのんだ。改めて、翔子の去ったブルペンと、手を揉んでいる山神とを見比べる。
(そうか、今、判ったぞ! 山神さんも同じ考えなんだ! だから山神さんは彼女に落ちる球を教えないんだ! 山神さんは彼女が自ら答を見つけ出すのを待っているんだ。彼女ならできる! いつかきっと答を見つけ出すはずだ)

 ――MESSAGE#6 初夏

 月日は流れ、真夏の太陽が容赦なくグラウンドを照りつける。
「やはり、女が通用するような甘ったれた世界じゃない。しょせんは球団の客寄せパンダだったな」
 心ない陰口が、しばしばファンの口から聞こえるようになっていた。マスコミの多さもファンの数も目に見えて以前とは違う。翔子の記事がスポーツ新聞に載ることも皆無か、載ったとしてもほんの数行の記事として取り扱われるようになり、翔子への世間の関心というものは急激に低くなってきていた。しかし、このことは翔子にとって、いささかも残念なことではなかった。むしろ、翔子の闘争心に火をつけた。
(いまに、見返してやるわ)
 七月中旬。すでに開幕から三カ月が過ぎていた。真夏の太陽の下、翔子と山神は今日も二軍グラウンドに、そしてブルペンに汗を流す。
 二軍のブルペンは一度に三人の投手が投球できるようになっていて、ホームベースの後方が監督、コーチがフォームをチェックするスペース、そしてホームに向かって右側にマスコミ用のスペースになっている。今、翔子が投げているのは、マスコミから一番遠い左端のマウンド。投球に集中できるよう山神が気を使ってくれている、と彼女は思っている。
(ブルペンの右側。最近、またマスコミの人たちの数、多くなってきたよね? 私の投球のペースが上がってきたせいかな)
 昨日までは山神がボールを受けてくれていた。しかし今日はネット裏で様子を見ている。翔子は少し不安になる。
(山神さん、左手をケガして包帯をしていて痛々しい。包丁で左手を切ったなんて言ってたけど、ホントかしら?)

 ネット裏。
「翔子! まだウォーミングアップだ! 六分の力で投げろ!」
「よーし、翔子! そろそろウォーミングアップは終わりだ! 気合い入れて投げろ!」
 山神の檄が飛ぶ。
「山さん、沢村はだいぶ良くなりましたね。私には、日毎にペースが上がっているよう見える」
 山神の横で、松木は翔子の投球に視線をあわせたまま言った。
「そうか、松木。お前の目にもそう映るか。お前がそう言うならその通りだろう」
「ところで、山さん、今日はマスクかぶらないんですか」
 松木の問いに、山神は軽く答えた。
「ん、まあな。たまには気分転換も必要だからな」
 松木が山神のほうに向き直る。
「そうですか。その左手の親指の包帯。それも気分転換で巻いたと言うわけですか。沢村の投げたボールを受ける時のミットの音、昨日までとは明らかに違う。私には判ります。昨日まで、山さんは中の綿を抜いたミットで沢村の球を受けていた。綿を抜いたミットで球を受けた時の音は、よりブルペンに響く。投手というものは、ミットの音が大きい程、調子がいいと感じ、気持ち良く投げられるという」
「……」
「そのことは、山さんは自分が投手だったから、私よりも良く判っているでしょう。沢村が少しでも気持ち良く投げれるように、綿を抜いたミットで球を受けていた。それで、左手の親指を。山さん、あんまり無茶をしないで下さいよ」
 山神が鼻を鳴らす。
「ふっ。お前にはすべてを見通されているな。わしは、キャッチャーとしてはド素人だからな。ミットの綿を抜いてはみたものの、何球か球を受け損なってこのザマじゃ。そうだ、松木、このことは翔子には内緒にしておいてくれ。翔子の球を受け損なってケガしたとなれば、わしのメンツが丸潰れだからな!」
 山神の例のバカ笑いの機先を制し、松木が言った。
「ところで」
「ん? 何だ?」
「ええ。実は。沢村を試合で投げさせてみる訳にはいきませんか?」
「そうだな、お前がどうしてもと言うのなら。お前には迷惑掛けっぱなしだからな」
「いえ……」
「松木、お前も大変だな。恐らく、オーナーが翔子の登板をお前に押しつけてきたんだろ? 監督というものは上からはオーナー、下からは選手、コーチ。上からも下からも圧力がかかってくる。こういうのをハンバーガーなんとかと言うんだろ? この前、テレビで言っていたな」
「山さん、それを言うならサンドイッチ症候群では?」
「ん? そうか、最近はそう言うのか」
(昔から、ハンバーガーでなくてサンドイッチ!)
 松木は心の中で突っ込みを入れる。
「松木、確か今週の日曜日、札幌で試合があったよな?」
「ええ、土曜日が函館、日曜日が札幌で試合があります」
「よし、翔子は日曜日に投げさせる」
「日曜日ですか。今から楽しみですね」
 松木の言葉に山神は頷き、翔子に声を掛けた。
「よし、ピッチングはこれで終わりだ!」
「あーあ、もっといいとこ見せたかったけど……。なんとなくミットの音も小さかったし、今日は調子が良くなかったのかな……」
 翔子は肩の感触を確かめながらマウンドを降り、山神のもとに向かった。
「翔子、いい知らせだ! 今度の日曜日、札幌の試合で投げるぞ」
「えっ、本当ですか!」
 翔子が目を丸くする。
「失敗を恐れずに、自分の力を出し切るんだぞ………!」
「ハイ!」
(今度の日曜日か……。もし、その試合でいいピッチングをして、その後も何試合かいいピッチングをしたら、あこがれの一軍! なんてこともあるかも! ……ううん、一軍なんて、それは考え過ぎね。今、大切なのは今度の日曜日の試合で自分の力を出し切る事。百パーセント力を出し切れれば、それでいい。結果は後から着いてくるわ!)
 日曜日、翔子は札幌での試合に臨んだ。そして月曜日。スポーツ新聞の一面に翔子の活躍が……。

 ――MESSAGE#7 一軍へ

 札幌での登板の翌日。翔子は札幌から帰京し、合宿所の自室に帰ってきた。
 たった三日間留守にしただけだが、随分、久しぶりに感じていた。考えてみれば、この部屋に移ってから外泊した事は一度もなかったのだ。
(他の選手の人たちは皆、試合で遠征に出かけていて、この合宿所にいるのは私一人、なんて事も何度かあったけど、これからは私も地方遠征に連れて行ってもらえるのかな……?)
 翔子は机の上に置かれた今日のスポーツ新聞の束を見た。全種類が並べて置いてある。彼女が自分で私が買ってきて並べたものだ。こんなところを、人に見られたら恥ずかしいとは思うものの、一度こういうのをやってみたかったのだ。
どの新聞を見ても、彼女の事が書いてある。昨日、札幌で二イニング打者六人、パーフェクトに抑えたのだ。彼女自身、昨日の事が夢だったように感じる。自分でも不思議なくらい調子が良かったのだ。初登板の緊張感も無く、コントロールもほぼ完璧だった。試合前、山神に言われた通り、結果を恐れずに投げたのが良かったのだろうと思う。
(今度はいつ投げさせてもらえるのかな? 左肩、今日になってもハレとか痛みとか全然無いし、明日でも試合で投げれる程よ。昨日のピッチングがフロックだったと言われないためにも、そして自分のためにも、次もいいピッチングしたいな。昨日のストレートの最高は百三十六キロ。プロとしては遅いけど、コントロールさえ間違わなければ、打者を打ち取れる。そうよ、あと少しストレートが速くなれば一軍の打者だって! うーん、それはちょっとまだ気が早いかな?)
 東京には午前中に帰って来て、今は午後二時。他の選手達は、早速グラウンドに出て練習している。しかし翔子は特別に練習免除になっている。昨日の好投のご褒美として、山神が休養を与えてくれたのだった。たった半日だけの休日ではあるが、久しぶりの休みだけに、何をして過ごそうか悩んでしまう。
 翔子は新聞の山の中から、毎朝スポーツを抜き出した。
(この記事、川崎さんが書いたはずよね? 何て書いてあったっけ?)
『……彼女の実力が真に試されるのはこれからだ。今後の投球に注目したい』
(……そうね、川崎さんの言う通り、これからが大事よね。でも、昨日のピッチングが大きな自信になったのは確かよ。私、これからも何とかプロでやって行けそう……。そんな気がしてきたわ)
 翔子は浮かれた気分を引き締め、決意を新たにした。
 と、突然電話のベルが鳴った。
(誰かしら?)
 手にしていた新聞を放り出し、翔子は受話器を取った。
「もしもし、沢村です」
「……大森だ。……明日から上だ」
「えっ? ウエって何の事ですか?」
「この世界で上と言ったら、一軍の事に決まってるだろ。そういう事だ、判ったな……」
「本当ですか? ……もしもし? もしもし?」
(あれ? 電話切れちゃった)
 翔子は受話器を持ったまま唖然としていた。
(うそ! 一軍? 私が? ホントなの、今の電話。確かに大森監督だったよね? あまり大森監督と話したことないけど、今の声、大森監督の声に間違いなかったわ。監督がこんな冗談言うはずもないし、と言うことは、私がホントに一軍! 信じられない!)
 翔子は思わず考え込んでいた。
(どうして私が? つい昨日、それもたった一度、二軍で好投しただけじゃない。それなのにどうして?)
 そこまで考えてから、翔子はその理由に思い当たった。
「そうか、オーナーか! オーナーが後押しして、私を一軍に! きっとそうだわ。……今、イーグルスは成績が良くなくて、お客さんがあまり入ってない。だから、オーナーは私を一軍に上げて、少しでもお客さんを呼ぼうとしているんだ。うーん、一軍に上がったのは素直にうれしいけれど、ちょっと複雑な気持ち」
 部屋の情景が、ついさっきとはまるで違って見える。バラ色の未来、とはこういう事を言うのだろうか。
「明日から一軍。これからは遠征が多くなって、この部屋を留守にする事が多くなりそうね」
 放り出した新聞を拾い上げながら翔子が呟く。
(うーん、観客集めの為の一軍か。いわゆる客寄せパンダよね。でも、たとえ一軍に上がったきっかけが何であれ、いいピッチングをすれば、それでいいのよ! そうよ、私が活躍すれば、客寄せパンダなんて言わせないわ)
 ずっと夢だった一軍のマウンド。そのマウンドの土を踏むチャンスを今、翔子は掴みかけている。期待と不安で胸がいっぱいになる。
(でも、このチャンス、決して逃さない!)


 ――『試練編』おわり 

 『回天編』に続く

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