1997年10月、仙台宮城球場。
1992年に発足した新日本女子野球連盟(通称女子リーグ)にとって、1997年という年は最悪の一年になった。言うまでもなく、ワールドカップ出場を決めた例のサッカーブームによる影響をまともに受けた為であり、観客動員数が過去最低を記録するのは間違いのないところだった。
スタンドでは、仙台ファルコンズのチームカラーである、緑のメガホンや小旗がまばらに揺れている。観客数は約3000。
「くそっ、何もかも最悪だな、全く」
仙台ファルコンズの橋田謙三監督は、こめかみを掌底で二度三度軽く叩きつつ吐き捨てた。もっとも、彼の場合は女子リーグ全体を大局的に見た感想ではなく、単に彼のチームの不甲斐無さを嘆いただけだったが。
八球団からなる女子リーグは二期制を採用している。一期ごとに49試合ずつ行い、前後期それぞれの優勝チームが優勝決定戦を行う。今、仙台ファルコンズが対戦している横須賀セイバーズは、マジック一、つまり今日勝てば後期の優勝が決まる。逆に言えば仙台ファルコンズは胴上げを目の前で見なければならなくなる。それなのに、九回裏、仙台ファルコンズの攻撃は一アウトランナーなし。仙台ファルコンズのホームゲームで九回裏の攻撃が行われている――すなわち負けているという事だ。
負けているどころの話ではなかった。スコアは6対0。横須賀セイバーズのエース、立花由利は仙台ファルコンズ打線を三安打に抑え、三塁さえ踏ませない好投を続けていた。
四番打者、山戸誉は立花のフォークボールに簡単に引っ掛かって三振に倒れた。あとひとり。
「馬鹿もん、気合いが足りん!」
すごすごとダッグアウトに戻って来た山戸に橋田が怒鳴った。
(馬鹿はどっちだか……)
続いて、右のバッターボックスに入った仙台ファルコンズのキャプテン兼ヘッドコーチ・早瀬千里(背番号八)は背後の怒鳴り声を耳に入れつつ腹立ちを抑えかねていた。山戸の三振をただ気合いが足りないの一言で片づけるなど馬鹿げている。山戸の最大の欠点、それは実戦になると癖が出るアッパースイングだ。山戸は当れば長打力もあるのだが、変化球打ちは全く駄目だった。長い間自明になっている欠点を矯正もせず、ただ気合いだ根性だと怒鳴るだけの監督に、早瀬は愛想を尽かしていた。
マウンドに立ちふさがる立花の周りに、内野陣が集まってきた。
「さあ、あとひとり、しまっていこう」
キャッチャーの真柴敏子が立花の肩を叩いた。
「打たせやしませんよ」立花はニコリともせず、面倒臭そうに答えた。
「なに……」
一瞬、気まずい雰囲気が流れた。真柴は立花より二歳年上だが、立花はチームの大黒柱であり、今年も既に16勝をあげて三年連続の最多勝を手中に収めていた。横須賀セイバーズの今期の優勝も彼女の力あればこそだったから、少々強気で不遜な発言にも、誰も文句は付けられなかった。
「けど、早瀬はベテランだから、気を付けないと──」
一塁手の張純子がそう言いかけたが、立花が鋭い目つきになったのを見て黙り込んだ。
「ちゃんと抑えますから、黙って見てて下さいよ」
立花はグラブで煙を払うような仕草をした。内野陣はぶつぶつ言いながら各守備位置に戻った。
主審の右手が上がり、試合が再開された。
立花は大きく振りかぶり、左脚を蹴り上げると、ダイナミックなフォームで第一球を投じた。シュッと空気が切り裂かれる音がして、真柴の構えたミットに突き刺さった。ど真ん中の直球。早瀬のバットはピクリとも動かなかった。
「スットライクゥ!」
主審のオーバーアクションを横目に見ながら、早瀬は沈んだ気持ちになっていた。自分には、立花の135キロの直球を打つ事が出来ない。ここで三振して仙台ファルコンズの最終試合は終わり、横須賀セイバーズの優勝が決定するに違いない。今日勝てば勝率で名古屋シルフィードを抜いて6位になれるのに。
立花が第二球を投じた。内角をえぐるシュート。早瀬はスイングした。ピシリ、とチップする音が聞こえたが、球は角度を変えずにミットに収まった。カウント2-0。
何が悪かったのだろう、と早瀬は考えていた。投手陣に責任はない。仙台ファルコンズには神崎香と印牧貴子という左右のエースがいるし、今年入団した今関郁子もそれなりの働きを見せている。
問題は打線だ。
チームの本塁打数が、福岡ランサーズの四番、東堂加奈子が放った本塁打数とほぼ同じでは、勝てるはずがない。私が五番を打つような打線では駄目なんだ。打線の軸となる主砲がいれば……。
立花の第三球。一球外すという手順さえ踏まずにフォークを投げ込んできた。早瀬はそれを読んだうえでバットを振ったが、球はその下をすり抜けていった。
「ストライクバッターアウッ! ゲームセット!」
この瞬間、横須賀セイバーズの後期優勝が決定した。彼女たちには、来週から始まる前期優勝チーム・東京スターズとの優勝決定戦が控えていた。
仙台ファルコンズの経営母体である中島重工の社長、浅見利輔が群馬県太田市の本社で仙台ファルコンズの敗戦を知ったのは、試合終了から二時間も経った後の事だった。
「全く、情け無いものだな」
「なんとも、お詫びのしようもございません」
球団社長の岡江慶治は頭を下げるばかりだった。
「私はとんだ勇み足をやってしまったのではないかと考えている。元々、この女子リーグの球団を持ったのは、男子の――プロ野球の球団に比べ、予算が遥かに少なくて済むという話だったからだ。だが、こう不振続きではこちらの考えも変えざるを得ない」
「はあ……」
「今のままではかえって中島重工の名前を傷付けかねない。我が社にとって長年のライバルである三菱は、Jリーグのチームを持っている。今のファルコンズを見ていると、安物買いの銭失いという言葉がピッタリくる」
何もかも、本社からの出資が少ないからじゃないか。岡江のはらわたは煮えくり返っていた。球団の設備はお粗末で、優秀なコーチを招く金もなく、優秀な新人を獲得するための資金にすら事欠く有り様だ。これでどうやってチームを強くしろというのだ。球団を持つ事を金持ちの道楽ぐらいにしか考えていないから、こんな事になる。チームを強くしたいのなら、金をかけることだというのに。
「あと一年だ」浅見はピシャリと言った。
「もし来年も低迷するようなら、球団は身売りだ。本当なら今年でも良かったのだが、六甲産業が先に、今年最下位の大阪ジュピターズを身売りしたからな」
「判りました。来年はきっと、ご期待に添えるよう……」
女子リーグの優勝祝賀会というのは、男子のそれに比べると、それほど派手には行われない。選手達はそれなりにはしゃぐが、ビールかけなどは行われず、一時間ばかりで祝賀会は終わった。
選手達は宿泊所への送迎バスに向かっていた。今日の所は宿泊所に帰り、明日からは本拠地に戻って、決定戦に向けた調整を行う予定である。
送迎バスの前で待っていた取材陣が選手達を見つけ、押し寄せてきた。彼等の目当ては球界屈指のエース・立花だった。だが、立花は彼等をほとんど相手にせずにバスに乗り込んだ。
バスが宿泊所に着くと、そこにも新聞記者が待っていた。
「立花さん、話を聞かせて下さいよ」
スポーツ日報・立花番の女性記者、伊東美樹が笑顔で話しかける。
女子リーグではほとんど存在しない番記者だけに長い付き合いだった。立花は肩の力を抜く仕草を見せた。人付き合いの悪い事で知られる立花も、新聞記者には珍しく裏表のない性格の伊東には好意を持っている様子だった。もし選手と記者という立場でなければ、親友になれたかも知れないと伊東は思っていた。
「はいはい、なんですか。手短かにお願いしますよ」
「後期優勝おめでとうございます。今年は十七勝をあげて入団以来三年連続の最多勝。もう女子リーグにライバルはいませんね」
伊東は意図的に”女子リーグに”と表現した事に立花は気付いた様子だった。立花が、性別に制限のない日本プロ野球連盟機構、つまり男子リーグ所属チームに移籍したがっている、というとかくの噂があったからだ。
だが立花は、伊東が暗示した部分には触れなかった。
「……そうでしょうか」
「そうですよ。最多勝だけじゃなく、最優秀防御率、最多奪三振の三冠王なんですから」
「うーん、そういう言い方をするなら、ライバル、という表現はおかしいですよ。投手のライバルはいつだって打者なんですから」
立花の答えに、伊東はニッコリと笑った。
「同じ事でしょう。あなたの球をまともに打ち返せる打者だっていませんよ」
「確かに、今はいませんが……」と、立花は眉をひそめた。
「じゃあ、これから出てくるかもしれないと?」
「そういう意味もあります。でも、いたんですよ、すごいバッターがね。もう四年も前の話ですが。私の投げる球が全く通用しなかったんです」
「本当ですか! その人は今どうしているんですか?」
伊東は目を輝かせて問いかける。今まで聞いたことのない話だった。もしかしたらスクープに出来るかも、記者魂が人間としての信頼関係すら押しのけて顔を覗かせる。
だが、立花は打ち気に逸る打者を高めの吊り球で三振にとる配球さながらに、肩をすくめてはぐらかした。
「さあ。その試合で怪我して、それ以来どうしたのか」
「その人の名前を教えてくれませんか?」
「ははっ、駄目駄目。自分で調べて下さい。そんじゃ」
なおもあきらめきれずに勢い込む伊東をあしらい、立花は宿泊所の中へ入っていった。からかわれたかな、と伊東は思った。立花投手の球が通用しないバッターなんて本当にいるのだろうか、と。
鷹霧佐知子は地元・山形の企業に勤めて一年半になる、どこにでもいそうな普通のOLである。ただスポーツセンターなどで身体を鍛える事に極めて熱心な事が、普通と違っていた。
今日も彼女は会社を定時に退社すると、その足で近くのバッティングセンターに向かった。入社以来、最低でも週に一回はそこに通いつめ、今ではそこにくる常連の中でもちょっとした有名人になっていた。
受付でロッカーの鍵をもらい、備え付けの更衣室でトレーニングウェアに着替えると、さっそくバッティングゲージに入った。30球500円。他のところと比べて高いのか安いのかは知らないが、悪くない値段だと鷹霧は思っている。
バッティングマシンのランプが点灯し、動きはじめた。右打席に入った鷹霧は左脚を腰の高さまで引き上げた。一本足打法だ。
バッティングマシンが軟球を発射した。鷹霧のバットが一閃して、その軟球がマシンの上二メートルのところに弾き返された。
結局、鷹霧は30球の内28球を強烈なライナーで飛ばした。今日は特に調子がいいようだった。
「相変わらずすごいねえ、鷹霧さんは」
打ち終わり、ゲージから出てきた鷹霧に、このバッティングセンターを経営している女主人が声をかけてきた。
「機械の性能がいいからですよ。真ん中に投げてくれると分かっていなければ、こうはいきません」
「いや、それにしても百130キロの球を確実にミートするには、かなりの技術と才能が必要なはずだ。大したものですよ」
鷹霧の隣のゲージで打ち終えたばかりの会社員が話に加わった。鷹霧と同じく、ここの常連だった。背広を脇に抱え、ほどいたネクタイを手に持った姿ではあるが、昔は体育会系で相当鳴らしていた事はその体格から伺われた。
「女子リーグでも今のバッティングなら通用するんじゃないかな」
「駄目ですよ。私なんて」
それを聞いた女主人が、そうそう、と言いながらズボンのポケットからパンフレットを取り出し、鷹霧に差し出した。
「これは?」
「仙台ファルコンズの入団テストの案内。なんでも、今年は新人獲得に熱心らしくてね。ウチにもこんなのが来たって訳。鷹霧さんならきっと合格よ」
「そりゃあいい。挑戦してみてはどうですか」
「私は……」
鷹霧の脳裏に四年前のある出来事がよぎった。いつまでたっても決していい思い出にはなってくれない、悪夢の出来事だった。
第二話に続く
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