毎年六月に行われる、山形女子短大と三葉女子短大との親善練習試合は、例年になく締まった展開を見せていた。いつもなら両チームのエラー数は両手の指では足りないほどなのに、今回に限っては八回裏を終わってもなお一つも出ていない。それは、両チームの投手が共に余りにもいい出来だったからだ。その証拠に、三振数は両チーム合わせて四十近くに達している。エラーする機会がない、というのが本当のところだ。
山形女子短大の一年生エース、鷹霧佐知子が三葉女子短大の六番バッターを三球三振に片付けて、三塁側のベンチに戻ってきた。
「鷹霧、次の打順はあなたからじゃない?」
やれやれ、とベンチに座った鷹霧を見て、先輩が声を掛けた。
「あっ、そうか」
「でかいの狙っていけよ」
「はいっ!」鷹霧はグラブを放り出すと、金属バットとヘルメットを引っつかんでダッグアウトを飛び出していった。
「ははっ、あれでも緊張してるらしいな」
山形女子短大の監督は、そう言って笑った。今日の監督はご機嫌だった。毎年、この親善試合では自分のチームの情け無さが目だってばかりいた。両校の友好関係を恨めしく感じたことさえあった。
(ところが今年はどうだ)
監督がほくそえむ。1対0でウチが勝っている。それだけじゃない。鷹霧は三葉打線に対して、ヒット一本はおろか、ファーボールすら与えていない。早い話があと一イニングで完全試合が達成される。夢のような話だ。
「完全試合を前にして、自分の打順を忘れた、か」
そう呟いてから監督は、ふと、鷹霧のこれまでの三打席を思い返し、あることに気が付いた。
「おい、ひょっとして鷹霧が次ホームランを打てば、サイクルヒットになるんじゃないのか」
キャプテンが肩をすくめて答えた。
「監督、知らなかったんですか。みんな知ってて黙っていたのに」
「うーん、えらいことになってきたな。完全試合とサイクルヒットの同時達成なんて、聞いた事がない」
監督は唸った。まったく、信じられない逸材がいたもんだ……。
鷹霧にとって、今日は人生最良の日と言っても過言でなかった。父親と、今は社会人で野球を続けている二歳上の兄に感謝せずにはいられない。鷹霧の父は熱烈な巨人ファンで、自分の息子をプロ野球の選手にするのが夢だった。兄を熱心に指導する父の姿を見て、鷹霧は幼心に、自分も野球選手になることを決意したのだった。
幸い、鷹霧も兄も才能には恵まれていた。兄は中学時代に早くもエースとして、その実力をあまたの高校に知らしめていた。鷹霧は小さな頃からその兄の速球を捕球し、投球フォームと打撃フォームを模倣し、ライバルとして練習に励んできた。
だが兄とは対象的に、鷹霧はその実力を発揮する機会になかなか巡り会えなかった。鷹霧の通った中学、高校、共に女子野球部は存在していなかったからだ。
そして短大に進学した鷹霧は、生まれて初めて選手としてマウンドに立ち、バッターボックスに入る事が出来た。そして一選手としては、脅威的な成績を上げていた。人生最良の日に違いなかった。
マウンドに立つ立花を見上げる、三葉女子短大のキャッチャーは面白くなかった。今日の立花は絶好調のはずだった。肩は軽いし、球は走っている。それなのに、この鷹霧に対しては立花の球が通用しない。
今日打たれた三本のヒットは全てこの鷹霧によるものだ。それも立花が絶対の自信を持っている筈の直球とフォークボールを狙いすましたかのように弾き返されたのだ。キャッチャーにはもう、どうしたらいいか判らなかった。
「どうする? 敬遠する?」
しかし、歩み寄ってきたキャッチャーの問いに、立花は首を横に振った。ここで逃げたくはない。負け犬にはなりたくない。そんな思いが顔に浮かんでいた。
キャッチャーはなにか言葉を掛けたいと思ったが、立花の気迫に負けて戻った。
試合が再開された。右足をプレートに乗せ、屈み込むようにしてキャッチャーのサインを伺う。内角低めのシュート。まず身体を起こさせるのが狙いの基本的な配球だ。力なく頷く。今更あれこれ考えても仕方ない。
立花は大きなモーションを起こし、左足を蹴り上げつつテークバックした。と、同時にホームベース寄りにスタンスを決めた鷹霧が左膝をベルトの高さにまで引き上げ、静止した。憎らしいまでの完璧なフォームだ。そのつま先はちょうど内角低めのストライクゾーンに掛かっている。立花はそこを狙って投じた。もし当ってもストライクゾーンだからデッドボールにはならない。当らなかったとしても、この投球に驚いてバッティングフォームが崩れれば効果がある。
鷹霧は立花の指先から白球が離れた瞬間、彼女がミスを犯したことに気付いた。心の中の不安が投球フォームに影響を与えてしまったのだ。置きにいった棒球は、いつもの鋭さをかけらも持っていなかった。
鷹霧のバットが凄まじい速さで振り抜かれた。金属バットが高周波と衝撃波を放ち、打球はライナーで左中間の一番深いところのフェンスを直撃した。
100メートルを12秒5で駆け抜ける駿足を誇る鷹霧は一気に二塁を蹴り、三塁を狙った。レフトは打球の処理に手間取っていた。三塁コーチは腕をぐるぐる回している。
(大丈夫なの?)
鷹霧はほんの一瞬ためらった。だが、結論は出ているも同然だった。ランニングホームランでもホームランには違いない。このままホームベースに達することが出来ればサイクルヒット。こんな記録は二度とは出来ない。もし三塁で止まれば一生後悔する。鷹霧は三塁を蹴った。
ホームベースまであと5メートルというところで、鷹霧はレフトからショートに中継された返球を視界の端に捉えた。だが、鷹霧はそのままヘッドスライディングした。キャッチャーが覆いかぶさるようにブロックする。
その瞬間に鷹霧の右肩には、キャッチャーと自らの体重が一気にかかった。もし、右肩がいつもの通りなら、耐えられたかも知れなかった。だが、鷹霧は投手として、それまでに百球近くを投じていた。右肩の耐久力が低下していた。
右肩が悲鳴を上げた。激痛が走り、鷹霧はホームベース上を呻きながらのたうちまわった。
判定はアウト。サイクルヒットはならなかった。それどころか鷹霧はそのまま負傷退場し、完全試合も達成されなかった。二つの偉大な記録は夢と消えた。
鷹霧の怪我は想像以上にひどいものだった。右肩脱臼。それ以上に深刻な事に、右肘の靭帯を損傷していた。利き腕の靭帯は投手にとっての命だ。それを損傷してしまったというのは、投手生命が断たれたのも同然だった。
もちろん、手術という手もなくはなかった。だが、そのためには信じられない程の金が必要だった。プロ選手でもない鷹霧がそんな手術を受けられる訳がなかった。
だが、鷹霧は野球を辞めなかった。内側にひねる筋肉を鍛えて、靭帯の負担を和らげるというリハビリに取り組みつつ、左腕でボールを投げられるように特訓した。野球に限らず、今まで右手で行ってきた全ての作業を左手に置き換えるというのは、途方もなく大変な事だった。それでも鷹霧は歯をくいしばって耐え抜いた。しかし短大の二年間は余りにも短かった。どうにか左腕で内野に球を回せられるようになった時には、もう卒業しなければならなかった。
栄光と挫折がないまぜになった過去の記憶からは、簡単には抜け出せなかった。
自宅に帰った鷹霧はソファーの上に座り込んで、バッティングセンターのおかみさんに押しつけられた入団テストのパンフレットを穴のあくほど見つめている。
あの怪我から4年が経った。”若気の至り”となどいう陳腐な言葉が、ことある事に鷹霧の頭をよぎるのが腹立たしかった。あの時三塁で止まっていれば……。サイクルヒットなどどうでも良かったのだ。完全試合だけでも十分に素晴らしい記録だ。それだけでも、誰も非難などしなかっただろう。惜しかったな、と肩を叩かれてそれで終わったはずだ。
その後悔を少しでも紛らわす為にバッティングセンターに通っていたのだが、その結果は、時間を浪費し、言いようのない不快感を心の底に溜めたに過ぎなかった。
今年で24歳になる。冒険をするには少々歳を取り過ぎていると思う。女性がスポーツ選手でいられる時間は余りにも短い。30歳にもなれば超ベテランなのだ。今の穏やかな生活と野球選手になる夢を天秤にかけるような事自体、本来ならばするべきでないのかもしれない。しかし、ただ一度のプレーのミスを引きずり、一生後悔しながら生きていくという事は余りにも辛い。
左手で、そっと右肘に触れてみる。痛みは残っていない。通常の生活においては問題はない、と医師は言っていた。そして、野球を続ければ保証は出来ない、とも。
両手を組んで伸びをしながら、鷹霧は30秒近くも唸っていただろうか。そして勢いよく身体を起こすと、大きな溜め息をついた。結論は最初から決まっている。夢は諦めるほうが難しいのだ。
横須賀セイバーズが東京スターズを四勝一敗で破って優勝を決めてから一週間たったある日曜日、仙台宮城球場と、隣接するサブグランドにおいて仙台ファルコンズの新人テストが行われた。
今年は広報を強化したおかげで、応募者は昨年より50人ばかり多い200人を記録した。鷹霧の姿もその中にあった。
第一次テストは走力と肩の強さを見る。50メートル走7秒5以内、遠投70メートル以上が基本的な合格ラインである。
鷹霧は50メートル走は7秒31でなんとかクリアしたものの、左腕で行った遠投は60メートルしか届かなかった。
だが、この審査で不合格と判定されたのは50名程度だった。鷹霧のように基準に満たなかった選手でも、よほど悪い記録を出さない限り第二次テストに進むことが出来た。
球団が積極的に光るところがある人材を採用したい方針を持っていたのが、鷹霧には幸いした。
第二次テストでは投手と野手に分かれて、投球と打撃、守備等の審査が行われる。一塁手としてのテストを終えた鷹霧は、今度は打撃のテストに臨んだ。
サブグラウンドのマウンド上に置かれたバッティングマシンから発射される球のスピードは120キロ前後というところだろうか。うちあぐねる参加者が多い中、強烈な打球を放つ者もいて、順番を待つ鷹霧はつい弱気になる。
立合いの打撃コーチ・那珂真佐が大声で言った。
「次、百十六番」
鷹霧の番が回ってきたのだ。こわごわと打席に入る。那珂の右手が挙がった。
スタンスを決めると、左膝を引き上げるいつもの一本足打法で構えた。途端に心が落ち着きを取り戻すのが実感できた。その構えを見た周囲の人々のざわついた雰囲気が、打席に立った鷹霧のところまで伝わってきたが、全く気にもかからなくなる。
球が発射された。鷹霧のバットが振り抜かれると、弾き返された白球はホップしながら低い角度で上昇し、センターのウォーニングゾーンにまで達した。
どよめきが起こった。鷹霧は続く球をことごとく打ち返し、内一球はスタンドにたたき込んだ。
これで合格だ。鷹霧の顔に思わず笑みがこぼれ、那珂コーチの顔を伺った。
だが那珂は何か不満を感じたのだろうか、「百四十キロだ!」と叫んだ。鷹霧の顔から笑みが消えた。
ボールが空気を切り裂く音がより鮮明になり、ホームベース目がけて突っ込んできた。鷹霧はあっけなく空振りした。
(……さすがに疾い!)
鷹霧は生唾を飲み込んだ。タイミングがずれていたのか、バットの軌道が外れていたのか、空振りの原因が判らなかった。球が見えなかった。動体視力が百四十キロの球についていけなかったのだ。
鷹霧は唇を強く噛み、再び構えた。空気の壁をつき破りつつ、球が向かってくる。バットが振り出される。またも空振り。しかし、スイングの音と、ボールが立てた音は重なっていた。タイミングは合っているのだ。
次は一球捨てて、球筋を見極めよう。鷹霧はそう考えて、極端なオープンスタンスで身構えた。
空気の音を残して球が鷹霧の目の前を駆け抜けていった。球筋が目に焼き付いた。
ホップしている。鷹霧はそう結論づけた。140キロの直球とはいうものの、実際にはマウンドから投げ下ろされた球は地球の重力に引かれて、若干下にカーブを描いて打者の眼前を通過する。しかし、十分な初速とバックスピンを与えられた球は、ほとんど落差なく――場合によっては本当に浮き上がりながらホームベースに達する。
ともかくスタンスを元に戻して構え直す。次の球が来た。今度の球は意図的なものではなかったが、内角を突いてきた。払うようにバットを振ったが、かすっただけだった。手が痺れて、思わずバットを取り落とした。
この球を打てれば野球が出来る。その一念が逃げ出したくなるほどの恐怖とプレッシャーを押し退ける。
「ラスト、一球だ! 気張っていけ!」
那珂が叱咤するように吠えた。期待されている、鷹霧がそれを喜ぶ余裕もなく構える。球が発射され、鷹霧はスイングした。金属バット独特の強烈な打撃音。43度の上昇角を与えられた打球は、寒空の向こうへと消えていった。
結局、テストに合格して仙台ファルコンズに入団出来たのは、打者1名、投手2名の計3名に過ぎなかった。その唯一の打者が鷹霧であった事は言うまでもない。鷹霧は新人としては最低レベルの契約金150万、年俸480万で契約した。背番号は26番だった。
年が明け、2月になってキャンプが解禁になり、女子リーグの各球団は春期キャンプを開始した。このあたりは男子と変わらない。違うのは、女子リーグの球団で海外キャンプが出来るほど資金のあるチームはないという点だった。名門・東京スターズも、強豪・横須賀セイバーズでさえ例外ではない。ましてや仙台ファルコンズなど論外だった。
熊本県藤崎台球場における春期キャンプでは、鷹霧は単なるルーキーでなく、中堅どころとしての役割を果たす事を求められた。早瀬が、その打撃を一目見て、徹底的に惚れ込んでしまったのだ。
女子リーグの選手は大抵高卒か短大卒で、鷹霧のように社会人からの入団は少なかった。また、選手が現役でいる年数は男子に比べて極めて短い。みんなひどく若いのだ。だから、軸となる選手が必要だった。
そして、仙台ファルコンズで今までその役を務めて来た早瀬は、自分の打力では若い選手達に、本物の打撃というものを立証出来ないと感じていた。早瀬は、鷹霧にそれを求めたのだ。
「鷹霧はいいですよ。大した逸材です」
シートバッティングで強烈な打撃を見せている鷹霧を見ながら、一塁ベンチ前で早瀬が目を細めた。だが、事あるごとにそれを聞かされる橋田監督は、ベンチの奥にどっかと腰を下ろして露骨に顔をしかめていた。
「あんな故障持ちが役に立つとは思えん」
橋田は鷹霧の右肘靭帯の故障を懸念していた。
「はあ。でも、打撃と走塁に関してはウチで一、二を争います。守備も、左で六十メートル放れます。一塁手なら、それで十分です」
「ふん。肩の弱い左投げなど、ものの役に立たん」
今度は早瀬が顔をしかめる番だった。一体この監督は何を考えているんだ?
後を山戸に譲ってゲージから出た鷹霧は、そのままゲージの後方にまわって山戸の打撃を観察していた。
「右の脇が開き始めてる。グリップの位置も下がり気味」
チームの主砲にアドバイスする新人というのも随分と奇妙な構図ではあったが、山戸自身がなんのこだわりもなくそれを受け入れていた。二人が宿舎では同室である上、鷹霧のほうが年上なのも一因だが、やはり最大の原因は山戸もまた、鷹霧の実力に敬意を払っているからだった。
今年こそはアッパースイングを矯正して名実ともにチームの主砲として定着する、その意気込みを胸に、山戸が言われるままにフォームを修正して構える。
バッティングピッチャーを務める印牧がど真ん中、打ち頃の抜いたストレートを投げ込む。パワーだけなら鷹霧より一枚上手の山戸のスイングが炸裂した。が、やはり打球は揚がりすぎてライトへの凡フライに終わる。
「フォロースルーが小さくなってるわ。左肩の沈み込みが直ってない……。ヒッチの幅、もうすこし小さくできないかな?」
「やってみます。……すみません、わざわざ」
「そんなの、謝ることじゃないわよ」
鷹霧は苦笑して首を振る。山戸も小さく頭を下げ、再び修正点を意識しながら構え直した。印牧の投球。山戸の打球は、今度はセンター前に綺麗な軌跡を描いて飛んだ。
「間違いない、彼女は本物の――チームの中軸になれる選手だわ」
早瀬は飽きることなく鷹霧の姿を眺めていた。品のない表現かも知れないが、実にいい身体つきをしていた。よく鍛えられていて、三年もの間OLをやっていたとは思えない。羨ましくなるほどだ。
早瀬は、何故橋田監督が鷹霧を毛嫌いしているのか判らなかった。おそらく、私が鷹霧をベタほめしているのが気にいらないのだろう。私が監督を信用していないのと同じくらいに、監督も自分の事を気に入っていないはずだ。
しかし、早瀬はそれほど深刻には考えていなかった。いくらこの堅物の監督でも、実際に試合になれば鷹霧を使わない訳にはいかないと思ったからだ。しかし、早瀬の考えは裏切られた。
計十一試合行われたオープン戦において、鷹霧はついに打席に立つことなく終わった。早瀬が何度も鷹霧を使うように訴えたが、橋田は耳を貸さなかった。
1998年4月17日、女子リーグは結成以来七度目の前期開幕を迎えた。各期は49試合づつ行われ、それぞれの一位によって優勝決定戦が行われる。ただ、この49試合とには、陸上競技400メートル走のような過酷さが潜んでいた。男子のように130試合あれば、マラソンのような賭け引きが出来る。だが、49試合しかないのでは勝ち続ける以外に優勝への道はない。一敗の重みが違いすぎるのだ。
にもかかわらず、仙台ファルコンズの出だしは最悪だった。札幌琴似球場で行われた昨年3位の札幌ホーネッツとの開幕三連戦を全て落とし、続く松山市営球場での松山ミラージュとの二連戦の二試合目で、ようやく勝ち星をあげることが出来たのだった。
そして、次の対戦相手は大阪ヴァルキューレ。身売りに伴って大阪ジュピターズから名称を変更したチームで、監督の白石秀二は知将として知られていた。そして心機一転、今年は四勝一敗となかなかのスタートを切っている。対する仙台ファルコンズは五試合で得点わずかに六点。全くもって頼りにならない打線だ。
早瀬があれほど推した鷹霧はこれまで一試合も出場していない。
「監督、鷹霧を使ってください。こうも打線が湿っていては、神崎達がかわいそうです」
早瀬が橋田監督に詰め寄ったのは、四月中旬の土曜日、日程前期第二節、藤井寺球場での対大阪ヴァルキューレ第一戦の直前だった。
開幕戦では、神崎は札幌ミラージュを三安打一失点に抑えながら味方の援護がなく、敗戦投手になっていた。今日の先発も神崎である。開幕戦の時のような目に遭わせたくなかった。
「駄目だ。あいつの守る場所はない」
今のところ、一塁を守っているのは、三番を打っている清川聖子だ。清川は荒いバッティングながらも持ち前のパワーで14打数4安打、打率2割8分5厘と、仙台ファルコンズで最も高い打率を残していた。
「清川なら三塁も守れます」早瀬の反論に、橋田は鼻で笑っただけだった。
「三塁の村崎はどうする?」
村崎桐華は、打撃はからきし駄目で八番を打っていたが、守備に関しては一流だった。
「村崎はショートがいけます」
橋田は、今度は声を出して笑った。
「ショートは、お前のポジションじゃないか」
「私はベンチに下がりますよ。私より、彼女のほうがきっと役に立ちますから」
言葉の綾だけではなかった。実際、早瀬はそう思っていた。
が、橋田にはその真剣さが通じていない様子だった。
「なにを馬鹿なことを」
早瀬は歯ぎしりして悔しがったが、自分が監督でない以上どうにもならなかった。
早瀬の思いを余所に、午後六時、試合が開始された。大阪ヴァルキューレは、ローテーションを一巡させてエース・浅倉友美をマウンドに送っている。
浅倉は仙台ファルコンズ打線をまるで相手にせず、6イニングで12個の三振を奪う有り様だった。神崎も負けじと好投していたが、五回裏に大阪ヴァルキューレの四番、柿沼守子(背番号一)に三号ソロホームランを浴びていた。スコア0対1。
「こりゃあ、駄目だな」
そうボソッと言ったのは、他ならぬ橋田監督だった。こんな不用意な言葉は将たるものの吐くものではなかった。沈んだ空気がベンチに流れた。
試合は盛り上がりに欠けたまま進んで9回表、仙台ファルコンズ最後の攻撃となった。ここまで浅倉は3安打1四球、完封が目前だった。
ここで五番・早瀬はあえなく三振したが、六番・戸隠里沙子が粘った末に四球を選び出塁した。
「監督、駄目だと思うんなら、鷹霧を使ってみたらどうです?」
橋田の隣りに座った早瀬が尋ねた。次の七番・作間綾子は副主将を務めるチームの要だが、打撃に関しては昨年から大スランプに陥っている。この5試合で1安打しか出ていない。
「うるさい! ……分かった。そんなに言うなら使ってやる。だが、もし今回打てなかったら、二度と鷹霧、鷹霧と言うなよ」
橋田の宣告を受けた早瀬は、さすがに顔色を変えた。いくら鷹霧が好打者であるにしても、女子リーグを代表する投手である浅倉の球を簡単に打てるとまでは断言出来なかったからだ。
「作間に替わって、代打、鷹霧」
それを後目に、橋田が悠然と審判に選手交代を告げる。
「頑張って下さい。鷹霧さんならきっと打てます」
山戸が、周囲の視線を気にしながら小声で励ます。鷹霧も小さくうなずいてそれに応えた。
二度、三度と素振りを繰り返して、鷹霧が右打席に入った。
鷹霧はスタンスを構えながら、妙な感覚を感じていた。試合で打席に立つのは五年ぶりだが、少しもそんな気がしなかった。今までもずっとこうして生活していたような気さえする。自分の居場所を見つけた。そういうことになるのだろうか。ただ、緊張しているのは事実で、唇が渇いていた。
「プレイ!」主審が叫んだ。試合再開。
浅倉の球は悪くなかった。伸びのあるストレートがキャッチャーミットを鈍く鳴らした。135キロは出ていただろうか。女子リーグでは最速に属する数字である。たちまちカウント2−1と鷹霧は追い込まれた。
浅倉は大きく息をつき、キャッチャーのサインを伺った。キャッチャーの守口浩子は当然の様にフォークのサインを送った。浅倉は顔をしかめて頷いた。鷹霧の表情を伺い見た。だが、鷹霧の顔にはなんの感情も感じられなかった。思わず舌打ちが漏れる。
セットポジションから、浅倉は第4球を投じた。フォークは浅倉のウイニングショットである。速球派とは、決してストレート一本で押す投手の事を指すのではない。変化球を取り混ぜてこそ、速球が生きるのであり、球の速さだけに頼る投手は決して大成しない。その点で、浅倉は速球派の意味を理解していた。
ストレートを投げる時と全く同じフォームから投じられたフォークボールは、まるで擬音が聞こえそうな鋭い変化を見せた。
鷹霧は、その瞬間、打てると直感した。鷹霧には、球界屈指のフォークボールの軌道がはっきりと見えた。
守口の口から、アッ、と短い驚きの声が漏れた。
見逃したと守口が思った瞬間、静止していた鷹霧のバットが目にも止まらぬ早さで鋭く一閃したのだ。
消音処理を施された金属バットが特有の打撃音を響かせると、一見低い弾道に見えた打球は鋭く伸び、レフトスタンド上段まで飛んでいった。一瞬の静寂の後、球場に詰めかけた観客から津波のような歓声が上がった。
スコア2対1。この一発で仙台ファルコンズが逆転した。
一塁側・仙台ファルコンズのダッグアウトはお祭り騒ぎだった。その中で一人、橋田監督だけが憮然として「ただの一発屋だ」とつぶやいていた。
この後、神崎はルーキー・山本寺優子のリリーフを仰いだ。そして山本寺は大阪ヴァルキューレ打線を抑え込み、仙台ファルコンズに今期二勝目をもたらしたのだった。
同じ日、横須賀セイバーズの立花は福岡ランサーズと対戦し、今期2勝目を上げていた。1安打完封。完璧な成績だった。ロッカールームに続く通路にはいつものように報道陣が待ち構えていた。
立花はいつもと同じく無口で、インタビューに対してもそっけなかった。ただ伊東が、鷹霧という一本足打法の打者が浅倉のフォークをホームランしたという情報についてのコメントを求めると、立花は足を止めた。
「それは、本当ですか?」立花が珍しく尋ねて返していた。頷く伊東。
「ええ、私も直接目にした訳じゃありませんが、話によると、ライナーですっ飛んでいったそうですよ」
立花は、考える顔つきになってしばらく黙り込んでいたが、ふいににこりと笑った。
報道陣に対して普段見せた事のない笑顔を見せた立花に、報道陣は戸惑ったが、続いて立花の発した言葉に色めきたった。
「久々に倒し甲斐のありそうなバッターですね。来週の仙台ファルコンズの試合が楽しみですね」
その後、鷹霧との因縁を改めて立花の口から聞かされた伊東以下報道陣は、こぞってその対決を煽り立てていくことになる。
翌日の日曜日の朝。仙台ファルコンズが宿泊しているホテルのロビーに、山戸のカン高い声が響いた。
「鷹霧さんっ! 見て下さいよ、これ。二面にドンと載ってますよ」
ロビーに置かれたテレビを見ていた鷹霧は気のない仕草で山戸の差し出したスポーツ日報を受け取った。
「へえ……」確かに、仙台ファルコンズの鷹霧が、ホームランを打ったという記事が載っていた。しかしそれよりも、立花の”ライバル宣言”のほうがデカデカと載っていた。
「なんか、立花さん、鷹霧さんの事を親の仇のように言ってますね。何かあったんですか?」
「まあね。……でも、なんか凄い事になってるなあ」
不思議そうな顔を見せる山戸を前に、鷹霧は苦笑いするばかりだった。
第三話に続く
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