ストライクゾーン 第三話
その日の大阪ヴァルキューレとの試合に、鷹霧はついに出場しなかった。どうやら、橋田監督はいきなり脚光を浴びた鷹霧の事を一層快く思わなくなったようだった。しかし、2対1で仙台ファルコンズが負けてしまった以上、いかなる言い訳も説得力のあるはずがなかった。
そのおかげで、岡江球団代表は浅見オーナーに詰問される羽目になった。
「なぜ、橋田監督は鷹霧を使わなかったのかね?」
「はあ……。鷹霧という選手は右肘に故障を抱えており、代打以外に使い道がないそうです」
「ふむ。しかし、代打としてすら使わなかったじゃないか」
全くその通りだった。岡江は汗を拭った。そんなに文句があるなら、直接監督に言えばいいのに、何で俺がこんな目にあわなきゃならんのだ、というのが正直な気持ちだった。
「この鷹霧は、ウチの看板打者になる可能性があるんだ。監督に伝えろ。とにかく使え、とな」
それから瞬く間に一週間が経ち、ついに仙台ファルコンズが地元において横須賀セイバーズを迎え撃つ日がやって来た。
この一週間、鷹霧は代打専門だったが、4打数3安打と実力の片鱗を垣間見せていた。スポーツ日報が中心となり、マスコミが必要以上に鷹霧と立花の対決を煽ったおかげで、仙台宮城球場は久しぶりに満員になっていた。
試合直前の一塁側の仙台ファルコンズのダグアウトでは、いつもの討議が繰り返されていた。
「やはり、鷹霧はスタメンで使うべきです」
こうやって鷹霧の事を監督に訴えるのはこれで何度目だろうか、と早瀬は思った。なにしろ鷹霧自身が代打ですら喜々としてこなしている。自分が骨を折るしかないな、と早瀬は信じ込んでいた。
「またその話か。いい加減にしろ。あいつの守れる場所はない」
「ですから前も言った様に──」
「もういい!」
頑なな橋田を前に、早瀬は内心で頭を抱えるばかりだった。
先発は、仙台ファルコンズは印牧、横須賀セイバーズは予想通り立花をそれぞれ立てた。印牧は仙台ファルコンズの左のエースで、ひたすら速球で押すタイプの投手だ。課題はコントロールで、四球で自滅するのがパターンだった。
試合は一回裏、いきなり、立ち上がりの悪さに定評のある印牧が幸先悪く横須賀セイバーズに三点を献上した。
一方の仙台ファルコンズは、立花の速球に抑え込まれて、五回まででわずか1安打に甘んじていた。
それでも、印牧は二回以降持ち直し、横須賀セイバーズ打線を無失点に食い止めていた。盛り上がりに欠ける投手戦が、そのまま九回裏まで続いた。鷹霧と立花の対決を見る為にやって来た観客が、ブーイングを起こしていた。
ところが九回裏ツーアウトになって、仙台ファルコンズに対してここまで1安打1四球しか与えていなかった立花が、突然、仙台ファルコンズの二番・小加茂清美にストレートで四球を与えた。そして続く三番・山戸、四番・清川にも同じように歩かせた。ツーアウト満塁。立花は見せ場を作り出したのだ。
三塁側の横須賀セイバーズ応援団もむしろこの演出を喜び、チームカラーの水色のメガホンを打ち鳴らして歓声をあげた。鷹霧の登場を期待する声が反響しながら一塁側ダグアウトを襲った。
「さあ、監督。どうするんです?」
ネクストバッターズサークルに入っていた五番・早瀬が、ベンチ前にまで戻ってきて聞いた。
「ええいっ、くそっ! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって!」
橋田監督はぶつぶつ言いながら、主審に代打・鷹霧を告げた。仙台ファルコンズ応援団が歓声を響かせた。彼等にとって鷹霧こそが、不振の続く仙台ファルコンズの希望の光なのだ。
右打席に入った鷹霧が二度、三度と素振りを繰り返してスタンスを決めた。それを見て立花はニヤリと笑った。彼女の脳裏によぎるのは5年前の屈辱か。
セットホジションから素早くテークバックを取り、立花は第一球を真ん中低め投げ込んだ。時速137キロ。ミットが重い音を立てる。鷹霧は微動だにせずにこれを見送った。続いて2球目も内角低め、ストライクゾーンぎりぎりにシュートを投げ込んで来た。カウント2−0。
鷹霧はボックスを外し、バットを膝に挟んで両手をこすり合わせた。五年前とは比べものにならない、と鷹霧は思う。
しかし、打てるはずだ。
どんな大投手でも、手からボールが離れた瞬間に弱者となる。ボールがストライクゾーンを通過する限り、曲がろうが落ちようが、たとえ消えたり光ったりしたとしても打てないはずがない。それが鷹霧の持論だった。だが、理論は現実以上の説得力は持ち得ない。立花の球を打つ事、それこそが持論の証明となるはずだ。打てなければ、自分の身体と精神を削り落とす様な思いをしてまで野球に戻ってきた意味がない。
立花がプレートを踏む。自信に満ちたその顔を見て、鷹霧の脳裏にも五年前の記憶がありありと甦った。
(負けはしない!)
立花がテークバックするタイミングに合わせて、鷹霧の膝が引き上げられ、ベルトの高さで静止した。
立花の右腕が振り降ろされた。なんの小細工もない三球勝負。再び、内角低めのストレートがうなりを上げて飛び込んできた。
鷹霧の左足が踏み出され、腰が回り、バットが振り抜かれた。立花の投じた球はバットの真芯に捉えられていた。
強烈な打撃音、歓声、悲鳴。それらが入り混じって空気を揺るがした。打球は立花の頭を越え、そのままバックスクリーンを直撃した。スコア4対3。仙台ファルコンズはサヨナラ勝ちを収めた。
ガックリと膝をついてうなだれる立花。ダイヤモンドを周りながらその様子を見た鷹霧は「これで、サイクルヒット達成か」と、ポツリと呟いた。五年がかりのサイクルヒットだった。
翌日、鷹霧はスポーツ新聞の一面を飾っていた。スポーツ日報などは、どこから調べたのか分からないが、五年前の立花と鷹霧との試合の記録を細かく載せていた。
しかしながら、それ以降も鷹霧は相変わらず代打でしか使われる事がなかった。鷹霧は守備も出来る事をアピールしようと守備練習に力を注いだが、橋田監督についに顧みられる事はなかった。
その為ばかりでもないだろうが、仙台ファルコンズは日程第14節、6月下旬で39試合を終えた時点で17勝20敗2分、勝率.459で5位に甘んじていた。この時点での一位は横須賀セイバーズでも東京スターズでもなく、伏兵の名古屋シルフィードだった。
老将、越原繁貴監督に率いられた名古屋シルフィードは、前年総合6位だった事を忘れさせる粘り強い試合を行って、一戦一戦を確実にものにしていた。
だが、雨天順延の試合が盛り込まれた七月上旬の日程第15節に入ると横須賀セイバーズが実力を発揮し、名古屋シルフィードと一ゲーム差に捉える事に成功していた。
そして日程第16節の日曜日。名古屋シルフィードは本拠地、長良川球場において、前期最終戦を仙台ファルコンズと戦う事になった。横須賀セイバーズは昨日、全日程を勝利して終えた時点で名古屋シルフィードをついに勝率で上回った。
・名古屋シルフィード 27勝18敗4分 勝率.600
・横須賀セイバーズ 29勝19敗1分 勝率.604
この成績は恐るべき意味を秘めていた。名古屋シルフィードは、負けはもちろん、引き分けでも勝率は変わらず2位に終わる。しかし、この最終戦に勝てば勝率.608となり、再逆転して優勝出来るのだ。
夕暮れ時のナゴヤ球場には、この名古屋シルフィードの初優勝の瞬間を見ようと、いつもにも増して大勢の観客が詰めかけていた。
「うわぁ、一杯入ってる。ナゴヤで超満員なんて、初めてじゃないんですかぁ?」
打撃練習を行っていた作間がスタンドを見上げて笑った。周りにいた数人の選手もつられて笑う。開き直りに近い余裕がそこには感じられた。彼女達にとって、前期はもはや終わったも同然だった。
「名古屋シルフィードが最近人気あるとは聞いていたけど、これほどとはねぇ」
戸隠が首をかしげる。
「だけどウチは──」村崎が何か言い掛けたが、金属バットの放つ鋭い打撃音に邪魔された。
村崎達は音の発生源に振り返った。そこでは、鷹霧が他を圧倒する豪快な打撃練習を開始していた。鷹霧が一本足打法でバットを一閃させる度に、バッティングマシンの放った球はスタンドへと消えていく。
「まーったく、ウチの監督は」
何が気に入らなくて鷹霧さんを使わないのか、と作間が呟くと、数人が同意して頷いた。他のチームでは考えられない事だが、仙台ファルコンズにおいてこのように選手が首脳陣を批判するのは、さして珍しい事ではなかった。
やがて、仙台ファルコンズの練習時間が終わると、両チームのスターティングラインナップが発表される。仙台ファルコンズの先発は今年二年目の今関。対する名古屋シルフィードは山浦昌美をマウンドに送った。
「うー、ハトが出たか。こりゃまいったね」
ダグアウトから身を乗り出す様にして、スコアボードを伺っていた清川が唸った。ハト、とは山浦のあだ名で、女子リーグの中では誰にでも通用するあだ名だが、反面、その由来を本人すら知らないという不思議なあだ名でもあった。山浦は今年29歳。女子リーグにおいては最年長の部類に属する大ベテランであり、球を地面にこすり付けるような位置から投げ込む、水切り投法と呼ばれる下手投げを駆使する事で知られていた。女子リーグでも珍しい下手投げだけに、苦手としている打者が多かった。
「どう思う?」早瀬は鷹霧に尋ねた。自分の役割を理解していた鷹霧は、笑みさえ浮かべて答えた。
「大した事はありませんよ。無理に変化球に手を出す必要はありません。ただ真っ直ぐが来るのを待っていればいいんです。まっすぐはせいぜい120キロ。どうという事はないはずです」
鷹霧の力強い言葉を聞いて、山戸や戸隠といった経験の浅い若い選手達が、ほっとした表情を見せた。
早瀬はその様子を見て満足した。たとえ試合に出る機会が少なくても、鷹霧は若手にとっての精神的な支えになっているのだ。
早瀬は拳を握り締め、試合の時以外は決して使わない乱暴な言葉使いを意識的に用いて、選手達にゲキを飛ばした。
「ようしみんな。あちらさんは今日の試合に命を賭けている。だけど、なにしろこんな事は初めての経験で相当あがってるはずだ」
「私達も経験した事がないから判りませーん」
戸隠がまぜかえして、選手達がドッと笑った。早瀬は、ニヤリとして続けた。
「そうとも! だからウチは、好き勝手に暴れられる。誰が目の前で胴上げなんて見たいもんか、なあ!」
選手達が気合いとともに拳を天に突き上げた。報われぬ戦いに挑む仙台ファルコンズのダグアウトは、奇妙なまでに明るい雰囲気に包まれていた。
試合は息づまる投手戦で始まった。山浦は熟練の技とでも言うべき切れのいい変化球と、ボールの端だけがストライクゾーンをかすめるような完璧なコントロールでタイミングを巧みに外し、仙台ファルコンズの打者を前のめりにさせて三振を奪っていた。
仙台ファルコンズの今関も負けてはいなかった。コントロールに関しては山浦に遠く及ばないが、こちらは持ち前の重い直球を低めに散らして凡打の山を築いていった。無失点のまま6回が過ぎた。
先取点を奪ったのは、珍しく仙台ファルコンズの方だった。ワンアウト四番・清川がセンター前ヒットを放つと、五番・戸隠が四球を選びんだ。六番・山戸は三振に倒れたものの、七番・作間がセカンド強襲の内野安打を打って満塁。ここで八番・村崎が普段の”守備の人”らしからぬ左中間を深々と破る走者一掃の二塁打を放って3点を上げたのだった。
しかし、今年の名古屋シルフィードはこのまま終わるチームではなかった。越原監督は、諦める事を知らぬ指揮官によって率いられたチームがどれほどに粘り強く戦い抜くかという点において、女子リーグに限らずスポーツ界に衝撃を与え続けてきた男だった。8回裏に六番・鳥屋尾由紀子がツーランホームランを放つと、続く9回裏、ツーアウトランナー三塁という土壇場の状況からセーフティ・スクイズバントという奇策を敢行して同点に追い付いたのだ。
延長戦に突入した10回裏、仙台ファルコンズは中二日で神崎を投入した。しかし名古屋シルフィードは、仙台ファルコンズの必死の防戦を嘲笑うかのように再びツーアウトながら、ランナー三塁という状況を作り出す事に成功した。仙台ファルコンズの内野陣は戸惑い、マウンドに集合した。
「どうする?次の打者は三番の九鬼。小技だけでなく長打力もある選手だから、今度は強打で来ると思うけど……」
セカンドの戸隠が言った。なんとも自信のなさそうな口振りだったが、それも当然だった。
「いや、さっきの事を考えると、三番打者でもバントしてくるかもしれない」
ファーストの清川が首を振りながら反論した。ショートの早瀬は顔をしかめた。誰が結論を出せるというのだ。言うまでもなく、早瀬も他の選手達も橋田監督を最初から当てにしていなかった。
「とにかく、ヒットが出ればそれでおしまいなんですから、ここは前進守備でバントに備えるべきです。内野と外野の間に落とされると辛いですけど、まあ、なんとかしますよ。任せてください!」
サードの村崎が神崎のほうを向き、勢い込んで言った。神崎は何か思いついたらしく、ククッと笑うと、「頼むぜ、マイ・スイートハート!」と答えた。
戸隠と作間がつられて笑うと、村崎は真っ赤な顔をしてうつむいてしまった。スイートハートとは、強打と堅手、かつ意気盛んなプレーでチームを支える選手に対してのみ使われる最高の誉め言葉である。確かに、今日の村崎にふさわしい呼び方かも知れなかった。
早瀬は、こんな状況でも笑っていられる戸隠達に頼もしいものを感じていた。……うん、やはりチームメイトというのはこうでなくちゃな。
前進守備をとった仙台ファルコンズの内野陣を見て、越原監督は打席に立つ九鬼明日香に無表情のままサインを送った。
神崎の初球の直球を、九鬼は当然の様に強振した。伸びのある直球に詰まった打球は、セカンド・戸隠の頭上に舞い上がった。戸隠は体をひねりながらジャンプし、打球に飛びついた。打球はグラブの網の先にかろうじて引っ掛かったが、バランスを崩した戸隠は背中からグランドに激突。担架で運ばれる羽目になった。
十一回表の先頭打者は六番の山戸だった。名古屋シルフィードはさすがに疲れの見える山浦を諦め、稲葉邦子にスイッチしていた。山戸は稲葉のスライダーに手こずり、たちまちツーストライクを奪われた。
鷹霧は戸隠に替わってネクストバッターズサークルに入り、山戸の挙動をみつめていた。
バットがすべるのか、山戸がネクストバッターズサークルにまで戻ってきてすべり止めのスプレーを手にした。瞬間、鷹霧と目があう。山戸が眉を寄せ、泣きそうな顔をした。
「駄目ですね、私って。練習の時にはレベルスイングで打っているのに、いざ試合になると、アッパースイングに戻ってしまって」
鷹霧は、春のキャンプ以来、山戸のアッパースイングの矯正を手伝っていたのだが、山戸はどうしてもレベルスイングを自分のものに出来ずにいたのだ。鷹霧は何か気のきいたセリフはないものかと思考を巡らせつつ辺りを見回すと、ナゴヤ球場のレフトスタンドの上に浮かぶ月の姿が目に入った。
……そうか、あれだ。
「ねえ、『あの月に向かって打て!』って言葉を知ってる?」
「えっ?……ああ、大杉勝男の」
「うん。今、月はあの位置にある」鷹霧は月を指さした。
「バッターボックスに入って月を見ると、目線の角度はおよそ25度になる。つまり、月を見ていれば、バットをしゃくりあげずに済む、という意味なの。判るよね?」
山戸はこの考えにひどく感動したらしく、目を輝かせて頷いた。
鷹霧はうんうんと頷き、「ドカンと一発ぶちかまして!」と山戸の肩をポンと叩いた。
バッターボックスに戻った山戸の表情が、いつもと違う事にダグアウトの早瀬は気付いていた。さっき、山戸は鷹霧と何か話していたが、その時にきっと何か相当いい事を聞いたに違いない。そうでなければ……。
早瀬がそう考えた瞬間、山戸のバットが快音を発した。打球は低い弾道を描き、左翼フェンスを直撃する二塁打となった。
そして、鷹霧が右バッターボックスに入ると、7回以来沈みがちだった三塁側の仙台ファルコンズ応援団が歓声を上げた。
稲葉の初球は内角ぎりぎりに外れるシュート。鷹霧はバットをとめたが間に合わずスイングをとられた。
2球目、再び内角に直球。鷹霧のバットが振り抜かれると、打球はレフト線ぎりぎりに上がった。スタンドがどよめいたが、速い打球は大きく左に切れた。歓声と悲鳴が同時に溜め息へと変わる。
続く3球目、四球目はどちらもきわどい球だったが、鷹霧はよく見てカウント2−2。
満員の観客が祈るような視線を送る中、稲葉が五球目を投じた。外角に逃げるスライダーを、鷹霧がバットも砕けよとばかりに強振する。
打球は一直線に一塁ベースにぶち当り、鈍い音を立てて跳ね上がると一塁側のコーチャーズボックスの後ろに力無く落ちた。一塁手の金城しのぶがボールを拾い上げた時には、鷹霧は首をすくめて一塁ベースを駆け抜けていた。
ふと後ろを振り向いた鷹霧は、信じられない光景を見た。山戸が三塁を蹴り、本塁に突入しようとしていたのだ。金城がすばやくバックホームする。山戸がヘッドスライディングの態勢に入った。
「危ない……っ!」
鷹霧は思わず叫んでいた。いや、鷹霧だけではない。その場に居合わせた全ての人間が何らかの叫び声を発していた。
山戸が滑り込む。同時にキャッチャーの荒井知子が捕球し、ミットごと、山戸を殴り倒すようにタッチする。
「……セーフッ!」
歓声、悲鳴が絶叫となって爆発した。音が空気の振動であることを耳ではなく、皮膚で実感出来る轟音の中で、鷹霧は背筋が寒くなる思いを味わっていた。山戸がよろよろと立ち上がり、ガッツポーズをしたのを見て、鷹霧はようやく安堵の溜め息を漏らした。
稲葉は意気上がる仙台ファルコンズ打線を相手に、必死の思いで後続を断ち、味方の反撃を待った。
だが、神崎は初優勝への期待を込めた名古屋シルフィード応援団の上げる金切り声の中、四番・荒井、五番・金城を二者連続三振に切ってとった。意地が通るほど世の中甘くはない、という叫び声が聞こえてきそうな気迫のこもった投球だった。だが、無理に三振を狙っていったのには理由があった。
神崎はライト方向に振り返った。セカンドには本来ライトの小加茂の姿が、その向こうにライトの守備位置に入った鷹霧の姿が見えた。神崎は口をへの字に曲げた。肩の弱い鷹霧さんに外野を守らせるなんて……。神崎もまた、橋田監督に対して、徹底的に愛想を尽かしていた。
今日ホームランを打っている六番・鳥屋尾に対して、猛烈な声援が一塁側から送られる。早瀬は一塁側ダグアウトの奥に隠れる様にして座っている越原監督の様子を伺ったが、はっきりとは分からなかった。ただ、名古屋シルフィードの士気が決して萎えていないことは感じ取れた。おそらくは、優勝に手が届きかけているチームとBクラスのチームとの差なのだろうが、名古屋シルフィードの選手達は越原監督の元に一致団結しているように見えた。
早瀬は、名古屋シルフィードの選手達に対してというよりも、越原監督に対して羨望に近いものを感じていた。野球チームの監督として、選手が自らを信じて団結してくれる、それ以上に望むものがあるだろうか?ああ、羨ましい。名古屋シルフィードの選手達は声を枯らし、メガホンを打ち付けて鳥屋尾を応援している。負けに対する悲壮感など微塵もない。……畜生め。
神崎の初球はボール。続いて二球目もボール。三球目、内角に食い込むシュートに鳥屋尾は手を出してファールし、カウント1−2となった。
四球目。カウントが悪くなる事を恐れた神崎は、得意のカーブを外角に手堅く落とした。しかし、鳥屋尾はそのカーブを待っていたのだ。鳥屋尾のバットが振り抜かれた。野球には、打球は守備位置を替わった選手のところへ飛ぶ、というジンクスが存在する。この打球もジンクスに従い、狙ったかのようにライトへ飛んだ。いや、鳥屋尾は実際に狙ったのかも知れない。この場合、鷹霧は守備の穴に違いなかったからだ。
そして、打球は鷹霧の頭上を越え、ワンバウンドしてフェンスに達した。鷹霧はクッションボールを慣れぬ手つきで処理した時、鳥屋尾は二塁ベースをちょうど蹴ったところだった。そして──!
鷹霧の左腕がしなり、「矢のような送球」がセカンドの小加茂のグラブに一直線に吸い込まれた。強肩・小加茂はすばやくサードの清川に転送。鳥屋尾は三塁の二メートル手前でタッチアウトになるという憂き目にあった。
ゲームセット。スコア三対四。名古屋シルフィードの名将・越原の手から、優勝が砂のようにこぼれ落ちていった。
早瀬は茫然とした面持ちで鷹霧を見つめていた。肩が弱いって話はどこにいったんだろう? なんとまあ、呆れた選手だ。……まさか、監督は鷹霧の肩の程度を知っていて?
いやまさか、と早瀬は一瞬の疑問をうち消した。
横須賀セイバーズは前期優勝の瞬間を、本拠地・横須賀スタジアムで迎えた。熱心かつ辛抱強いファンが名古屋シルフィードの試合終了まで内野席に陣取り、マウンド上で行われた胴上げを歓声をあげて見守った。ただ、直接対決ではなかっただけに少々気の抜けた雰囲気であったのは否めなかった。
それでも結構な数の取材陣が訪れて、監督及び選手達に矢継ぎ早に質問が浴びせられた。そして、取材がほぼ一段落しようとした時に、伊東が立花にこんな質問を投げかけた。
「結局、この優勝は仙台ファルコンズの、そう、鷹霧選手に助けられての優勝という事になりますよね?」
記者達がざわめいた。気難しい立花によくそんな質問が出来る、という驚きの声でもあったが、結局のところ彼等が一番質問したい点もそこにあった。そして、個人的に親しい伊東でなければ出来ない質問である事を理解していた彼等は、よく聞いてくれた、と心の中で拍手を送っていたのである。
その失礼としかいいようのない質問に対して、立花は意外な事に笑顔を見せて答えた。
「ええ、確かにそういう事になりますね。それは事実です。でも、これで勝負が着いた訳じゃありません。戦いはこれからです」
さすがの伊東も、その勝負の相手というのが名古屋シルフィードなのか、それとも鷹霧なのかといった突っ込んだ質問をすることまではできなかった。ただ、芸能レポーターのような意味のない笑みを浮かべて頷くだけだった。
ロッカルームへと引き上げてきた仙台ファルコンズの選手達を、岡江球団代表が出迎えた。
「代表!一体どうして……」
橋田監督が驚いて声を上げた。岡江代表が口を開いた。
「結論から言う。橋田君。たった今、君を解雇する事を決定した」
「そんな!……何故そんな事を」
「今、球団は身売りの危機に瀕している。もはや、チームを君のおもちゃにしておく余裕はない。はっきりいおう。君には選手起用の才能が不足している。そういう事だ」
選手達がざわついた。あからさまに歓声をあげる者さえいた。
「一体こんな駄目チーム、他の誰が監督をやるというんです?」
開き直りともとれる橋田監督の態度に、岡江代表はニヤリとして答えた。
「早瀬君。もし、君さえよければ、プレイングマネージャーとして仙台ファルコンズの指揮を執ってくれないだろうか」
橋田監督のにやついた顔が凍りついた。神崎は後に、その顔を見て、この場に居合わせられた事を神に感謝したくなった、と話している。
早瀬は、突然の要請に戸惑ったが、他の選手達の激励と拍手に勇気づけられて、「やってみます」と答えた。
女子リーグのオールスター東西対抗戦が行われた7月31日、東京スターズ本拠地・新洲崎スタジアムに隣接する室内練習場にひとりの少女が姿を見せた。その場には、監督、コーチ陣、球団関係者多数が居合わせていた。
「それでは、始めてもらいますか」
東京スターズ監督・近藤安子が少女を促した。少女は頷き、ボールを受け取るとマウンドに上がった。
少女が振りかぶった。大きくテークバックを取り、左脚を高々と蹴り上げ、胸を思いきり反らして、右腕を振り降ろした。
ボールはズンッと鈍い響きを立てて、ブルペン・キャッチャーのミットに突き刺さった。
「球速は!」近藤監督が怒鳴った。
「144キロですっ!」
スピードガンを持った球団職員が怒鳴り返した。どよめきが起きた。近藤監督はニヤリとして投手コーチの溝畑優子を見た。
「いけますねぇ、凄いですよ」溝畑は大きく頷いて答えた。
少女は投じた10球のうち、7球まで140キロ台に乗せた。
「いいんですか? 協約とか、いろいろ問題があるんじゃないでますか?」
マウンドを降りた少女が、少し訛の残る口調で尋ねた。すると球団職員の一人が胸を張って答えた。
「その点に関しては心配ありません。既に解決済みです」
「そうですか。これで私も晴れてプロになれるって訳ですね」
少女が顔をほころばせた。少女の名前は沢村栄美。伝説の名投手沢村栄治を祖父に持つ彼女は、まだ今年女子高に入学したばかりの高校一年生だった。
8月6日。仙台宮城球場で、後期の開幕戦である対札幌ホーネッツ戦が開始されようとしていた。
「よおし! 今日からが本番だ。ここは一番、私達の実力を仙台のファンの皆さんに見てもらおうじゃないか!」
ロッカールームで、早瀬がいつもの調子でゲキを飛ばしていた。早瀬は監督就任にあたり、背番号を8から30に変えていた。監督がしばしば付ける背番号であり、監督としての決意を表したものであった。
また同時に、正式な現役引退も発表していた。岡江代表はプレイングマネージャーとして現役を続けるように説得したが、早瀬は監督としての立場で自分の実力を評価し、仙台ファルコンズの戦力とならないと判断したのだった。
スターティングラインアップが電光掲示板に発表されると、観客がどよめき、歓声をあげた。”三番・一塁手・鷹霧”と表示されたからだった。
試合が開始され、後期の開幕投手となった印牧は、札幌ホーネッツ打線を三者凡退に切ってとった。
一回裏、ツーアウトランナーなしの場面で、初スタメンの鷹霧が打席に入った。一塁側スタンドを覆い尽くした緑のメガホンが激しく揺れた。
札幌ホーネッツの先発、桜井洋子は緊張した面持ちで初球を投じた。鷹霧のバットが一閃し、打球が低い弾道で弾き返された。そして、札幌ホーネッツ応援団がチームカラーの赤色に染めあげた左翼席へと吸い込まれていった。鷹霧の通算5本目のホームランは皮肉な事に、清川の今シーズン記録4本を抜いて仙台ファルコンズでトップの成績となるものであった。
「今日からが本番だ」ダグアウトの早瀬はそう呟き、満面の笑みを浮かべた。
第四話に続く
一塁側ベンチに戻る
INDEXに戻る