ストライクゾーン 第四話



(二十一)


 8月6日、東京都江東区、新洲崎スタジアム。東京スターズ対福岡ランサーズの後期第二回戦は、七回を終わった時点で三対二と東京スターズがリードしていた。
「……どうも、なあ」
 スコアボードをけわしい表情で睨みつけながら、ダッグアウトに戻ってきた福岡ランサーズの三番・センターの東堂加奈子が溜め息まじりに呟く。出だしは悪くなかった。先制打は、東堂が一回表に放ったツーランホームランだったから、その点については誰も文句を言うつもりもない。だが、三回、五回、六回に一点づつ取られるというのは、どうにも面白くない展開だった。
「仕方ないよ。片山の調子が良すぎる……」
 四番・サードの加納涼子が無表情で答えた。しかし内心では穏やかでないものがある。相手投手の好調を平然と認められる訳がない。いや、負けている原因が相手投手ではない事、つまり味方打線の不振にあることを認めたくはない。
「はあ、そうですね。でも、ここらで追いついとかないと、ちょっとまずいですよね」
 八回表の福岡ランサーズの攻撃は東堂からの好打順である。東堂は二、三度素振りをしてから右打席に入ったが、聞こえてきたアナウンスに、おや、と首を傾げた。
「東京スターズ、選手の交代をお知らせします。ピッチャー片山に代わりまして沢村。九番・ピッチャー沢村。背番号14」
 マウンドに登った投手を見て、福岡ランサーズ監督の一万田裕和も首を捻って投手コーチに尋ねた。
「東京スターズに沢村なんて投手がいたか?」
「さあ。知りませんねぇ」
「どういう事だ? 何かあるぞ……」
 東京スターズの応援団も、聞き慣れない投手の登場にざわついている。東京スターズの選手達はと言うと、緊張し、落ち着かない様子で沢村の動きを凝視している。
 ダイナミックな投球フォームを見せて沢村は投球練習を終え、試合が再開された。
 沢村が大きくモーションを起こした。右手を後ろに引き、左足を持ち上げる。爪先をほぼ肩の高さに来るまで蹴り上げ、重心を前へ移動させる。
 右腕がしなり、初球が投げ込まれた。ミットが、ズガンと鈍い音をたてる。ど真ん中のストレートだったが、東堂は余りの球の速さに思わず声を上げて打席から飛び退いていた。スコアボードの球速表示欄には「144キロ」と表示されていた。
 福岡ランサーズベンチからの叱責も、東京スターズベンチからの野次もなかった。スタンドのざわめきが次第に歓声と悲鳴に変わっていく。
 二球目も全く同じコースだった。東堂は、今度は飛び退きこそしなかったがバットが出なかった。三球目はフルスイングしたが完全に振り遅れた。勢い余って体を一回転させた東堂に、審判が同情を込めたような声でアウトを告げた。
 加納も三球三振だった。五番・問註所真里子も三球三振に倒れた。リーグで一、二を争う破壊力を誇るクリーンアップは九球で全滅の憂き目にあった。沢村は九回も福岡ランサーズの打者を三者連続三振に斬って取り、初セーブを上げた。
「16歳の秘密兵器」沢村栄美の衝撃的なデビューだった。

(二十二)


 初登板から一週間経ち、沢村は8月8日の福岡ランサーズ三回戦と8月10日の名古屋シルフィード戦に登板していた。福岡ランサーズ戦でも一イニングを三者三振に切って取り、連続奪三振を九に伸ばした。次の名古屋シルフィード戦では、横須賀セイバーズの立花由利が持つ記録、11連続奪三振を更新するのではないかと期待されたが、名古屋シルフィードの五番・金城しのぶがセカンドフライを打ち上げて記録は十で止まっていた。それでも沢村は全く動じる事なく、二イニングを完璧に投げ切ってセーブポイントを三に増やしていた。

「大したもんだ。これで女子リーグの注目度も上がるってもんだ」
 8月12月、青森市営球場。東京スターズとの後期一回戦を半時間後に控えて、仙台ファルコンズ監督早瀬千里は、一塁側ベンチの奥から東京スターズの打撃練習を見ながらそう言った。
 彼女が言っているのは、もちろん沢村についてだった。
「レベルの差を見せつけられるみたいで、いやになりますね」
 山戸誉が後ろから話かけてきた。早瀬が顔を上げると、選手数人が興味深げに集まってきていた。誰もが沢村の存在を気にして、何となく落ち着かない様子だった。
「全く大したピッチャーですよ。あの沢村栄治を祖父に持ち、高校生ながら女子リーグに殴り込みを掛けるやいなや、豪速球一本槍で瞬く間にセーブポイント三つですからね」
「なんでも球速は145キロ出るって言うじゃないですか。あの立花さんでさえ135キロなのに。化け物ですよ。化け物」
 選手達は口々にそう言い、打つ自信がないことをほのめかしていた。その中から作間綾子が早瀬に聞いた。
「そうは言っても監督、沢村は高校生なんでしょう? 規約に引っ掛かるんじゃないですか?」
「さて、それだ」
 早瀬はなんとも言い難い表情をした。
「確かに規約では契約は出来ない。選手契約が可能なのは高卒、短大卒、大卒、あと三年以上社会人として過ごした者に限られる。これらでないと契約は出来ない」
「じゃあ……?」
「実は沢村はアルバイトなんだ。高校生だから契約は出来ない。けど、学校が認めたアルバイトとしてなら労働基準法に触れない限り試合に出られる」
「そんな滅茶苦茶な」
「私もそう思った。だけど、東京スターズの経営母体はあの、男子プロ野球とJリーグ、両方のチームも持つ大手新聞社よ。発言力が桁違いだから、どんな事でも出来る」
「それにしたって、普通そこまでやりますか?」
「そりゃ、あちらさんにしたって、今の戦力で優勝を狙えるならこんな無茶はしない。けど、前期では四位、優勝争いに加わることさえ出来なかったんだから仕様がないんじゃない? まあ、ウチがそんな事を言えた立場じゃないのは分かっているけど」
 誰かが溜め息をついた。
「漫画じみてますね。まるでヤワラちゃんみたいだ」
「どのヤワラちゃんだ?」
 早瀬の余り上品とは言えない突っ込みに、その意味を理解出来たものだけが笑い声を上げた。早瀬は少し笑顔を見せていたが、しばらくして真顔に戻った。
「あー、笑ってばかりもいられないな。なにしろ、その沢村とは今日にも対戦しなくちゃならないんだからね。さて、ヘッドコーチ。なにか意見があれば聞かせてもらえないかな?」
 早瀬が傍らに座る黒島冴子ヘッドコーチに尋ねた。仙台ファルコンズでは前期終了後に大規模な人事異動が行われ、特に前監督の橋田派と見られたコーチがあらかた一掃されていた。黒島はもともと一介のスコアラーに過ぎなかったのだが、収集したデータを基にして戦略を立てる、いわゆるID野球に精通している点を見込まれてヘッドコーチに抜擢されていた。
「さあ、なにしろデータ不足で。今までの試合、沢村が投げたのは全てストレート、それも真ん中だけです。技術的にそれを打てないというのなら、私の領分ではありませんから……」
 黒島の返事を聞いた早瀬は、今度は少し離れたところに座っていた鷹霧佐知子に意見を求めた。
「どう思う? 145キロの球は絶対に打てないかな」
「そうですね。真っ直ぐが来ると分かっているのなら、絶対に打てないという事はないでしょう。ただ、もう少し時間が欲しかったですね。せめて一週間あれば、球に慣れる練習も出来たんですが」
「そうねぇ。結局、沢村がリリーフエースとして使われている以上は、向こうが勝っている展開でしか出てこない筈。それなら、序盤戦でリードしてしまえばいい。みんな、あんまり神経質にならないで、リラックスしていこう!」
「はい!」
 随分大きなことを言っているものだと早瀬自身も思ったが、ただの強がりではない。女子リーグでは前期と後期の間に一ケ月ばかり休みの期間がある。その一ケ月、早瀬はチーム再建に全力を尽くした。その成果は結果として表れていた。後期の五試合で四勝一敗。まだ始まったばかりとはいえ、東京スターズと並んで首位である。スタメン出場に何の問題もない鷹霧、前期最終戦以来、打撃開眼して絶好調の山戸、そしてケガで出遅れていた九四年度一次ドラフト二位のルーキー、犬飼朋子を加えた打線は大幅に得点力をアップしていた。序盤で一気に勝負を決めてしまう事も、不可能ではないのだった。

(二十三)


 試合は仙台ファルコンズが印牧貴子、東京スターズが深水千鶴の両先発で始まった。仙台ファルコンズはローテーションを五人で回しているのでちょうど一巡した形になっているが、東京スターズは六人で回していて、深水はその六番手のピッチャーである。つまりローテーションの谷間と言ってもいい。
 一回裏、仙台ファルコンズは一番・犬飼がライト前にヒットを放つと、二番・小加茂清美がファーボールを選んだ。ここで、今期三番に抜擢された鷹霧が打席に向かった。
「頑張って下さい!」
 後ろから、四番を打っている山戸が声を掛けてきた。
「ええ。お互い、今の打順をキープする為にも、ね」
 鷹霧はそう笑顔で答えた。山戸と鷹霧は、寮のルームメイトでもあり、山戸は打撃開眼の手助けをしてくれた鷹霧を師匠のように尊敬していた。また鷹霧は知らなかったが、山戸と野球を結び付けるきっかけになったのも鷹霧であるという、浅からぬ因縁も持っていた。この場面、鷹霧は山戸の激励にきちんと答え、レフト線ぎりぎりの二塁打を放って、先制点をもたらした。
 ノーアウト、二、三塁。このチャンスに四番・山戸が左バッターボックスに入った。その表情はつい一ケ月程前とは別人の様に生き生きと輝いていた。打撃の好調さが、暗くなりがちだった山戸の性格さえも明るく変化させていた。なんとかこの調子の良さを維持して、明るく振る舞っていて欲しい。半年以上に渡ってフォーム改造に付き合ってきた鷹霧は、二、三度ワッグルしてバットを構える山戸の様子を二塁上で見ながら、そう願わずにはいられなかった。
 深水が山戸に初球を投じた。山戸が鷹霧の一本足打法ほどではないが少し右足を上げて球を待つ。外角にわずかに外れてボール。続く二球目も低く外れてボール。キャッチャーはいっその事敬遠することを提案したが、深水は却下した。彼女の頭にはまだ、以前の山戸のバッティングが強く印象に残っていた。パワーはあるが、変化球に極端に弱い。深水はそのデータ通りに、カーブを投じた。山戸のバットが鋭く振り抜かれた。単純なパワーなら 山戸は鷹霧を上回っている。会心の一打はバックスクリーンの右に飛び込むスリーランとなった。
 スコア4対0。前期の東京スターズなら、これで今日の試合は決着がついたようなものだった。しかし、後期は仙台ファルコンズが変わったように東京スターズも変わっていた。四回、印牧に連打を浴びせて二点を返すと、八回、東京スターズの四番・菊池純子のツーランで同点に追い付いたのである。

(二十三)


「東京スターズ、選手の交代をお知らせします。ピッチャー深水に代わりまして沢村。九番ピッチャー沢村。背番号14」
 凄まじい声援が球場を包んだ。観客の多くが、今や女子リーグの注目度ナンバーワンの沢村を一目見ようと球場に来ていたのだから当然だった。
 沢村は観客の期待を裏切らなかった。七番から始まった仙台ファルコンズ打線は三者三振に打ち取られた。
 しかし、仙台ファルコンズのナインもファン達も、全員が諦めてしまった訳では無かった。九回裏には鷹霧に打順が回る。彼女ならきっとなんとかしてくれる筈。誰もがそう信じた。九回表を守り切ればサヨナラのチャンスがある。
 ところが、その期待ははかなくも打ち砕かれた。八回裏、リリーフエース・山本寺優子に対して、早瀬は代打の清川聖子を送っていた。そして三番手としてマウンドに登った十河文子は東京スターズ打線を抑え切れず、貴重な一点を献上してしまったのだ。十河はどうにか一失点で切り抜けたものの、この一点は大きかった。
 九回裏は一番・犬飼からの好打順だった。左打席に入った犬飼は恐れを知らず――長らく一軍に居なかった証拠に、その顔は小麦色というレベルを越えるほど日焼けしていた――、はっきりと笑みを浮かべていた。
 しかし、多少の自信など沢村の速球の前には無意味だった。一度ファール出来たことが手柄に感じられる程、あっけなく三振した。
 二番・小加茂は、最初からセーフティバントの構えを隠さなかった。沢村の足元に転がせればあるいは、と考えたのである。小加茂は二度ファールした後に見事バントしてボールを転がせたものの、猛然と突っ込んできたサード・御門麻弥が素早くボールを拾い上げて一塁に送球し、バントヒットは成らなかった。
 三番・鷹霧が右打席に入ると、歓声が一段と大きくなった。この対決で沢村の真価が決まるといっても過言ではなかった。
(打てる筈だ。沢村が投げるのは直球だけ。それなら、たとえ145キロでも打てない筈がない)
 足元を均しながら、鷹霧は自分の信念を思い起こしていた。同時に、入団テストで打った140キロの球の感覚を思い出す。
(あの時、140ロを打たせたのは、この時の為だったのかな)
 鷹霧に140キロの速球を打つように指示した那珂打撃コーチは、前期終了後の橋田一派を逐う粛清に巻き込まれてチームを去っていた。その事を思うと、鷹霧は少し寂しくなった。
 鷹霧が素振りをして、足元を固めた時点で、試合が再開された。沢村はまだどこかに幼さを残した笑顔を見せると、いきなりど真ん中に投げ込んできた。鷹霧はバットを振らずに、球の軌道を見た。速さ自体は予想とほぼ同じだった。しかし、球の伸びはやはりバッティングマシンとは比べ物にならなかった。
 二球目もど真ん中へのストレート、鷹霧はこれをバットの根っこに当ててファールした。三球目、沢村の自己記録・146キロを記録した球も、鷹霧は真後ろにファールした。バックネットの鉄塔に物凄い勢いでぶつかった打球が、ゴーンと鈍い音を立てた。
 マウンド上の沢村が、左の袖で額の汗を拭いた。さっきまでの余裕が消え、深刻な表情をしていた。それでも鷹霧は、自分が沢村を追い込んでいるという気にはならなかった。カウントは2−0。追い込まれているのは鷹霧のほうなのだ。
 少し間合いを取って、沢村が四球目のモーションを起こした。左足を高くあげ、右手をグイと引き、口をへの字に曲げ、右腕を振り降ろした。
「──!?」
 その球は、白い糸が一直線に伸びるような今までの沢村の球とは全く違い、大きく弧を描いてゆっくりと飛んできた。完全にタイミングを外された鷹霧は、ものの見事に空振りした。
(沢村のドロップ、か。畜生、ストレートだけじゃなかったのか)
 ドロップ。縦に割れるカーブという事で、現在では変化球の種類として挙げられる事は無い。沢村栄治のドロップは三段に落ちると言われ、豪速球と共に恐怖の対象だったのだ。
 鷹霧はマウンドを降りる沢村を見た。沢村は、野球はここでやるもんだよ、とばかりに自分の頭をコンコンと叩いていた。


 第五話に続く

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