ストライクゾーン 第六話



(三十)


 仙台ファルコンズは、翌日も惨敗を喫した。鷹霧は5打席、4打数1安打、1四球という結果だった。その1安打は、打ち上げた打球が大きく開いた右中間にポトリと落ちたもので、シフトの裏をかいた事は間違いないが、クリーンヒットにはほど遠い当りだった。

「なんて試合よ、全く! これじゃあ、橋田監督の時のほうがずっとましだったじゃない!」
 清川がそう怒鳴って、ロッカーの一つを思いきり蹴飛ばした。ロッカールームは一瞬シンと静まり返る。
「すいませんでした。私のせいでこんな結果に……」
 犬飼が選手達に頭を下げた。二番に入った犬飼は、送りバント失敗と併殺打で、フォアボールとポテンヒットでどうにか塁に出た鷹霧を二度とも憤死させてしまっていた。
「あなたが悪いんじゃないわ。もともと二番には向いていないんだから。適材適所の出来ない監督が悪い。確かに、橋田監督なら、こんな打線は組まなかった」
 戸隠が犬飼に言った。その表情は憤懣やるかたなしといった雰囲気だった。戸隠は今日二安打を放ちながら、守備のミスを理由に途中で河原に代えられていた。その事から、戸隠は早瀬の采配にはっきりと不満を持っていた。
「そんな事、言わないで下さい! あれだけ橋田監督のことを悪く言っていたのに、今更──」
「えぇ、そうでしょうよ。四番を打たせてもらってりゃ、不満なんてある筈ないもんね!」
 たまりかねて言葉を発した山戸に対して、清川が突っかかってきた。たまらず神崎香が間に割って入る。
「いい加減にしろよな! みんなあの時、早瀬さんが監督になる事に賛成したじゃないか」
 そこで一悶着は終わりかけたが、清川には思わぬ加勢があった。
「そりゃあ、あの時はそうだった。でも、なぁんか気に入らないんだよね。監督になった途端、急に偉そうにしてさ」
 神崎の後ろから、印牧が冷ややかに言う。吊り気味の両眸には刃物のような光が宿っている。印牧と神崎は仙台ファルコンズの左右のエースと言われてきた。神崎はそれに満足していたが、エースは一人でいい、と考える印牧には不満だった。
 神崎が目をむいた。
「なにぃ!勝手なこと抜かしやがって!」
「やめて!」
 思わず印牧に飛びかかろうとした神崎を、作間が後ろから抱きついて抑えた。殴りあいにこそならなかったが、けしかける者、制止する者それぞれが大声をはり上げ、収拾がつかなくなった。
「なにを騒いでる!」
 いきなり早瀬がロッカールームの戸を開けて怒鳴った。選手達は誰もが気まずい気分になり、あらぬ方向に視線をやったり、荷物の整理をするふりなどをし始めた。
「……もう子供じゃないんだから、いつまでも騒がないように。いいね?」
 一応騒ぎが収まったのを見て、早瀬は戸を閉めた。
「監督になって変わっちゃったなあ、早瀬さんは。前はこの部屋で色々話してたりしたのに、今じゃ野球以外の事はなんにも話してくれないもんな。監督って、そんな風にしなきゃならないのかなぁ」
 小加茂が誰に言うともなく寂しげに呟いたこの言葉こそ、選手達の気持ちを代弁していた。仙台ファルコンズは早瀬が監督に昇格した事で、チームのまとめ役を欠いていた。
 一応、新キャプテンには作間が任命されていたが、作間は理論的な思考は出来ても、有無を言わさず選手達を引っ張っていくという能力も、カリスマ性も持ち合わせていなかった。ベテラン選手だけが持つ選手達の信頼を得る空気を纏った選手が皆無だった。
 あるいは鷹霧であれば、チームをまとめるのは不可能では無かったかも知れない。彼女の信頼感は、単に試合中にはとどまらなかったからだ。しかし、この時の鷹霧は自分がルーキーである事を十分以上に認識していた。その反面、自身が生まれつき持っている、自然と他人を従わせる雰囲気――カリスマ性と呼ぶべきか――については、全く自覚していなかった。
 結果、鷹霧はこの騒ぎに対してなんら関与しようとはしなかった。自分の打撃が以前ほど縦横無尽といかなくなりつつあることに意識が囚われていた為もある。
 が、その内面では「いかなる時も、己の全力を尽くすのみ」という超然とした決意だけが彼女の行動規範として存在していた。首脳陣批判もチームの統制も己の役目とは考えていなかった。
 結局それが彼女の美徳であると同時に限界であることに、その時は鷹霧自身を含め、誰も気づいていなかった。

(三十一)


 正式名称・”新日本女子野球連盟”こと、女子リーグが発足されたのは、1992年の事である。ある大手広告代理店がアトラクションとして行うプロの女子野球チームの結成を大手新聞社に働きかけたのが始まりだった。
 その試みに賛同した大手新聞社が、かつての女子プロ野球の流れを組むアマチュアチームをバックアップして新しいプロチームを作った。それが東京スターズである。
 その対戦相手として結成されたのが、六甲産業がクラブチームとして持っていたチームをテコ入れして作った、大阪ジュピターズ(現大阪ヴァルキューレ)であった。初年度の試合はこの2チームの対戦が10回だけ、使用ボールも準硬球で、高いレベルの試合など望むべくもなく、ただの見せ物に過ぎなかった。
 それでも、初年度が一応成功理に終わった事もあり、翌年はさらに2チームが加入した。業界大手の笹川製薬が結成した横須賀セイバーズと、先覚的経営で寡占市場に殴り込みをかけていたサンライズ石油を親会社に持つ名古屋シルフィードである。この年に女子リーグの基本的な規定が作られ、使用球も硬球に改められた。
 さらに一年後に、鉄鋼会社と酒造会社をそれぞれスポンサーに持つ、福岡ランサーズと札幌ホーネッツが加わった。技術的にもどうにか子供の遊びの域を越えるものとなり、当初は懸念されていた観客動員数もわずかずつではあるが上昇し、宣伝効果も確かなものと認識されるようになった。
 中島重工が女子リーグ加盟を表明したのはその翌年、1995年の事である。この時同時に土佐銀行も加入を表明していた。しかし中島重工に対する処遇は厳しいものがあった。女子リーグは日本全国まんべんなくチームを配置する事を大目標としており、関東地方を希望した中島重工の要求は退けられてしまったのである。
 土佐銀行・松山ミラージュの状況は随分マシだった。四国はそもそも地元であったし、四国は野球王国である。将来の人材が期待出来た。女子リーグは地域密着の観点からドラフトを一次、二次に分けている。一次で指名出来るのは三人までで、その指名権はその選手の地元チームに優先的に与えられるというシステムである。松山ミラージュは、四国全体を”地元”と規定することで、その恩恵を受ける可能性が十分あったのである。
 一方、悲惨だったのが東北を地元と規定されてしまった、中島重工・仙台ファルコンズである。東北は一般的に、優秀な選手を輩出する事で知られた地方ではない。後発という事もあって弱体なチームである仙台ファルコンズはこの三年間、周囲の予想を裏切らない弱さを見せつけ続けていた。
 そんな状態であったから、仙台ファルコンズの関係者が「今年こそは」と意気込んだのも当然と言えた。

 ここまで後期第四節、8月29日までの名古屋シルフィードとの三連戦を終えた時点での仙台ファルコンズの成績は9勝8敗1分け、4位という状況だった。現在首位を走る東京スターズは12勝6敗と、ゲーム差で2.5ゲーム離されていた。
 仙台ファルコンズの日程後期第5節、8月31日、9月1日二連戦の相手は、首位・東京スターズであった。仙台ファルコンズにとっては、いつもの借金生活に入ってしまうかどうかの瀬戸際、前半戦の剣が峰だった。

 決戦を二日後に控えた8月29日。鷹霧は珍しく、試合後、兄の伸一に電話を掛けていた。鷹霧伸一は山形運輸の野球部に在籍し、今年の都市対抗野球では、チームは予選突破はならなかったものの、予選を勝ち抜いたNTT東北の補強選手として、東京ドームで行われた本大会に出場した程の実力の持ち主だった。
 補強選手制度とは、各都市の最強チーム同士を戦わせるという目的で作られたもので、各都市の代表チームに最大5人まで、予選で敗退した地元地区の優秀な選手を補強出来るという制度である。
 伸一は百四十キロ以上の伸びのあるストレートと、落差のある二種類のカーブ、ストンと落ちるナックルを武器に持つ好投手であるが、いかんせん26歳という高齢から、今年のドラフトがプロ入りの最後のチャンスだと言われていた。
『どうしたんだよ、電話してくるなんて本当に珍しいな。何かあったのか? 相談なら喜んで乗るぜ、なんとか出来る範囲ならな』
「うーん、そういうんじゃないけど。久しぶりに声を聞いてみたくなっただけ」
『なんだい、そりゃ。……あー、言わなくても判ってるぜ』伸一は面白げな声を出した。『ほら、あれだ。新聞で読んだけど、左シフトに随分てこずってるらしいな。結構、女子野球もやるもんじゃないか。まあ、サチの事だから、そう心配はないだろうけど。だけど、羨ましいよなあ。俺はガキの頃からプロ野球の選手になりたかったんだ。それが、サチのほうが先にプロになっちまうんだからな』
 伸一の鷹霧に対する話し方は、昔となにも変わっていなかった。懐かしく、鷹霧はなんとなく楽しい気分になった。
「どうかなあ、私は結構焦ってるんだよ。それに、兄さんは実際に女子リーグの試合を見た事があるの? 兄さん達から見れば、私達の試合なんて、冗談にしか思えないよ、きっと」
『なんなら、見に行こうか? いや、練習に付き合ってやってもいいぜ。次の試合は”あの”沢村のいる東京スターズなんだろ? 沢村の球は俺より速いかも知れんが。生きた140キロの球を打つ機会はそうないんじゃないか?』
 伸一が”あの”という表現をしたことに、鷹霧は息をのむ思いだった。普段はろくに会う機会もない兄妹だったが、それなりに自分のいる環境を心配してくれているのが嬉しかった。何より伸一の申し出は現実問題として魅力的だった。社会人の一流投手をバッティング投手に使える機会はそう多くはない。
「本当? 本当に、来てくれるの? それなら大歓迎。監督が賛成してくれて、規定にも問題がなければ、の話だけど。だけど、ただでって訳じゃないんでしょ?」
 伸一はプッ、と吹き出した。
『それもそうだな。でも俺はプロじゃないんでね、金は貰えん。まあ、女子リーグの内野席の切符でも貰えりゃ、文句はない』
 今度は鷹霧が笑った。
「昔と変わらないね、兄さんは。なんの得にもならないのに、私に野球を教えてくれた昔の頃とちっとも変わってない」
『ああ、変わってたまるか。けど、こうして話していると確かに昔を思い出すよな。刈り取り終わった田んぼでよく野球やってたよな、泥だらけになって』
「うん」
 鷹霧達の実家は山形の田舎にある農家である。冬になれば全てが雪に埋め尽くされてしまうだけの、なにもない所だ。鷹霧は雪は嫌いではなかったが、雪が降れば野球が出来なくなる、それだけが気に入らなかった。そんな記憶がひどく懐かしく思えた。
「あの、兄さん」鷹霧は改まった声を出した。
『ん?』
「……ありがとう」

(三十二)


 伸一の冗談まじりの提案は、その日の内に鷹霧によって早瀬に伝えられ、翌30日には球団から正式な要請が山形運輸になされた。中島重工の野球部も今年の都市対抗野球に出場した実力のあるチームではあるが、何しろ急な話だったのと、鷹霧の兄であるという事が話をまとめる大きな要因となった。

 31日の朝、伸一は捕手の二関芳雄とセンターの小須茂景勝を連れ、仙台宮城球場にやってきた。
「なにしろ時間がないので、さっそく初めてもらいます。みんなも知っている通り、山形運輸といえばかなりの強豪チーム。そのエースピッチャーの球を見て、速球の速さに慣れるように」
 早瀬は伸一達を選手に紹介してから、そう指示した。伸一と二関がウォーミングアップを開始した時点で、仙台ファルコンズの選手達は溜め息をついた。伸一のウォーミングアップの球ですら、神崎の全力のストレートと同じぐらいの速さがあった。
「こりゃ適わないや」
 ベンチ前で並んで投球練習を見ていた清川が小声で呟いて、隣の山戸を肘でつついた。
「そうですね。やっぱり男子の球は凄いですね」山戸は肩をすくめた。「だけど、黙ってやられたくはないです」
 清川がうなずいた。各自が似たような感想を抱きつつ、ウォームアップを始める。
「さて、そろそろやりますか」
 二関はそう言って、ホームベームの後ろにどっかと座った。最初に打席に入ったのは犬飼だった。伸一は大きなフォームで初球を投げ込んだ。ミットが気持ちいい音を立てる。
「ひゃー! こんなの打てないよ」
 その頓狂な声に失笑が起こるが、自嘲にもにた苦笑いは結局自分たちに跳ね返ってくる。やがて選手達は表情を引き締めて犬飼の苦闘を見守った。
 伸一は犬飼に対して10球余り、140キロ前後のストレートを投じた。犬飼は最後に真上へ打ち上げるのがやっとだった。
「横でずっと球を見て、目を慣らすんだ。君達はプロなんだから、いつまでも同じピッチャーにひねられる訳にはいかんのだろう!?」
 小須茂が選手達を叱咤する。小須茂は今年35歳と、プロ入りの適齢期をとっくに過ぎた大ベテランであるが”社会人には社会人の野球がある”がモットーの、いまだ現役のスラッガーである。彼には十歳の娘がおり、その娘を女子リーグ入りさせるのが夢だった。
 小須茂の指示通り、選手達は打撃用ゲージの回りに集まって伸一の球を目に焼きつけるよう努力した。時間と人数の関係から、一人に対して約10球程度ずつしか投げられなかったので、伸一も選手達も真剣だった。伸一は、ストレートにタイミングが合い始めた打者に対しては時折カーブも交えた投球を行った。沢村のドロップ対策である事は言うまでもなかった。
 鷹霧は一番最後に打席に入った。
「そろそろ疲れて来ているんじゃありませんか?」
 早瀬がマウンドに登って伸一に聞いた。その声には遠慮がある。
「100球以上投げ通しですから、少しは。でも、大丈夫です。いつも練習ではこんなもんですから。それに、あいつを前にしてやめる訳にもいきませんよ」
 伸一は鷹霧のほうを向いて見せた。早瀬は不要領ながら頷いた。一人っ子の彼女は、兄妹というものの絆がよく判らない。
 伸一は、打席で構える鷹霧に対して振りかぶり、初球を投げ込んだ。次の瞬間、鷹霧のバットが伸一のストレートを捉え、打球は二回バウンドしてからレフトフェンスに達した。
 二球目。外角低めに落ちるカーブ。これを鷹霧はタイミングを読み切って流し打つ。打球は一塁線を割った。
 どちらも無言。黙々と投球し、粛々と打ち返す。だが、言葉はかわさなくても、はっきりと意思がやりとりされている事を傍目に伺わせた。それほど二人の息は揃っていた。
 山戸が感嘆の溜め息をついた。どこか羨望のまなざしに近いものを鷹霧の横顔に向けている。
「鷹霧さんはきっと、小さい頃からああやって、お兄さんと一緒に野球をやってたんだろうなあ」
「バッティングの凄さの理由が判るような気がするな」清川が脱帽といった表情で頷く。「社会人のエースの球をずっと見て育ってきたんなら、女子リーグの球なんて、止まってるも同然だろうな……」
 村崎が相づちをうつ。結局、鷹霧は柵越えこそ無かったものの、強烈な当りを連発して練習は終わった。
「何か、アドバイスがあればどうぞ」
 早瀬に促され、伸一が選手達の前に立った。
「ええと。ピッチャーの球の速さを決めるのはスピードガンじゃない。バッターの眼が決めるんだ。速い、打てない、と思ったら負けだ。絶対に打つんだ、という信念さえあれば、沢村栄美の球でも打てる筈だ。永遠の無敵なんてありえない。沢村栄治は日米親善野球で、全米チーム相手に一失点で惜敗した記録がある。当時の日本の野球のレベルからすれば奇跡的だし、凄いとは思う。しかし、沢村は全部で四回全米チームと対戦しているが、抑え込んだのはその一回だけ。後の三回は全て滅多打ちに逢っている。伝説に惑わされるな。打てない球なんて存在しない。以上です」
 期せずして、選手達から拍手が起こった。
「鷹霧さん、お兄さんとやっぱり似てますね。ボールがストライクゾーンを通過する限り、絶対に打てる、って」
 山戸がなぜかうれしそうに言った。鷹霧も苦笑する。
「そうかな。やっぱり、ずっと一緒に野球やってたから、考え方も似てくるのかもね」

「鷹さん。なかなか格好良かったじゃないですか。将来、女子野球の監督になるって手もありますね」
 三塁側のロッカールームで着替えながら、二関が伸一に言った。「おお、そんときゃ俺の娘もひとつ頼む」
 小須茂がそう言って笑った。伸一が首を降る。
「冗談きついですよ。……どう思います、女子野球のレベルを」
「そうだなあ……」小須茂は真剣な表情をした。
「やはり、仙台ファルコンズで高校男子の中の上、8チームまとめて、上の下、ってな状態かな。甲子園出場校と3度やって、いっぺんでも勝てれば上出来だな」
「ま、そんな所でしょうね。でも彼女達は真剣です。その真剣さがあれば、レベルも上がって行くでしょう」
「その点から行けば、我が野球部のほうが先行き暗いな、こりゃ」
 小須茂はそう言い、なんとも言い様のない表情になった。山形運輸は不況の為、野球部の休部を検討していたからである。


 第七話に続く

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