ストライクゾーン 第七話



(三十三)


 新洲崎スタジアム。監督室。
「先発志願?  なんで急に」
「はい。沢村の話じゃ、これから学校が始まったら、遠征に同行する事も出来なくなり、毎試合出場するのも無理だと。毎週日曜日に先発させてもらえば、きっちり仕事が出来るという事らしいです」
 芝原典子ヘッドコーチの話に、東京スターズの近藤監督は唸ってしまった。
「あいつ、だんだん生意気になってないか?  かと言ってこれから沢村抜きで戦う自信も無い、か……。で? 今日投げさせろって言ってるのか? 今日は水曜なのに」
「そうらしいです。今日は夏休みの最後の日ですからね。思うところがあるんでしょう」
「というよりも金の問題だな。今日投げるかどうかで月給が変わって来るから」
「なるほど。……しょうがないな、全く」
「でも考えて見れば、予告先発という形で沢村を先発させれば、これから先『沢村を出せ!』ってお客さんに怒られる心配もない訳か。よし、先発させよう」
 そう言ってから、近藤監督は思わず自嘲した。沢村は、味方をも切り裂く両刃の剣、あるいは手を付けてはいけない禁断の木の実のようだ。ただ勝つためだけに横紙破りで入団させた沢村は、打者を打ち取れば打ち取るほど、確実にチームの調和を破壊していく。その並みはずれた出自と実力が、他の選手を萎えさせてしまうのだ。
 だからと言って、東京スターズが沢村抜きで戦う事など、もはや不可能になってしまった。
「なんて事だ……!」
 近藤は呻いた。我が栄光の東京スターズの命運が、わずか十六歳の小娘の手に握られているなんて……。

(三十四)


「げ。沢村が先発だって!」
 スコアボードの投手の欄に沢村の名が出るなり、選手達は絶句した。それとは対称的に、早瀬は落ち着いたものだった。
「いいじゃないか。向こうが先発してくれたほうがこっちとしてはやりやすい。時間を掛けて攻略出来るからね。さあ皆んな、今日特訓したばっかりだろ、ここでびびってどうすんだよ! 気合い入れていくぞ!」
「おぅ!」気を取り直した選手達の顔に、消えかけていた自信の色が再び浮かんだ。
 この試合、仙台ファルコンズの先発は神崎だった。一回表、神崎は沢村に対抗するように、ストレート主体で押すピッチングで三者凡退で終わらせた。
 一回裏、鷹霧が打席に入ると、東京スターズ守備陣は待ってましたとばかりに「鷹霧シフト」を組んだ。
 沢村は、いつものダイナミックなフォームから速球を繰り出して来た。カウント2−1からの4球目。水無月はドロップのサインを出したが、沢村は首を横に振った。
 沢村には、ドロップで躱わすつもりなど毛頭なかった。自分の最高の武器である、ストレートで勝負を挑むつもりだった。鷹霧相手に同じ手が二度も通用するとは思えなかったのだ。
 しかし沢村の投じた144キロのストレートこそ、鷹霧の待っていた球だった。「ツーストライク後は、ストレートのタイミングで待つ」というセオリーだけが理由ではない。
 前の対戦で三振に打ち取られた屈辱が忘れられない鷹霧は、沢村の最高の球を打ち返したかったのだ。鷹霧の体が半回転すると、鋭い打球が右方向へと弾き返された。ライトの真正面だったので単打だったが、広く開いた右中間に落ちていれば、長打間違い無しの当りだった。
「あの馬鹿、ストレートばっか投げやがって! あの鷹霧がストレートだけでどうにかなる選手だと思ってんのかよ!」
 三塁側ベンチでは、とばっちりを食って先発を急遽外された深水が怒鳴っていた。
 ノーアウト一塁。仙台ファルコンズベンチはこれだけで勝ったかのような大騒ぎだった。仙台ファルコンズではまた打順に変更があり、二番・小加茂、三番・犬飼、五番・作間、六番・河原、七番・清川という形になっていた。
 二番・小加茂は最初から送りバントの構えだった。小加茂は、仙台ファルコンズ内よりも他チームでの評価が高い選手で、バントの技術は女子リーグでも五本の指に入る。ピッチャーにとっては典型的な「イヤな選手」である。
 沢村は、何を思ったか、ワインドアップモーションで小加茂に対して初球を投じた。これには一塁の鷹霧も驚いたが、素早くスタートを切って難無く二塁を陥れた。
 東京スターズ内野陣がマウンドに集まった。
「何やってんだよ!」
 キャッチャーの水無月由布子が言う。
「だって、セットポジションだと、足を上げられないから投げにくいんですよ」
「あのなあ。この一ケ月、何も考えてなかったのか? それぐらいどうにかしろよ!」
「……すみません」
 試合再開。小加茂は、慣れぬセットポジションから窮屈そうに投げられた沢村の2球目を、うまく一塁線ぎりぎりに転がした。ファーストの松谷千秋がボールを拾い上げた瞬間、小加茂が思いきり「三つ!」と怒鳴った。
 松谷は条件反射で思わず三塁方向に気を取られ、慌ててファンブルしてしまった。ノーアウト1、3塁。
「へへっ、阪東英二か誰かの本に書いてあった戦法なんだ。いっぺんやってみたかったんだ、これ」
「もう、ずるいんだから! 昔っからこんな事ばっかり!」
 得意げな小加茂とは対称的に、松谷は泣きそうな顔になった。小加茂と松谷は高校時代のチームメイトだった。それだけに松谷の悔しさは特別なものがあった。
 続いて三番・犬飼が打席に入った。犬飼もスクイズバントの構えだった。沢村の速球をうまくバント出来るとは犬飼自身も思っていなかった。だが、神経質になった沢村は、犬飼にフルカウントまで粘られたあげく、入団以来2つ目のフォアボールを与えてしまった。ノーアウト満塁。沢村の迎えた、初めてのピンチらしいピンチだった。
「フォアボールの後の初球、フォアボールの後の初球を狙う」
 四番・山戸がぶつぶつ言いながらバットを構えた。その初球。開き直ったかのようなど真ん中へのストレート。
(絶対に打てるんだ!)
 空気を切り裂くストレートの軌跡を、山戸ははっきりと見切った。山戸の叩き付けるようなスイングがその球を弾き返した。
 爆音のような歓声の中、鋭い打球はバックスクリーンの向こうへと消えていった。
「入っちゃった……!」
 山戸の今シーズン5本目のホームランは、値千金の満塁ホームランとなった。戸惑いながらダイヤモンドを一周した山戸は、一際手荒く仙台ファルコンズナインに出迎えられた。
「こんな事って……」
 沢村はがっくりと肩を落とした。ドロップを打たれた太刀守の時とは状況が違っていた。自信のあるストレートを完璧に打たれたのだ。ショックは桁違いだった。
「まずいな、こりゃ」
 近藤は難しい顔になった。当然完封、あわよくばノーヒットノーラン、との近藤の思惑は大きく外れた。
「代えますか?」
「いや、見たところ、どこか体の具合が悪いという感じじゃない。こういうのもいい経験。行けるところまでいってみよう」
 投手コーチの提案に近藤監督は突き放すような口調で言い、首を横に振った。
 沢村は近藤達の期待に応え、五番以降を無難に打ち取った。一方の神崎の調子は最高の出来で、二回表も3人で終えた。
 試合が次に盛り上がりを見せたのは二回裏、ツーアウトランナーなしという状況だった。バッターは打順が一巡して一番・鷹霧。

「けど、良かったんスかね。有給とはいえ、会社が厳しい時に休んで、女子野球の観戦なんて」
 一塁側スタンド。二関が横に座る鷹霧伸一に聞いた。
「ま、たまにはいいだろ。それに、俺はちゃんと投げ込んだんだ。練習をさぼったとは言わせない」
「それに」と、ビールをグイと飲み干した小須茂が言った。
「練習に付き合うのは上が認めたんだ。特訓の成果を見届けて報告書の一つも出さにゃ、逆に怒られるってもんよ」
 小須茂はそう言って、グランドの鷹霧に目をやった。
「なんて言うかなあ、ああ、札幌食品の丸田の一本足打法に似ているな。王や大豊とは違って、バットが立っている。鷹ボンが教えたのか?」
「教えたっていうか、俺が冗談でやってたのを真似したみたいですね。あんまりいい打法とは思えないですが」
「いや、さすが鷹さんの妹さんですよ。堂々としたもんだ」
 二関が感心したように言った。

 鷹霧に対して、沢村は久々に燃えていた。今度こそ鷹霧と山戸の二人を三振に仕留めるんだ、という気迫がマウンドに満ちていた。
(だけど、こっちもただでやられる気は無いのよ。いつまでも自分のペースで戦えると思わないで頂戴)
 鷹霧の表情には、とりたてて闘志を感じることは出来ない。だが、その胸の中では氷のような冷静さと、燃え上がるような心の高ぶりが、複雑なモザイクを描いている。
「負けない……!」二人の思いは、その一点でぴたりと重なった。
 沢村が大きく振りかぶり、鷹霧の左膝が引き上げられ、全身がぴたりと静止する。
 沢村の指先から音を立てて弾き出された渾身のストレートが、水無月のミット目がけて飛び込んできた。140キロ台の後半に乗せる会心の剛速球である。
 が、その速さにも鷹霧は威圧感を感じない。力みも不必要な気負いもなく、左足を踏み込み、は沢村の速球に吸い寄せられるように金属バットを振り抜く。金属バットは真芯でボールを捉えていた。
 打球は弾丸ライナーとなってレフト線ぎりぎりへと飛んだ。そして、両翼91.4メートルと狭い仙台宮城球場のレフトポールを直撃した。

 結局、沢村はこの直後に降板し、仙台ファルコンズは気落ちした東京スターズ中継ぎ陣をことごとく打ち崩して、スコア14対2と大勝した。仙台ファルコンズと東京スターズのゲーム差は1.5。そしてこの時点で仙台ファルコンズは、大阪ヴァルキューレに敗れた名古屋シルフィードを抜き、堂々3位に浮上した。

(三十五)


「こんなに打ちまくっちゃうと、明日が心配ですね」
 球場外に通じる関係者用通路に、山戸の明るい声が響いた。大勝ちした次の試合では当たりが止まる、という野球界の七不思議の一つを懸念しているのだが、どうしても勝利の気分の良さが先に立ってしまう。その表情には言葉ほど思い詰めたものは無かった。
「そうね。でも凄い当りだったねぇ、ガツーン!って」
 鷹霧も沢村攻略に成功して、上機嫌だった。仙台ファルコンズの誰もが、今日は気持ち良く帰る事が出来そうだった。
 選手達がそれぞれ今日の試合を騒がしく批評しながら通路を出ると、外に沢村が待っていた。
「何の用だ?」
 突っかかる清川を制して、鷹霧が「どうしたの?」と優しく尋ねた。
 元々、グラウンド意外では大声を出すようなことのない鷹霧である。沢村がまるでサインを貰いにきた子供の様に、伏し目がちで、おどおどとした態度に、敵とはいえ、ついその口調は穏やかなものになる。
「……教えて下さい。どうして私のストレートを打てたんです? 今まで、女の選手にストレートをホームランされた事なんて、一度も無かったのに……」
「何言ってるんだ、こいつ……? 鷹霧さん、こんな奴放っといて早く行きましょうよ」
 清川が鷹霧を促したが、鷹霧は首を横に振った。
「そういう訳にもいかないよ。聞かれた事には答えなきゃ。……そうね、アマチュアのアルバイト選手には判らない、プロの誇りや意地があるって事かな。もし打順がもう一巡していたら、私と山戸以外の選手もあなたの速球を捉えていた。それがプロ、同じ球がいつまでも通用するほど甘くない。そういう事よ」
「そうですか……」
冗談めかしてはいるが真摯な表情で答える鷹霧の顔を見て、沢村はうなだれて、今にも泣き出しそうな顔になった。
 仙台ファルコンズの選手達がどうしたものかと声をかけかねていると、沢村がおもむろに顔をあげた。その顔には一つの決意がはっきり表れていた。
「ありがとうございました。プロの怖さ、厳しさがはっきりと判りました。これでふっ切れました。私、今日で東京スターズを辞めます。2年間高校の野球部でしっかり練習して、今度はドラフトか、テストを受けるかして、きちんとした形で入団します。その時は、また勝負して下さいね!」
沢村は晴れやかな表情で鷹霧に頭を下げると、その場を走り去った。
「なんだかなぁ。鷹霧さん、本当にあと一巡したらみんな沢村を打てたと思いますか? 私は自信無いですよ」
犬飼が、沢村の姿が見えなくなってから鷹霧に尋ねた。
「いやあ、案外打てたんじゃないかと思ったんだけど」
 鷹霧が苦笑して応じる。
「でも、惜しいなあ、せっかくカモが出来たと思ったのに」
 山戸が溜め息をついた。よほど今日のホームランで、沢村打ちの自信を得たものらしかった。
 そんな山戸の姿を見て、鷹霧は山戸の肩を叩き、ニコリと笑った。
「いいのかなあ、そんな事言って。沢村はきっと二年後、恐ろしい投手になって戻ってくる。コーナーに投げ分け、チェンジアップとフォークを身につけた沢村を打ち崩す自信は、私には全然無いんだけど。その時は山戸に任せた」
 鷹霧の言い方が彼女らしからぬ軽妙なものだったので、居合わせた誰もが思わず笑ってしまった。ただ、山戸だけが困り果ててしまい、その様子はさらに笑いを誘っていた。
 この情景を見た作間は日記にこう書き記している。
「……今日の出来事で、鷹霧さんの今まで知らなかった一面を見たような気がした。早瀬さんには、先頭を切って敵に向かう斬り込み隊長、頼れる姉貴、一方の鷹霧さんには、いつも後ろで私達の行動を見守ってくれる、信頼出来る母親、という雰囲気がある。どちらがいいか、なんて事は私には分からない。でも、早瀬さんのやり方は、チームが一丸になっていて初めて意味を持つ。バラバラになったチームをまとめられるのは、私達の中では鷹霧さんしかいないのかも知れない。早瀬さんのリーダーシップは、私達と同じ視点にいないと発揮出来ないような気がする。

 あーあ、一応主将の私がこんな事書いて、どうなるってんだろ。馬鹿みたい……」

(三十六)


 仙台ファルコンズは、未婚、あるいは女子リーグ三年以内の選手に寮生活を義務づけられている。従って、ほとんど全員が寮生活を送っている事になる。清川ももちろんその一人である。
 今日の試合、大爆発した仙台ファルコンズ打線において、一人だけスタメンでヒットを打てなかった清川は真夜中に起き出し、寮の裏庭に出た。そこには屋根とゲージ付きのちょっとしたブルペンがあり、選手達がいつでも練習出来るようにと解放されていた。清川はそこにあるバッティングマシンを使って、打撃練習をするつもりだった。
「問題は、私があれを動かせるかなんだけど……」
 清川の心配はもっともなものだった。何故なら、ここにあるバッティングマシンは中島重工がスポーツ用具メーカーと提携して開発した、最新鋭の代物だったからだ。
 このマシンの特徴はアームの角度を胴体ごと左右百十度まで傾ける事によって、左右それぞれの上手、下手投げを練習出来る点にある。さらに、アームにも新素材を使って「腕のしなり」も再現していて、実戦的な練習が出来る。それだけに操作は色々と複雑になっていた。
 ところが、彼女の心配は杞憂だった。先客がいたからである。
「誰だろう……?」
 強烈な打球を連発しているその選手を見て、清川は驚いた。打っていたのは鷹霧だった。
 清川が呆れて見ていると、鷹霧が気付いて笑顔を見せた。
「どうぞ。私はもう終わるから。機械の操作、してあげるね」
「あっ、すいません。お願いします……」
 清川は恐縮してゲージ内に入った。80球程度、気持ち良く打ちまくって清川は練習を終えた。鷹霧が清川にタオルを手渡した。
「ああ、有難うございます。……鷹霧さんはどうして特打ちを? 今日は大当りだったじゃないですか」
「なんとなく、流し打ちのコツが今日の試合でなんとなく掴めた気がして。そう思ったら眠れなくなってね」
「そうですか……」
清川は鷹霧の野球に対する情熱に驚かされた。二人はそれから30分余り、星空の下で話し合った。野球技術だけでなく、互いの家族や友達、将来の夢について。
「清川は確か村崎と同級生だったよね? 女子野球の名門、高崎商科大学の。私の山形短大は弱いチームだったんだから、羨ましかったの。部に入った時は、学校を間違えたと思ったくらいだから……」
「高商が名門かどうかは知りませんが」鷹霧の言葉に、清川が苦笑して応じる。「あの頃は楽しかったなあ。村崎は昔っからバッティングが苦手でしてねえ」
 ふと我に返った表情を見せて、清川が自嘲気味の照れ笑いを見せた。
「ははっ、今じゃ私が言えたセリフじゃありませんね。これでも大学4年間、一度も四番の打順を他人に譲らなかったスラッガーだったんですよ。鷹霧さんから見れば、ど素人みたいに見えるでしょうけど」
「そんな事はない。やっぱり実戦経験は清川のほうがずっと多いんだから」鷹霧が驚いた表情を見せて、首を振る。「……私なんか短大時代一度しか試合に出れなかった。その試合で大怪我して、あと二年を棒に振って。世の中には金で買えないものがある。経験は金で買えない」
 鷹霧が言い募った言葉に、清川がクスッ、と笑った。
「でも、世の中には金で買えるものも沢山ありますよ」
 鷹霧が得たりとばかりに頷く。
「その通り。でも、経験、夢、勝利、技術。本当に欲しいものほど金じゃ買えない。だから、私達はこうして夜中に起き出してバット振ってるんじゃないの。頑張ろうよ。今期は優勝も夢じゃない」
「ええ、頑張りましょう」
 清川は、早瀬に対してあれほど反抗的だった自分が、それほど親しい訳では無かった鷹霧相手に気兼ねなく話し合い、笑い合っている事に、自分で驚いていた。
 スタメンがどうだ、クリーンアップがどうだと騒ぎ、文句ばかり言っていた自分が恥ずかしくなった。人間の格が余りにも違うように思えた。この人に迷惑をかける訳にはいかない。
「私、一生懸命頑張りますよ。絶対に優勝しましょう!」
「ええ、でも今日はもう寝よう。明日も試合があるんだから」
 鷹霧のさわやかな笑顔を、清川は一生忘れないと思った。


 第八話に続く

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