ストライクゾーン 第八話
(三十七)
98年度の女子リーグ後期の状況は興味深いものになりつつあった。もっとも、興味深いと感じているのは試合の流れを客観的に見る事の出来る者達に限られており、実際に戦っている選手及び首脳陣達にとっては苦闘以外の何物でもない。
その中で、もっとも苦闘していたのが東京スターズである事はもはや誰の目にも明らかだった。
このチームの首脳部は、沢村栄美という極めてあやふやな存在のアルバイト投手を抑えの切り札として重用するあまり、彼女があてに出来なくなった場合のリリーフ投手の設定を忘れていた。彼女が余りにも完璧に仕事をこなしすぎたせいもあったが、優勝を狙おうかというチームとしては、これは致命的な失敗だった。
8月31日を最後に沢村が東京スターズから関係を断つと、東京スターズはそれこそ、坂を転げ落ちる石のように敗戦を重ね始めた。彼女の存在はそれほどの意味を持っていたのだ。
9月の中旬で月間成績が2勝11敗となった時点で、評論家・関係者のほとんど全てが、東京スターズの首位戦線脱落を宣言した。
この時点で首位に立っていたのは、前期で優勝を逃した名古屋シルフィードだった。越原繁貴監督は、どちらかと言えば質がいいとは言い難い選手達の扱いについて、老獪な手腕を持っていた。
もしもこの老将が、誰の目にも優秀と分かる選手達を率いていたならば、と他チームが恐怖するほどの試合巧者ぶりだった。
首位から2.5ゲーム差で2位につけているのが、意外な事に東北の弱小チーム、仙台ファルコンズだった。後期の中盤が終わろうという第7節でここまで食い下がっているのは、多くの評論家達(そして当人達)にとって誤算だった。このままの調子を保てれば、優勝も夢ではない。そう評する者さえいた。
しかし、仙台ファルコンズ監督・早瀬千里と、ヘッドコーチ・黒島冴子は、その認識がかなり甘いと感じていた。彼女達は内外の不安要素に気付いていたのだ。
内の不安要素は主として投手陣だった。
今のところ、打撃陣の破壊力は福岡ランサーズに次ぐ、と言われている程だから、特に問題点は無かった(破壊力一番という触れ込みの福岡ランサーズは、5点取っては6点取られて負ける、という試合をここ何シーズンか飽きずに続けている)。鷹霧佐知子と犬飼朋子の加入、山戸誉と作間綾子の好調がそれを裏づけていた。
問題は投手陣だった。
昨年まで、仙台ファルコンズはどちらかと言えば投手力主体のチームと見られていたから、こちらに問題が降り掛かってくるのは意外なように思われたが、優勝争いに食い込むとなると話が違ってくる。
神崎香と印牧貴子は、まず女子リーグの一流と言って間違いない投手達ではあったが、残念ながらその後が続かないのだ。昨年一次ドラフト一位の今関郁子も二年目のジンクスに苦しみながらも頑張っていたが、せいぜいその程度だった。
そして、貴重な中継ぎとして貢献してきていた十河文子が故障で脱落したのが痛い一撃となった。十河の戦意は高かったが、肘にネズミ(遊離軟骨)を作り、手術をしなければならない状況ではいかんともしがたかった。
よほどのファンでもなければ、十河は出てくるたびに火ダルマになっているような印象しか与えない投手ではあったが、実際の貢献度はかなり高いものだったのだ。
台風の目となりつつ仙台ファルコンズの台所事情がその程度である以上、豊富な投手陣を整備していた横須賀セイバーズが急浮上してきたのは当然といえた。立花由利一人がクローズアップされる事の多い横須賀セイバーズ投手陣が、女子リーグで最も質と量のバランスがとれている事は、少しばかり女子リーグに詳しい者にとっては常識だった。
現在3位の横須賀セイバーズは、2位・仙台ファルコンズから0.5ゲーム差の位置についている。横須賀セイバーズの実力からすれば、軽々と二位浮上を果たしてしまうだろう。そう考えられたのは当然と言えた。
しかし、仙台ファルコンズもしぶとかった。
9月15日、仙台宮城球場での対札幌ホーネッツ最終戦。
スコア3対3で延長12回裏。仙台ファルコンズは最後の攻撃に入っていた。女子リーグで延長に関する規定は「12回を越えて新しいイニングには入らない」という一項しかない。つまり仙台ファルコンズに負けは無い。
「まあ、努力と根性を唄うのは誰にでも出来るけど、実際にそれをやるのは結構大変だからねえ」
ネクストバッターズサークルで、これから打席に入ろうとしていた鷹霧は、早瀬にそう声を掛けられた。
鷹霧は監督が出てきた時点で、「代打か?」と慌てたが、そうでないらしい事に安堵した。しかし、その意図が分からなかった。
「監督……。そんな事は、気合いと集中力を最高に高めなきゃならないバッターに言う事ではありませんよ……」
決して口数が多いとは言えない鷹霧ではあるが、言うべき事は正直に言っておこうと、珍しく早瀬に意見した。
他人が見れば、鷹霧が早瀬に対して幹部教育をしているように見えたかも知れない。実際、「早瀬より鷹霧のほうが、指揮官としての能力は上ではないか」と内外でささやかれているくらいだったのだから。
早瀬とて、人並み以上の洞察力を持っているつもりだったから、その程度の情報はつかんでいた(幸か不幸か、早瀬の指導力に積極的に疑問符をつけている選手の存在には気付いていなかった)。早瀬にとって気が重いのは、鷹霧のカリスマ性を早瀬自身、高く評価している点だった。
「うん、まあ、その、判ってるんだけど、いい言葉が見つからなくて……」
早瀬がバツの悪そうな顔をしたのを見て、鷹霧は苦笑いをした。
「大丈夫ですよ。任せて下さい」
「頼んだわよ。この試合、引き分けと勝つのとでは、かなり後で響いてくるから」
早瀬という監督は、ここぞという時に何かを言わなくては気が済まない性格らしい。鷹霧はこれ以上の”無駄話”を避け、黙って頷くと打席に向かった。
鷹霧は、早瀬のあいまいな立場について十分に理解していた。
なんといってもシーズン途中で就任した、いわば代理監督なのだ。後期の成績が前任の橋田監督の時よりも悪かったら、解任も覚悟しなければならない。
鷹霧は早瀬に色々と恩義を感じていたから、何とか優勝して恩返しをしたいと思っていた。
(ここで打たなくちゃ、信頼を失ったとしても文句は言えないな)
鷹霧は戦況を再確認した。ツーアウト、ランナー一・二塁。セカンドランナーは八番打者の村崎桐華だ。ここでヒットを打てば、まず間違いなくホームに生還出来るだろうから、早瀬が口出ししたくなった気持ちも分からない訳ではない。
そもそも、鷹霧も大きな事を言えない立場にある。九回表に札幌ホーネッツの同点のランナーが出塁したのは、鷹霧のエラーによるものだったからだ。彼女はまだ、急遽与えられたレフトというポジションに慣れてはいない。
大体、シーズン中のコンバートなど通常では考えられないのだが、女子リーグの持つ「粗削りな発展途上段階」という雰囲気がその馬鹿げた行為を容認していた。
札幌ホーネッツの投手は、後期の開幕戦で鷹霧がホームランを放った相手である桜井洋子。
桜井は丁寧かつ大胆な配球で仕掛けてきた。
初球は内角高めぎりぎりの直球、2球目はボールから外角一杯に切り込んでくるシュート。鷹霧はどちらにも手を出さず(人によっては手が出ないようにも見えた)カウント2−0。
(問題は、桜井さんが私の弱点を知っているかどうかだなあ……)
一旦バッターボックスを外して間合いを計りつつ、鷹霧は配球から桜井の心理を推察しようと試みた。元々、鷹霧は来た球を柔軟に打ち返すより、球種を読み、決め打ちするタイプのバッターである。読みが冴えているときは固め打ち出来るが、一度読みを外されるとかなり苦しい立場に追い込まれてしまう。
鷹霧の弱いコース。ほとんどの投手はそれが内角低めだと考えている筈だった。一本足打法の性質上、それは誰の目にも明らかだった。
それは鷹霧も承知の上で、それを克服すべく猛練習を重ねてきている。簡単に置きにくる球なら、確実に打ち返せる自信があった。
本当に苦手なのは、外角高めだった。”あるコースを苦手とする打者は、その対角線上も苦手とする”というセオリーに、鷹霧も当てはまっていた。となれば焦点は、どちらが主になっているか、だった。
次の球、桜井は外角高めに大きく外してきた。
(そうか。桜井さんはまだ気付いていない)
もし外角高めが弱点だと知っていれば、外角に外す事は考えられない。わざわざ目を慣らさせてくれているようなものだからだ。内角高めで身体を起こそうとするはずだ。
鷹霧の心に、過剰とも思えるほどの自信が湧いてくる。いずれは分析され、簡単に打てなくなる日がくるのは判り切っている。それだけに、自分が優位を保っていられる時間がまだ残っている事を嬉しく思った。
(ならば、次は内角に来る)
鷹霧はそう読んだ。
案の定、桜井の次の球は、左足の爪先を狙うかのような内角低め。
鷹霧がすくいあげるように打ち返すと、打球はレフト線上に飛んだ。ツーアウトだから当然二塁ランナーの村崎は打つと同時にスタートを切る。
打球は低い弾道を描きつつ、ライン上に落ちて石灰を弾いた。歓声が渦を巻く。右手を高々を突き上げつつホームベースを踏んだ村崎を、仙台ファルコンズの選手達が手荒く祝福した。サヨナラ勝ちである。
打った鷹霧は、一塁ベースを踏んでから戻ってくる途中、右肘に嫌な痛みを感じていた。改めて五体に意識を集中してみると、あちこちに痛みが走るのが感じられた。
鷹霧は額に浮き出る脂汗をそっと拭い、右肘を左手で押さえた。
(これは、もしかして……。後でトレーナーに見てもらわないと)
鷹霧は内心でわき上がる不安を押し隠し、いつもにも増してそっけなくヒロインインタビュー(女子リーグだから当然そうなる)を終えると、慌ただしく寮へ向かうバスに乗り込んだ。
(三十八)
仙台ファルコンズトレーナー・内藤孝は鷹霧の状態を見て、即座に専門医に見てもらう事を提案した。
総合病院で鷹霧を診察したのは偶然にも、短大時代の彼女を診察した同じ医師だった。
精密検査を行った医師はその結果に、思わず自分の身体に痛みが走ったかのように顔をしかめた。
「無理を承知で女子リーグに入った人に、こんな事を言うべきではないかも知れないのですが、これは、ちょっとひどすぎますよ」
鷹霧と内藤の前で、その医師はそう切り出した。
鷹霧の全身は、想像以上にボロボロになっていた。
まず、一本足打法の軸足である右足の足首が疲労によって炎症を起こしていた。
踏み込む時に普通の打法以上に負担のかかる左足の関節も同じように炎症を起こし始めていた。当然、衝撃を受け止める背中の負担も大きい。
その中でも、やはり深刻なのは古傷のある右肘だった。シフトに対抗すべく流し打ちの特訓をした結果、バットコントロールを要求される右肘にも負担が掛かり、靭帯が切断されかかっていた。加えて、無意識のうちに右肘をかばってスイングをする為、左腕にも影響が出始めていた。
「これ以上試合に出る事はお勧め出来ません。せめて二週間、休養して治療に専念して欲しいですね」
「これからは、日程がだいぶ楽になります。入念なマッサージと痛み止めで、なんとか試合には出られると思うのですが」
医師の忠告に、内藤が悲痛な表情で言った。彼にしても、このような言葉は本意ではない。
しかし、鷹霧の存在が仙台ファルコンズにとってどれほど大きいか、彼は知り過ぎるほど知っていた。鷹霧が今ここで戦線を離れれば、たちまち首位戦線から取り残されてしまうだろう。
「私はスポーツ医学は専門ではないですが」医師はそう前置きをして、レントゲン写真を見比べながら、言葉を選びながら話し始める。「足や背中は、確かにシーズン終了までは持たせられるでしょう。しかし、右肘は……。本来なら、今すぐにでも再建手術を行わなければならない状態ですよ」
医師が顔を曇らせてそう言い終えると、重苦しい空気が室内を満たした。
「再建手術を行うと、復帰にはどのぐらいかかるのでしょうか?」
鷹霧が聞いた。声が震えるのは手術への恐怖ではない。試合に出られなくなることが怖いのだ。
「リハビリと調整を含めて、3ヶ月というところでしょうか」
「3ヶ月……」鷹霧が唸る。
鷹霧の落胆に構わず、医師は続けた。
「もし靭帯が断裂した場合、移植手術が必要になります。手首の腱を移植するのですが、それだと復帰には1年かかると考えてください」
「来期は出場出来なくなる……?」内藤が絶句した。
「それは構わないんです」
鷹霧が静かな口調で言った。鷹霧は来期を計算していない。今期の優勝に貢献出来るかどうか、関心はそこにしか無いのだ。
「とりあえず、監督に報告することだな」
寮へ帰る車の中、ハンドルを握る内藤が暗い声で言った。
「それは……。申し訳ありませんが、監督には話さないでくれませんか?」
「馬鹿な!」内藤が声を荒げた。「君も、自分の身体がどんな状態か分かっているだろう?」
「ですが……。ここでスタメンを外れたら、二度と試合に出してもらえないかも知れない……」
鷹霧の声の質は、いつもの落ち着いたものとは全く違っていた。普段の鷹霧からは想像出来ない、涙に潤んだ声だった。
「そんな事はないさ。ウチの選手もコーチ達も、もちろん監督も君を頼りにしている」
内藤は慰めではなく、本心からそう言った。
「じゃあ、なおさら。私はどのみち、五年も十年もプレー出来る体じゃないんです」
思い詰めた鷹霧の言葉には、必要以上に沈痛な響きがあった。
(三十九)
9月17日。早朝。
仙台ファルコンズの選手寮”隼寮”の自室のベッドで、鷹霧は窓の外を見た。
空が次第に明るくなる様子が判った。
今日は大阪ヴァルキューレとのデーゲームが予定されている。鷹霧は、無意識のうちに雨天中止を願っていた自分に気付いていた。
元巨人の山倉捕手は、長年ボールを捕り続けてきた左手の痛みで雨を予知出来たという。鷹霧の右肘にはそこまでの年期は入っていなかったが、確かに痛み方が違うような気もした。
「プロ野球というのは、1ヶ月程度でここまで身体を痛め付けるものなの? もしかして橋田監督は、こうなる事が判っていたから……」
鷹霧は、女子リーグに入るまで、短大時代に負傷退場した一試合を除いては、試合に出た経験が無かった。
その為、身体の痛みが単なる疲れから来るのか、それとも故障の前触れなのか見極められなかったのだ。右肘に爆弾を抱えていればなおさらだった。
二段ベッドの上から、山戸の寝息がかすかに聞こえてくる。鷹霧は再び溜め息をつく。
「山戸のほうが本当はベテランなのよね」
鷹霧は手の平をじっと眺めた。特に左手の指の付け根がマメに覆われている。この一年足らずで作ったものだ。何度と無く破れ、その度に厚い皮がその下から浮き出てきた、その結果だ。
(野球に戻ってきたのは失敗? いや、そんな事はない)
眠れぬ鷹霧はその言葉を幾度と無く自問し、その度に即座にそれを否定し続けていた。
(たとえ体と命を擦り減らすような行為だとしても、私は野球が好きだから。そして、本当に好きなこと、やりたいことを見つけられる人間はそれほど多くない。それを実現出来る者はもっと少ない。私はそういった人達の分まで、自分の信じる道を進む!)
山戸なら判ってくれるだろうか。鷹霧はそう思い、苦笑した。
後期に入って絶好調の山戸。彼女の人気は急上昇しており、ファンレターの数やサインをねだられる頻度から考えるなら、鷹霧のそれを上回っているように思われた。
その点について鷹霧はどうこう思っている訳ではない。ただ、面白いと思っていた。二人のファンの間に明確な差が感じられたからだ。
端的に表現するなら、鷹霧は玄人受けする地味な選手、山戸は素人受けのする派手な選手という事になるらしかった。つまり、球団側の「鷹霧を看板選手に」という思惑は完全に外れた格好になっている。何故そうなるのか、誰も合理的に説明出来なかったが、それが個性というものなのだろう。
山戸の寝息を聞きながら、鷹霧はそういう評価が固まっていくにあたっての事情について、とりとめなく考えを巡らせた。
鷹霧は正直なところ、自分がベテランのように扱われる度に困惑の色合いを深めていた。いくらそういう雰囲気だからと言って、24歳のルーキーをつかまえて、ベテランよばわりされるのはたまらなかった。
他人が聞くと意外に思うだろうが、鷹霧佐知子という人間は自分が一人の人間として”平均以上の存在”に属しているかどうか、常に不安に思っている傾向があった。
(本当の私は、頼られるより頼るほうが性に合っているんだけど)
鷹霧は、そう考えてから苦笑する。次第にどちらかと言えばくだらない事象について思考を振り向けている自分に気づいたのだ。仕方のないことだった。まともに現状に向き合うには、気にくわない事が多すぎた。
まず、あとシーズンが1ヶ月残っている事が問題だった。内藤に頼み込んで早瀬には黙ってもらっているが、1ヶ月フル出場するのはまず無理だった。優勝争いがもつれた場合、一番大事な試合に出られなくなる恐れがあった。そうなったら最悪だった。
さらに、一番・レフトという今の立場も、正直気に入らなかった。鷹霧は本質的に小細工の出来る打者ではない。これはバッターボックス内だけではなく、塁上にいる場合でも同じだった。全く経験の無いレフトでは、2試合に1度の割合でエラーをしているような有様だった。
(やっぱり、言うべき事は言っておかないとな)
鷹霧はそう心に結論付けた。重苦しい心理の果てにたどり着いた結論にしては、きわめて明快であった。それが彼女の気質というものだろう。
その日の試合前、ポジションと打順の変更を申し出た鷹霧に、早瀬は意外な答えを用意していた。
「あぁ、それなら」早瀬が微笑む。「三番・ファースト。こっちもそのつもりだったわ」
「えっ、でも……」
鷹霧は言葉に詰まった。打順はともかく、そもそも鷹霧がファーストを外れたのは、ファーストを守る清川との兼ね合いが原因だった筈だからだ。
「そう、それよ。さっき清川が来て、スタメン外してくれて構わないってさ。どういうつもりだろうね?」
早瀬の不思議そうな顔を見て、鷹霧は苦笑した。清川の事だから他の選手達には「鷹霧さんがエラーばかりしてたんじゃ、勝てる試合も勝てなくなっちゃう」などと強がっているのだろう。
(ありがとう。あなたの分まで頑張るから)
鷹霧は心の中で感謝した。
晴れ晴れとした表情で礼を言い、気持ちを引き締めてウォーミングアップに取りかかる鷹霧の後ろ姿をみて、早瀬は周囲に気づかれないように嘆息した。
鷹霧の処遇に悩んでいたのは早瀬も同じだった。
鷹霧のレフトが冷や汗ものだったのも一因だが、早瀬は立場を明確に出来ない自分に苛立っていたのだ。
彼女は余りにも選手の立場を判り過ぎていた。数ヶ月前までは同じ仲間だったのだから、当然だ。
だが、監督が選手の立場で物事を考えたのでは全てが成り立たない。非情と言われようと、監督として毅然とした態度を貫かねばならない。
一旦は情に流されて、長年苦楽を共にしてきた清川をスタメンに入れたものの、再び当初案に切り替えたのはその為だ。その点では、清川が自らレギュラーにこだわらないと申し出てくれたのは渡りに船だった。
だが、清川をベンチに下げ、鷹霧をファーストに戻すのが本当に正しい方策なのか、誰にも断言できない。
「もし、これが裏目に出るようなら、それこそ監督失格かもね」
早瀬は自らにそう言い、ほぞを固めた。試合に臨んでテンションを高めていく選手達を見つめるその視線は、直前にせまった今日の試合よりももっと遠くを睨んでいるかのようだった。
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