ストライクゾーン 第九話



(四十一)


 9月19日。静岡、草薙球場。
 首位攻防戦である名古屋シルフィード対横須賀セイバーズの七回戦は、七回裏の横須賀セイバーズの攻撃で、スコア4対0と横須賀セイバーズがリードしていた。
 今日の試合、横須賀セイバーズが勝てばゲーム差無しながら、厘差で名古屋シルフィードは二位に転落する。
「なあ、若泉君。君は育成シミュレーションというのを知っとるかね? パソコンのゲームだ」
 ベンチの奥に立ち、腕組みをしながら戦況を睨む富士原監督が、真面目くさった顔をグランドに向けたまま、そう問うた。
「はあ? パソコンゲームですか?」いきなり妙な質問を受けた若泉高明ヘッドコーチが、珍しく間の抜けた返事をする。
 若泉は社会人野球時代から、監督とヘッドというコンビを組んで久しく、その名前から”女子野球界の諸葛孔明”と表される切れ者である。その若泉であっても、富士原の考え全てを手に取るように理解している訳ではない。
「そうだ。……娘がパソコンをどうしても欲しいなんていうものだから、仕方なく買ってやったら、ゲームばかりしているものでね」
 富士原はそこまで言って言葉を切った。わずかに目を細める。若泉はその表情を見て、より妙な気持ちにさせられた。富士原は照れているのだ。
「そんなものですねえ……。私もパソコンは、ワープロと表計算を触るくらいで。インターネットというのもこの間若い連中に見せて貰いましたが、どうにも概念自体を把握できなくて参りました」
 話の筋が読めずに、若泉は独白するような口調で応じた。グランドに目をやる。
 攻撃側の名古屋シルフィードは下位打線。
 ツーアウト。
 ピッチャーはエース・立花由利。
 この状況にあっては、特に指示を出さなければならない訳ではない。が、こんな場違いな話をしていていいものだろうかと若泉は思う。
「で、そのゲームってのはだ。中世――とはいっても、剣と魔法のファンタジーというやつだが――の元勇者が、孤児院から引き取った女の子を立派なレディに育てるというものなんだが。若泉君、具体的にどうやると思う?」
「普通なら、高い金を払って、一流の教育を受けさせ、教養を身につけさせるんでしょうが……」
「そうだ、ゲームでもその辺りの事情に違いは無い」富士原がうなずいた。とは言ってもグランドから目をそらしている訳ではない。
「問題は」富士原が探るような口調で言う。「その教育費をどこから捻出するか、という点だ」
「……」
 どう答えていいか分からない若泉を横目に、富士原は続けた。
「そのゲームでは、娘にアルバイトをさせる事によって金を稼ぐんだ。無論、社会勉強という意味合いもあるがね。高い収入を得られる職種は教育上良くなく、教育にいい職種は賃金が安い。このあたりのジレンマがゲームとしての面白さなんだろうが。なんだか暗示的だと思わんかね?」
「なぁるほど。やっと話の筋が見えましたよ」若泉が破顔する。
「ほう、君にしては遅かったな」富士原も口の端をわずかに曲げて笑みを表現する。「試合に勝ちつつも選手も育てる。目の前の一点、その試合の勝利、チームの優勝、さらには将来における最強の布陣。全く。戦術レベルから大戦略レベルまで面倒を見なければならんとはな。監督なんて職業をやるもんじゃないよ。無責任なゲームをやっているぶんには構わんが、現実問題としてはたまったもんじゃない」
 選手の何人かが二人の話に気づき、ダグアウトの一番奥にいる富士原達のほうを振り返っていた。
「女子リーグ一の名将との誉れ高い、富士原監督をしてそう言わしめますか。優勝に手が届きそうなのに?」
 若泉は溜め息のそのものの声を出した。
「後期の優勝にそれほど意味はない」富士原がつまらなさそうに答えた。「どっちにしろ、前期と後期の二位チームのどちらかと決定戦をしなきゃならんのだから」
「もし名古屋シルフィードが二位にとどまれなかったとすれば、後期の二位は」若泉が言う。
「ファルコンズだろうな」富士原はあっさり断言する。
「消去法でいくと、そうなるでしょうね」
「君は、どっちを相手にするほうが楽だと思うね?」
「シルフィードは持久力、組織力、ファルコンズは瞬発力、破壊力でそれぞれ勝ち進んでいますが……。そうですね、敵としてはシルフィードのほうが怖いですかね」
若泉は、今の試合で勝っている相手だとはいえ、名古屋シルフィードを過小評価するような真似はしなかった。そして、自分の答えが導き出す結論に愕然とする。
「……では!?」
「そういうことだ」富士原が静かに言った。「ファルコンズを優勝させる訳にはいかない。あのチームの将来性は、我々にとって最大の脅威だ」
「明日の勝利の為ならば?」若泉が聞く。驚きを通り越して、愉快な気分になってくるのを自覚していた。従ってその口調は軽い。
「そうだ。明日の勝利の為ならば、だ」
富士原がうなずいた。その顔には、先ほど監督の立場がどうこうと弱音を吐いた人間とは思えないほどの気力が満ちていた。

(四十二)


 9月25日。仙台宮城球場。対松山ミラージュ7回戦。
 破砕音とでも表現すべき金属バットの轟きを残して、山戸の打球がライトスタンドに叩き込まれた。
 ガッツポーズをしながらホームベースを踏んだ山戸に、先にホームインしていた鷹霧が柔らかな笑顔を見せて出迎える。
「やったね! 最高のサヨナラホームラン!」
「ありがとうございます!」
 山戸は鷹霧と握手を交わす暇もなく、 ベンチから飛び出してきた仙台ファルコンズの選手達に手荒い祝福を受ける羽目になった。
やがて晴れやかな表情を浮かべた選手達は、サヨナラホームランの余韻にざわめくグランドからベンチ裏に引き上げていった。後にはお立ち台でヒロインインタビューを受ける山戸だけが残された。
 初めてお立ち台に上がった頃は興奮と緊張でまともなインタビューにならなかったものだが、今では山戸はすっかり場慣れして、愛想を振りまきつつファンと記者に対して調子の良い言質を与えることを忘れないようになった。
「すっかり調子に乗ってるな。良い意味でも、悪い意味でも」作間が肩をすくめて呟くと、選手達が声を挙げて笑った。
「ま、ボコスカ撃ちまくってくれる分には文句は言いませんよ。……これで、どうなったのかな?」清川が誰に聞くともなく呟いた。今の彼女はレギュラーを鷹霧に追われた格好になっているが、チームの勝利を以前より素直に喜べるようになっていた。優勝出来るなら、ずっとレギュラーになれなくても代打の切り札で十分、とさえ思っていた。
「ええっとですね、さっきシルフィードが負けたって出てたから、これで○.五ゲーム差になったはずですよ」
 犬飼が答えた。
「まだまだセイバーズを捉えられないね、セイちゃん。でも、大丈夫。投手陣は悪くないし、打線も調子良いし……、あ、でも――」清川とは昔からのつきあいがある村崎桐華が、何か言いかけて言葉を濁した。
 男っぽい気質の清川とは対照的におっとりとした村崎は、清川が時に呆れるほど人がよい。清川がチームのために己を殺している、それを感づいている村崎は、自分がレギュラーの座を占め続けていることで気が引けているらしかった。
「そう、大丈夫。鷹霧さんがいてくれりゃ、絶対に優勝出来るよ。ねっ、鷹霧さん」
 村崎に苦笑気味の言葉を返してから、清川は鷹霧の後ろから声をかけた。
「えっ……」
 完全に上の空だった鷹霧が清川のほうに振り向いた。
 と、その瞬間、鷹霧は猛烈な目まいに襲われてよろけた。壁に手をつき、背中を丸めて咳き込む。
「大丈夫ですか、鷹霧さん!」
 清川と村崎が慌てて鷹霧の背中をさする。鷹霧は「大丈夫」と応じようとしたが、声を発するより先にどうしようもない嘔吐感が喉元からせり上がってきた。
 鷹霧は二人を振り払うようにして洗面所に駆け込み、激しく咳き込みながら喉に絡まった痰を洗面台に吐き出した。痰には明らかに血の色が混じっていた。なおも身体から何かを押しだそうとするかのように鳩尾が痙攣している。
「本当に大丈夫ですか」
 慌てて後を追ってきた村崎が、不安げに訊ねながらタオルを差しだした。
「ごめんね。大丈夫、だと思うけど……」
 鷹霧がタオルを受け取って、小さな声で答える。額に吹き出した汗を拭く。まだ息が荒い。作り笑顔を見せる余裕すらなくなっていた。

 球場内治療室。
「過労ですね。心配ありません。しばらく休めば問題ないですよ」
 鷹霧を診察した球場付きのドクターはあっけらかんと断言した。トレーナーの内藤がその場に居合わせていれば、また別の見解があっただろうが。
「そうですか。……ありがとうございました」
 球場の診察室のベッドに横になっていた鷹霧は少し笑みを見せ、とりあえず礼を言った。
 ベッドの上で仰向けになってじっとしていると、情けなさとも、悔しさともつかぬ感情が心の中に広がっていく。
 小学校時代、鉄棒から落ちて頭を打って失神し、保険室に運ばれた事を思い出すが、苦笑いは出てこない。
「倒れたって聞いたから心配したけど、どう? 調子は」
 診察室に早瀬が入ってきた。後ろにヘッドコーチの黒島を連れている。
「ええ、心配ないそうです。ちょっと疲れただけです」
 鷹霧は力の入らない身体を無理に起こして応じた。
「そう……」早瀬はベッドの傍らの椅子に座ると、ちょっと困った表情をみせた。
「……何か?」鷹霧が聞いた。嫌な予感がした。
「内藤さんから、話を聞いたわ」そういって早瀬が厳しい顔つきになった。「肘の具合、かなり悪いそうね。それをほったらかしにしたまま試合に出るから、こんな事になるのよ」
 きつい調子の早瀬の言葉に、鷹霧は目を伏せた。
「すみません」
「……いい機会だから、この際、二軍に行って来なさい」
「……二軍落ちですか」
 鷹霧が息をのみ、肩を落とした。
「そんな顔しないでよ。調整、調整。一旦、戦列を離れて疲れを癒しなさいって事よ。ついでに肘の故障も直して、ね。……私はあなたの体を心配して言ってるのよ」
「……」鷹霧は無言で天井を見上げた。思わず目に涙が浮かんでいた。
「野球選手としての寿命なんかより、これからの人生のほうがずっと長いのよ。体を壊したらなんにもならない」気まずい雰囲気を察し、黒島がゆっくりとした口調で鷹霧を諭す。
「……」鷹霧は言葉もない。
「……それじゃ、しばらくここで休んでから寮に帰ってきて。がっかりすることは無いわ。二軍で体調を整えて、肘も直して。私はあなたと一緒に優勝したいと思っているんだからね」
 早瀬はそういい残して診察室を後にした。鷹霧は言葉を失ったまま、ベッドの上で呆然となっていた。

「よろしかったんですか? 本当にこの時期に彼女を二軍に落としたりして。なんといっても打線の核ですよ?」
 治療室の外に出るのを待ちかねて、黒島が早瀬に聞いた。流石に当人の前で話せる内容ではなかった。
「仕方ないでしょう?」早瀬はやや語調を荒くして応じた。
「ですが」
「もしも鷹霧の故障が取り返しのつかないものになったら、私は目先の優勝にとらわれて逸材を潰した、って言われる事になるんだから。……鷹霧もきっと判ってくれる」
 早瀬はそうまくし立てると、自分に言い聞かせるように何度も頷いていた。

「二軍、か。やっとここまで来たのに。せっかく優勝出来るかも知れないのに……」
 鷹霧はぽつりとそう言葉を漏らす。溢れた涙が目元からこぼれ落ちる。
 こんな風に涙を流して泣くのはいったい何時以来なのだろうかと、彼女の中の冷静な部分が自問している。答えを思い至るのが困難なほど、それは昔の出来事だった。
 女子リーグの規定では、一度二軍落ちした選手は15日間一軍に戻れない。残り日程はあと3週間余り。
 鷹霧が一軍に戻った時にはチームが優勝してしまっているかも知れない。あるいは逆に優勝戦線から脱落しているかも知れない。
 いずれにせよ、自分一人の力で優勝させられると自惚れるつもりはないが、その場に居合わせられないのは何よりもつらい。
(でも、早瀬監督の方針は間違ってはない……)
 鷹霧はそう思う。自分が監督であったなら、やはり同じ判断を下しただろう、と。それでも悔しさはどうしても消えなかった。やり場のない怒りと悲しみに、鷹霧はただ涙にくれるばかりだった。

 早瀬は根本的な誤解を二つ犯していた。
 一つは、鷹霧の右肘の故障をせいぜい肉離れ程度に考えており、本当に選手生命の危機とまでは考えていなかった事。
 そしてもう一つは、鷹霧が”優勝出来るなら、今年限りで選手生命が終わってもいい”とまで思いを込めているのに対して、休ませる事が鷹霧の為になるだろうと一方的に信じていた事。
 チームメイトとして強固であった二人の関係が、監督と一選手という立場への変化を経て、次第にほころび始めていた。悲しいことに、二人ともその事に気づいてすらいなかった。

(四十三)


 翌朝。
 仙台ファルコンズ選手寮”隼寮”。
 鷹霧の部屋に、主だった選手達が顔を見せた。これから一週間ほど敵地での試合が続く。その遠征を前に、挨拶をしておきたい、という配慮だった。
「さあこれからって時に、鷹霧さんがいてくれないと心細いです」
村崎が、心底頼りなさげな声を出した。清川が後を継ぐ。
「体調を整えて、きっと帰って来て下さい。……鷹霧さんのポジションは、私がしっかりと守ってみせます」
「ありがとう。うん、15日経ったら、すぐに合流するから」
「それにしても、この大事な時期に鷹霧さんを二軍に落とすなんて監督はひどいですよ。鷹霧さんがベンチにいてくれるだけで、どれだけ力付けられるか。あの人だって知らないはずないのに」
 野手陣での反早瀬派の急先鋒である戸隠里沙子が、遠慮のない意見を吐く。
 が、その言葉を聞いた鷹霧は戸隠の肩を叩き、静かに首を横に振った。
「そういう事は言わないで。……みんなもよく聞いて。みんなの中には監督に色々と不満を持っている人がいるみたいだけど、とりあえず、今は心を一つにして優勝する事に集中して頂戴。出しゃばった事を言うけど、強敵に負けるならともかく、内部崩壊で優勝を逃すなんて最低だから。お願い……」
 鷹霧が頭を下げた。心あたりのある選手達が気まずそうに視線を逸らした。
 しばらく沈黙が続いた。
「判りました。約束しますよ。鷹霧さんの頼みとあっては断れませんからね。でも、一つだけいいですか?」
 戸隠がふっきれた、邪気のない笑顔を見せた。鷹霧が怪訝そうにうなずくと、戸隠は笑みを大きくし、後に作間が「仙台ファルコンズ史上最も豪気」と日記に記した、楽しげな約束を取りつけた。
「もし、鷹霧さんが帰ってくる前に優勝してしまっても、私を恨まないで下さいね!」

(四十四)


 一口に二軍とは言っても、女子リーグのそれは、男子とは随分異なっている。
 チーム基盤が十分でない球団が多く、選手層が薄い為、二軍の中でリーグ戦を組めないのである。
 仙台ファルコンズの場合は札幌ホーネッツと不定期に試合を行うほか、高校や大学などのアマチュアチームとも練習試合を組んで、技術向上・体調調整を計っている。
 とは言うものの選手層が薄すぎて、満足に試合を行う事もままならないのが実情だった。
 が、今の鷹霧は二軍の置かれた状況には関心は無かった。とにかく内藤の指示のもとに、入念な調整を行うことに意識を集中していた。
 内藤の指示は的確で、数ヶ月間蓄積されていた疲労はほどなく解消された取れた。しかし、心の底にたまった無念さは消えなかった。
 15日たったら一軍に本当に復帰できるのだろうか。復帰したとしても、そのときの、チームの成績は一体どうなっているだろう、と、鷹霧は自分ではどうにもならない焦りを覚え始めていた。
 そんなある日、仙台の二軍練習球場で調整を行っていた鷹霧のところに、意外な客が訪れた。東京スターズの元アルバイト投手、沢村栄美である。
「どうしたのよ、いきなり。学校は?」沢村からタオルと清涼飲料水の缶を手渡された鷹霧が呆れて聞いた。汗を拭きながら、ひと気の無い三塁側のダッグアウトに沢村を誘う。
「やだなあ、今日は日曜ですよ」沢村が明るく笑う。
「ああ、そうだった。で、何か用?」
鷹霧は清涼飲料水の蓋を開けようとして顔をわずかにしかめた。ライバル・横須賀セイバーズの親会社、笹川製薬のものだったからだ。端から見れば意識しすぎの稚気ではあるが、鷹霧自身は真面目そのものだった。
「用があるから来たんですよ。……鷹霧さん、落ち込んでるんじゃないかなあって思って」
 沢村は鷹霧の顔を伺った。
 浮かぬ顔の鷹霧を見て何を勘違いしたのか、「あっ、私いいもの持ってますよ」と鷹霧の缶を手に取り、ポケットから缶の蓋を開ける器具を取り出した。
「ピッチャーは爪が命ですからね」沢村は聞かれもしないのにそんな事を言いながら、簡単に蓋を開けてみせた。
 改めて缶を手渡された鷹霧が話を戻す。
「励ましに来てくれたって訳? こんな所にまで」鷹霧はにわかには信じられない思いだった。
 沢村はしばらく無言だったが、自分の分の缶の蓋を開けながら「……優勝したいですか?」と、逆に尋ねてきた。
「もちろん!」鷹霧は精悍な顔を引き締めて断言した。「優勝出来るなら、この右肘が潰れてしまっても悔いはない」
「どうしてそこまで優勝にこだわるんです?」
沢村の上目遣いの問いに、鷹霧は再び顔をしかめた。今度は稚気ではなかった。
「あなたみたいに勝ってばかりの人には判らないでしょう。私は今まで、大きな舞台で勝った事なんて一度もないから。だから今度だけはどうしても……」
「それは、後々の人生で、優勝の思い出を心の支えにして生きて行きたい、って意味ですか?」
「そういう言い方は、身も蓋もないような気がするけれど……」
「……気を悪くしないで聞いてくださいよ。私が言うのも変だけどそういう考えはやめたほうがいいです。人間なんて、負けた悔しさはともかく、勝った喜びなんてすぐに忘れてしまいます。そんな後ろ向きな生き方、鷹霧さんにはしてほしくない……」
 沢村はせっぱ詰まった調子で一気に言った。この言葉は鷹霧の胸にも堪えた。
「そんな、ものなのかな……」
衝撃だった。進むべきだと信じてきた道が突然消えてしまったような気がした。
「もっと気楽にいきましょうよ」沢村が突然、声を明るくした。「所詮人間は今、この瞬間しか生きられないんです。だったら前を向いて、今を全力で生きるしかないじゃないですか」
「判った」鷹霧がちらりと笑みを見せた。「目からうろこが落ちた。ちょっと思い詰めすぎてたみたいね。なんだか恥ずかしい。……ありがとう。わざわざ仙台にまで来てもらって。貴女にこんな事を教えて貰うなんて、思いもしなかった」
「いえ、そんなんじゃ」沢村は照れながら白状した。「私が高校を卒業してプロになった時、鷹霧さんが引退してしまっていたらつまらないですからね。せいぜい、現役で頑張っていて欲しいじゃないですか?」
「嬉しいなぁ。生きる勇気が湧いてくるわ」
 鷹霧は久しぶりに声を立てて笑った。
「私は本気ですよ。今度はベストを尽くします」
 沢村が真面目な顔をする。もっとも彼女の場合は、どんなに真面目な顔をしても口調にどこかおかしみを感じさせるものがあった。
「うん、頑張って。貴女が本気で努力したら、立花さんを越える、女子球界ナンバーワンピッチャーになれるかもね」
 鷹霧の言葉に、沢村が興味を引かれた顔になった。
「やっぱり最後は立花さんですか? ……立花さんが、今の鷹霧さんのライバルなんですね」
「ライバル、か。いつの間にかそうなっちゃってるのよね。……今まではどうにか勝っているけど、次は勝てない。そんな気がする」
「ねえ、鷹霧さん。立花さんの決め球って、何だと思います? 企業秘密じゃなかったら教えて貰えませんか?」しばらく黙っていた沢村がどこか遠い目をして尋ねた。視線はスコアボードの上のポールに注がれているが、その向こうに何かを見ているような目をしている。
「ストレート」
 鷹霧は断定した。その口調に迷いは無かった。
「みんなはフォークと思っているみたいだけど、ちょっと違う気がする。確かに立花さんのフォークの落差は凄いけど、結局はストレートの威力の印象を高めさせる見せ球に過ぎないわ。立花さんっていうとフォークで空振り三振に切って取るイメージが強いけど、ストレートで見逃し三振に押さえている場合も結構多いから。……調べてみたら判ると思うけど」
 鷹霧は、脳裏に立花の投球を描きながら、生き生きとした調子で一気にまくしたてた。
 沢村はぽかんと鷹霧の顔を見つめていたが、突然弾けたように笑い出した。ひとしきり腹を抱えて笑った後、大きく息をついて話し出す。
「済みません、馬鹿笑いして。でも、これで仙台まで来た甲斐がありましたよ。やっぱりピッチャーはストレートですよね。安心しました。……実は変化球の事で悩んでたんです。球種が多いほうがいいのかな、って。でもこれで吹っ切れました。ありがとうございます」
 沢村はそう言って頭を下げた。
「やられたなあ……。一本取られた。敵に塩を送っちゃったね。まあ、お互い様だけどね」鷹霧も笑う。
「頑張って下さいね。応援してますから……って、東京スターズの人が聞いたら怒りそうですけどね」
 沢村はベンチから腰を上げた。鷹霧も立ち上がり、握手をしようと右手を差し出しかけ、苦笑いする。思いがけず沢村とうち解けてしまったが、まだ右肘の故障は公になっていない。沢村にそのことは気づかれたくなかった。
「あ、右手はちょっとやばいですね。気を遣わせて済みません」沢村はまた誤解したらしかった。投手の利き腕の掌は、企業秘密の固まりと言える。沢村は微笑んで自分の利き腕ではなく、左手を差し出した。
「本当にありかどう。これからもよろしくね!」
二人はがっちりと握手した。そのやりとりを見ていた仙台ファルコンズの二軍選手達が、不思議そうな顔をしていた。


 第十話に続く

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