ストライクゾーン 第十話
(四十五)
10月9日。
鷹霧が戦線を離れていた間も、仙台ファルコンズは誰もが予想しなかった善戦ぶりを示し、関係者を喜ばせていた。
残るは、今日行われる大阪ヴァルキューレ戦を含めて5試合。11日からの名古屋シルフィードの二連戦、15日から横須賀セイバーズとの二連戦と、上位チームとの直接対決が続くことになる。
仙台宮城球場で大阪ヴァルキューレを迎え撃つ仙台ファルコンズは試合前、一塁側ベンチ前に一軍メンバーが勢揃いした。
「今日から鷹霧が復帰する。みんなも嬉しいだろうが私も嬉しい。これほど力強い存在もないからね。あと5試合、もちろん全部勝つつもりでいかないとね。だけど、まずは今日の試合を手堅く戴こう!」
早瀬はそう言って、隣に立つ鷹霧の肩を軽く叩いた。
「みんな凄いね。ここまで首位戦線に残れるなんて、正直なところ思わなかった。というより、少し悔しい。みんなと一緒に戦えなくて……」
「二軍生活、お疲れ様でした!」
山戸が真っ先に駆け寄り、いささか芝居じみた口調で言葉を掛けた。鷹霧と山戸は同じ部屋で生活しているのだから、二週間あまりのの二軍生活を挟んでも久しぶりという感覚はない。が、どちらもそれなりに感慨深いものがあった。
「調子はどうですか?」清川が聞く。
「万全とは言い難い。けど、あと五試合ぐらいなら」
「それは良かった」
「鷹霧さん、チームの雰囲気、良くなりましたよ」戸隠がすっきりした笑顔を見せた。
「それって、私がいなかったから?」鷹霧が悪戯っぽく聞き返す。
「そんなぁ。違いますよ」戸隠も相当に打たれ強い性格をしているから、この程度の切り返しには少しもたじろがない。笑って答える。「みんな仲良く、って言ったのは鷹霧さんじゃないですか」
「そうだっけ。でも、良かった」鷹霧も苦笑して答えたが、その後で少し寂しげな口調になった。「うーん、でもみんながまとまっているんなら、私の入る場所なんてないかな。別に試合に出られるなら、代打でも全然構わないけど」
「そんな事は、誰が何と言ってもさせませんよ。三番・ファーストは鷹霧さんのポジションです」
清川がすかさず言葉を挟んだ。ある意味で凄みのある顔付きになる。
昨日までの自分のポジションを進んで明け渡す、悲壮な決意表明だったが、清川の表情に陰りはない。
鷹霧に感化されたとはいえ、つい半年前の清川には考えられない態度だった。
試合は仙台ファルコンズ・神崎香、大阪ヴァルキューレ・浅倉友美というエース同士の先発で幕を開けた。
「気張るなあ、浅倉さんは。疲れはたまってないのかしら?」
一塁側ベンチ前。投球練習を行う浅倉を見ながら、レガースを漬け直す作間が呆れ顔で言った。
「ヴァルキューレの投手陣は浅倉さんの一枚看板だからね。でもあのタフさにはちょっとかなわないな。多分、中二日で向こうの最終戦にも投げるよ、きっと。最多勝もかかってるし」
神崎が答える。作間の準備が整ったのを見て、軽く肩慣らしのキャッチボールを始める。
「タフさって点で呆れてるのは、こっちも同じだけどね」前列のベンチに腰を下ろした鷹霧がバット片手に言う。「シーズン通して投げてるのに、身体大丈夫なの?」
「任せて下さい。頑丈に出来てますから」神崎はキャッチボールの手を止めて胸を張った。爽やか、とより勇ましい顔付きになって続ける「それに、こんなチャンスは滅多にあるもんじゃないですからね」
一回表。
一番・犬飼が打席に入った。余りバントのうまくない犬飼に一番を打たせるのはどうか、という意見はあったが、どうしようも無かった。
仙台ファルコンズには、小加茂清美以外に安心してバント戦術を使える選手がいなかったからだ。それならば、と早瀬は開き直った結論を出した。犬飼には打順を気にしなくてもいい。とにかく打って塁に出てくれればいい、と指示を下している。
犬飼はとにかく出塁、という早瀬の期待に答え、カウント2−1からの5球目をセンター前に弾き返した。
二番・小加茂は当然のように送りバントの構えを見せた。結果、見事に一塁線ぎりぎりに転がるバントを決め、犬飼を二塁に進めた。
「三番・ファースト・鷹霧。背番号26」
アナウンスが球場内に流れると同時に歓声が高まった。その中を鷹霧は、バットの感触を確かめるように振りながら、ゆっくりと右打席に向かった。
思えば、プロとして初めて対戦したのが、今マウンド上にいる浅倉だった。鷹霧には復帰第一戦でエース投手と対戦出来る事が嬉しかった。逸る気持ちを押さえ込んで打席に立ち、スタンスを決める。
浅倉は二塁上の犬飼を一瞬視界に捉えた後、セットポジションから初球を投じた。
鋭く伸びるストレートが内角を突くコースを描きながら鷹霧の胸元を襲った。
鷹霧の左足が三塁側に開く形で降ろされた。脇を締め、右腕を畳む。身体を少し反り返らせるようにして、強引に腰と左腕の力で金属バットを振り抜く。心地良い打球音が響く。
弾道が目に焼き付くような強烈な打球が三遊間を破った。犬飼は好判断で三塁を蹴ってスピードを落とさずホームを衝き、先取点を上げた。
鷹霧は一塁ベース上に立ち、球を真芯で捉えた快感を久方ぶりに全身で味わった。同時に、右肘の痛みも感じていた。早瀬や選手の誰にも話していないが、右肘は完治した訳ではないのだ。二週間の二軍生活は、ただ全身の疲労を癒したに過ぎない。
トレーナーの内藤と、鷹霧を診察した医師を除いては誰もその事を知らない。誰もが、復活をアピールする強烈な一打、として鷹霧のヒットを受け止めたに違いない。
(四十六)
試合は結局、仙台ファルコンズ打線が猛攻を見せ、スコア5対2と危なげない勝利を収めた。最後はリリーフエースの山本寺優子がきっちりと締めていた。
「よーし、このまま全勝して優勝だあ!」
試合後、ロッカールームで清川が拳を天に突き上げた。彼女は代打として出場し、だめ押しの2点タイムリーを放ったのだから、興奮して気勢を上げるのも当然と言えた。
それに同調し、数人の選手が内心の興奮を抑え切れずに叫び声を上げる。
「どうでもいいけどこの騒ぎは……」
山戸が首を振りながら言った。
「別にいいんじゃない、勝ったんだから。でも、全勝すれば本当に優勝出来るの?」
鷹霧が苦笑しつつ、すぐそばで騒ぎを同じように傍観していた作間に尋ねた。
「どうですかね。途中経過だと、セイバーズもシルフィードも勝ってたみたいですから」
「勝ったらどうなるんですか?」山戸がさらに聞く。
「セイバーズとゲーム差が変わらず、ってなると辛いね。あと4試合しかないのに。そうなったら絶望的ね」
そこに、クールダウンを行っていた山本寺が、慌てた調子でロッカールームに飛び込んできた。
「セイバーズが、サヨナラ負けを食らいましたっ! 東堂さんのサヨナラホームランだそうです」
一瞬の静寂の後、再び歓声が爆発した。
「大騒ぎですね」山戸が呟いた。どこか不安げな表情になる。
「これから、もっと大騒ぎよ」鷹霧は山戸とは対照的な明るい顔をみせた。
鷹霧の言葉に嘘はなかった。作間がこの日の日記に、「かくも壮烈な炎の七日間」と半ば皮肉と揶揄を込めて書き記したように、本当の戦いはまだこれからだった。
(四十七)
仙台ファルコンズは奮闘した。11日からの対名古屋シルフィード二連戦の初戦をスコア3対2の接戦でものにすると、翌12日も9回表でスコア1対0、このイニングを押さえれば連勝、というところまでこぎ着けていた。
この回、早瀬はリリーフエースの山本寺をマウンドに送った。
名古屋シルフィードの攻撃は勝負強さで定評のある六番・鳥屋尾由紀子から。
が、若草賞(新人王に相当)候補に名を連ねる山本寺の伸びのある球に手こずった鳥屋尾は、一塁側コーチャーズボックスの後方、フェンスぎりぎりのところへファールフライを打ち上げた。「オライ!」
位置関係から、ファースト・鷹霧がバックするより自分が回り込んだほうが確実だ、と瞬時に判断したセカンド・戸隠が鋭い声を発し、打球の落下地点目がけて頭から飛び込んだ。彼女は何とか捕球したものの、一回転してからフェンスに背中から激突し、チームメイトを慌てさせた。
「あんまり無茶しないでよね」
戸隠を助け起こした鷹霧がそう声を掛ける。前期の最終戦でも彼女が背中を地面に強打して、担架で運ばれたのを思い出す。
「どうってことないですよ。河原もいますし」
戸隠が笑みを見せ、グラブをパンパンと叩いた。その目は「みんな一丸となって、それぞれが全力を尽くして頑張ってる。鷹霧さんに心配はさせない」とばかりに輝いていた。
続く7番・木高典子は簡単なショートゴロに倒れた。ここで越原監督は秘密兵器を代打に送った。
「うへぇー!」
左打席に入った代打・国分姫子を見て、山本寺が絶句する。国分の身長が150センチに満たないと思われるほど低かったからだ。
(ストライクが入らないかも)
ボールを両手でこねまわしながら、山本寺は国分の不敵な笑みを睨みかえした。何の脈絡もなく、海軍の戦闘機”零戦”に乗っていたという祖父の話が脳裏によぎる。
当時日本は、大型の空母を何隻も造るだけの力が無かった。そこで海軍は、商船を改造した空母で間に合わせようとした。山本寺の祖父が配属されたのもそうした改造空母の一隻だった。しかし、改造空母の飛行甲板は狭く、離発着は大変難しかった。祖父は言う。お陰で、離発着に関しては正規空母の搭乗員より腕が磨けた、と。
(なめられてたまるか! そっちが四球狙いなら、こっちは針の穴を通すコントロールって奴を見せてやる!)
彼女の祖父の話は、ある意味では強がりに過ぎなかったのかも知れない。だが、強気で押す山本寺の投球は絶妙だった。初球を真ん中高めに叩き込んで国分の打ち気を誘い、その後はボールの直径の4分の1だけをコーナーぎりぎりにかすめさせ、見事見逃し三振に打ち取ったのだった。
これにより名古屋シルフィードには優勝の可能性が無くなった。越原監督は前期に続き、またも涙を呑んだのである。
「みんな御苦労さん。みんなよくやってくれたが、最後に優勝をプレゼント出来なくて残念だ」
仙台宮城球場の三塁側ベンチ裏。越原監督の声が静かに響いた。うなだれた選手達の中には、涙をこらえている者もいる。
「儂はこれから代表に辞表を提出する。君達の実力なら来年はきっと優勝出来る。新監督の元、一致団結して優勝を目指すように」
越原の言葉は選手達を心底驚かせた。すすり泣きをやめて顔を上げ、越原を取り囲んで口々に叫んだ。
「監督、辞めないで下さい! 来年は絶対、期待に答えて見せますから!」
「私達を見捨てないで下さい、お願いします!」
「これからはちゃんと監督の言うことを聞いて、一生懸命練習します。だから、だから……」
名古屋シルフィードの選手達は全員、ここまで優勝を争うチームになれたのは、全て越原監督の力量によるものだと信じ切っていた。
理に適った練習と、慎重さと大胆さを兼ね備えた采配で、実力で勝てない自分達を何度も勝たせてくれたのだと信じていた。そして、優勝をプレゼント出来なかったのはむしろ自分達のほうだ、とも。
名古屋シルフィードといえど他のチームと同様、多くの問題を抱えてはいた。だが、監督と選手の関係という点に限っては、ある種の理想が実現されていた。
越原は、孫ほどの年の差がある選手達にここまで信頼されていた事を知り、監督冥利に尽きると思った。年のせいか、弱くなった涙腺から涙が込み上げてくるのを抑えられなかった。
(四十八)
10月12日午後6時。仙台宮城球場、監督室。
「行ける! 間違いない。こりゃ、本当に行けるよ」
早瀬は興奮を隠そうともせずに喚き立てた。そのはしゃぎぶりは知らぬ人が見たら、何か問題があるのでは、と疑問を抱きかねないほどだった。
しかしそれも無理のない事だった。いよいよ優勝に手が届きそうなのである。
さらに嬉しい情報も入っていた。横須賀セイバーズが延長戦の末にまたもサヨナラ負けを喫したというのだ。いくら早瀬がはしゃいでも許されるべき状況のように思われた。
しかし冷静さを失っていない黒島にとっては我慢出来なかった。
「監督、お言葉ではありますが、まだ優勝の可能性は非常に少ないと思われます」
確かに数字的には黒島の言う通りだった。仙台ファルコンズと横須賀セイバーズは15日から直接対決二連戦を行うの。だが、現在の両チームの成績は、決して楽観出来る状況ではない。
・横須賀セイバーズ 26勝19敗2分 勝率.577
・仙台ファルコンズ 27勝20敗0分 勝率.574
ゲーム差は1である。たった1ではあるが、残り2試合ではとてつもなく重い。ファルコンズとしては2勝するか、1勝1分け以外に優勝の可能性はない。引き分けの数がセイバーズに味方していた。
「判ってるわよ」早瀬は面白くなさそうな顔をしていた。「でも、今のチームの勢いを見たら、優勝出来ると思えるでしょう? みんな燃えてる。絶対に勝つという執念でセイバーズに食らいつけば、必ず勝てる」
(結局は、そういう事か)
黒島は盛り上がる早瀬とは対照的に、自分の心が沈んでいくのを感じた。
IDだの何だの言っても、土壇場では誰もデータなんて信用しやしない。気合いや根性、そんな不確定な要素に命運を簡単に委ねてしまう。それが現役時代の早瀬さんが、前任の橋田監督を嫌った一番の理由だという事を、今の早瀬さんは忘れている。
突然、黒島は笑いだしたくなった。
ははっ、お笑いだ。情報化時代? マルチメディア? 全く馬鹿馬鹿しい。所詮コンピュータなんて、普通の人々にとっちゃ高価な玩具に過ぎない。映画やテレビを見れば世の人々がどう見ているか分かる。画面に写る不可解な映像を見ながら猛烈な勢いでキーボードを叩き、眼鏡を掛け直しながらこう言うのだ。『じゃあその問題について、僕のコンピュータに聞いてみよう!』勝手に聞いてろ。ははっ、パソコンがマイコンと呼ばれていた頃と認識が何も変わっていないなんて!
黒島は最初、横須賀セイバースのデータを元にした作戦会議を行うつもりだったが、やめにした。早瀬は、コンピュータが行うのはデータの管理までであり、データから何か結論を導くのは人間であるという事を知らない。早瀬は言うだろう、『コンピュータが作戦を考えてくれるの?』と。
何もかもが急に空しく思われてきた。黒島の野球との関わりは高校時代に野球部のマネージャーだった程度だが、父の影響で小学校の頃からパソコンを触っていた。パソコンと野球との両方に関われるならこれほど楽しい事はない、とこの世界に入ったのだが、どうやら現実は厳しいようだった。コンピュータの世界は凄い勢いで進化しているのに、未だにパソコンの電源の入れ方も分からないような人間がいる。そして世間の多数派は未だに後者で、私のような人間はオタクという三文字で片付けられてしまうのだ、未だに!
無論、早瀬にしても無邪気にただ浮かれていた訳ではない。いかにして連勝するか、知恵を巡らせていたのだ。しかしそれ故に、黒島の苦悩に気付く筈もなかった。
その時、監督室のドアがノックされ、球団職員が落ち着かない声で言った。
「あのー、よろしいでしょうか? 伝言を預かってきたんですが。……橋田前監督から」
メモ用紙を早瀬に手渡した球団職員は、そそくさとその場を立ち去った。
伝言を読んだ早瀬は顔を真っ赤にして「あのくそ親父め!」と怒鳴ってメモ用紙の机の上に叩き付けた。
黒島はそのメモ用紙を見ると、「天王山は関ヶ原にある訳ではない」とだけ書かれていた。
「どういう意味ですかね? 確かに天王山は山崎の戦いで、関ヶ原とは関係ありませんが」
「知らないわよ。優勝目前の私達を妬んで、からかってるんだ。どこまで人を馬鹿にしたら気が済むんだ」早瀬はぶっぎらぼうに吐き捨てた。
黒島はそうは思えなかった。何か意味があるような気がしてならなかった。
(四十九)
10月13日。
仙台ファルコンズはオフという事になっていたが、選手達が自主的に集まって軽い練習を行った。誰もがそれを闘志の表れだと信じて疑わなかった。そして翌14日に決戦場である横須賀へと移動した。
その晩。横須賀市内のホテル。
鷹霧はベッドの脇にある時計を見た。日付が変わっているのを知って絶望的な気分になる。
「眠れないんですか?」
隣のベッドから山戸が聞いてきた。
「まぁね。そう言うそっちこそ寝てないじゃないの」
「誰だって緊張しますよ。負けたらそれまでですから」
ふすまが少し開き、犬飼が顔を覗かせた。彼女達の部屋は四人部屋で、犬飼と小加茂が和室の布団を割り当てられていた。
まるで修学旅行のような有り様ではあるが、何事も男子プロのように贅沢にはいかないのだから仕方がない。それに、その修学旅行のような雰囲気を好む選手は意外と多かった。
「みんな起きてる訳? 参ったわね。明日は大事な試合なのに」
鷹霧の言葉に、犬飼がしたり顔で反論した。
「そう思うから寝られないんですよ。いっそ、ずっと起きているってぐらいの気持ちのほうがいいんじゃないですか?」
その時、入口のドアが静かに開いた。規則に従い、鍵は掛けていなかった。四人は思わず体を固くした。
「もう、寝た?」小さな声で誰かが聞いてきた。
「起きてまーす」犬飼が低い声で応じた。
「そう、良かった!」声の主――作間がやや声を大きくして、部屋に入ってきた。消してあった電気まで付ける。
「結局、寝てる奴は一人もいないって訳だ。どうせそうだと思ってたけど」
作間の後ろに続いて入ってきた清川が、安堵の息をついた。鷹霧が驚いた事には、作間は主力選手のほとんどを引き連れて来ていたのだ。
「みんな集まって、何やらかそうってんです?」山戸が訊ねる。
「前祝いですよ。ほら」
村崎が手に持ったビニール袋をかざして、はしゃぎ気味の声を出した。コンビニエンスストアで食料を調達して来たに違いなかった。
「炭酸飲料は禁止よ。分かってる?」
鷹霧は呆れ半分、面白さ半分の気持ちになり、早くもポテトチップスの袋を開けようとしている村崎に聞いた。
「ええ、それは大丈夫ですよ。果汁100%のボトルばかり選んであります。でも、スナック菓子禁止には違反してますけどね」村崎はあっけらかんと答えた。
鷹霧はその口調の軽妙さに思わず吹きだした。いつもは大人しい村崎が、優勝の可能性を前に心底楽しそうなのを見ていると、こういうのも悪くない、と思えた。部屋の奥では、作間が、コップが全員に行き渡るように細かな指示を与えていた。
(五十)
10月15日。横須賀スタジアム一塁側ロッカールーム。
呉羽紫音は部屋の中央に置かれたベンチに座り、小刻みに全身を震わせていた。
今日の先発を言い渡されたのはほんの30分ほど前だった。呉羽が思い詰め、調子を崩しやすいタイプだと判断した富士原監督は、直前まで彼女に告げなかったのだ。
ファルコンズはスタメン表を見て驚いているだろうな、と呉羽は思った。順当にいけば江杉美奈子か伊北波といった立花に継ぐエース級が先発するはずだからだ。
しかし、一番驚いているのは呉羽本人だっただろう。
呉羽は12日の大阪ヴァルキューレ戦に、立花の後を受けてリリーフに立ち、そしてサヨナラ負けを食らっていた。しかもそれが一軍初登板だったのだ。その投手を今日の大事な一戦のマウンドに送るなど、呉羽には信じられなかった。
「どうした? 震えてるのか」
呉羽に声を掛けてきたのはキャッチャーの真柴敏子だった。
「真柴さん……。何だか怖いんです。今日の試合は優勝が賭かってるし、ファルコンズのバッターは凄いし……」
呉羽はすがるような目をして真柴を見た。
「奴等のフリーバッティングを見ちまったのか?」
「はい……」呉羽はうなだれた。仙台ファルコンズの打撃練習は確かに凄まじかった。鷹霧、山戸、清川、作間といった連中が競って打球をスタンドに叩き込んでいたのだ。
「よし、いい事教えてやる」真柴はそう言って呉羽の前に回り、腰を下げて目の高さを同じにし、呉羽の両肩に手を乗せた。
「いいか。奴等は勢いに乗る事と、調子に乗る事の意味を履き違えている。言ってる意味が分かるな?」
「はい。調子に乗るという事は、浮かれているという事ですね」
「そうだ。連中は浮かれている。自信過剰になっている。だからフリーバッティングでもぶんぶん振り回してたんだ」
「はい、でも……」
「いいか、よく聞け」真柴は呉羽が何か言い掛けたのを無視して話を続けた。「奴等は闘牛の牛みたいなものだ。まともに突進を受け止めたら吹っ飛ばされる。だが、闘牛士のようにはぐらかせば、奴等は自滅する。心配するな。私がちゃんとリードしてやる。紫音、自分の実力を信じろ」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
呉羽が小さく頭を下げた。度胸が座ったらしく、目に落ち着きが戻っていた。
一塁側ベンチ裏で、富士原監督は選手達を集めていつものように訓示した。
「いつも言っているように、作戦を自分達で積極的に考えろ。プレーをするのが自分達である事を忘れるな。常に頭を働かせろ。それが出来ないようなら、日本一になどなれない」
富士原は選手一人一人の顔を見回した。若手の何人かは堅い表情だった。しかし、多くは場馴れした者の強みで、ふてぶてしい顔をしていた。
「難しく考える事はない。いつも言っているように、負けるかも知れないという緊張感を持ち、焦らず、気負わず、冷静なプレーをするよう心がけろ」
最悪の結果を意識しての行動。これはマイナスイメージ理論とでも言うべき富士原の指導の特色だった。
プラスイメージの効用が盛んに言われる時代に逆行しているようだが、富士原はこう考える。プラスイメージはゴルフ、陸上、ボーリング等の、記録を競うスポーツにのみ意味がある。野球やサッカーなど、相手が存在するスポーツでは逆効果だ。何故なら、相手が必死になって勝利をつかもうとしている状況を無視して勝利をイメージしたところで、それは独りよがりであり、甘えに過ぎないからだ、と。
色々と反論を受けやすい理論ではあったが、富士原はこれで選手達に理性的な思考と打たれ強さを身に付けさせ、実際に効果を上げていた。
感情的な批判には耳を貸さなかった。
そもそもマイナスイメージとは負けるかも知れないと思った上で、全力を尽くしてそれに対抗するというもので、決して後ろ向きの思考法ではない。
富士原は、日本人が悲壮感を好む人種だと知っていた。
(五十一)
「今の勢いなら、何点でも取れますよ」
試合直前、一番・犬飼は先発の印牧にそう豪語した。
しかし打席に入った犬飼が見たものは、呉羽の繰り出す立花以上の速球だった。その球速は最大で時速140キロを記録した。犬飼は状況を把握する前に手もなく三振した。
「何よ、あれ! 何であんな凄い投手が今まで出てこなかったのよ!?」
ベンチに引き揚げてきた犬飼がふてくされる。
「理由はどうでもいい。とにかく打てなきゃ始まらない」
早瀬が腹立たしげに言った。しかし、どうしようもなかった。二番・小加茂も三振、頼みの三番・鷹霧もセカンドゴロに倒れた。
一方、ファルコンズのマウンドを守る印牧も必死だった。文字通り、彼女の肩に優勝が賭かっていたのだ。
五回まで、緊迫したまま両チーム無得点が続いた。
均衡を破ったのは横須賀セイバーズだった。トップバッターの二番・田久保夕貴が内野安打で出塁すると、盛んにリードを取り、盗塁の構えを見せて印牧を逆に牽制した。
そして三番・正木小百合は、牽制球に対処出来るように鷹霧が一塁側に寄っていたのを見透かして、一・二塁間を破るヒットを放った。スタートを切っていた田久保は一気に三塁に達した。絵に描いたようなヒットエンドランが完成した。
続いて四番・太刀守明美が打席に入った。太刀守は首位打者と打点の二冠を既に手中に収めていた。
ただ、ホームランだけは福岡ランサーズの東堂加奈子に2本差を付けられている。
とすれば、ここは絶対に一発ホームランを狙ってくる、早瀬はそう判断して外野に深い守備体型を指示していた。一方、内野陣にはファースト・鷹霧とサード・村崎を前進させ、大量失点を防ごうとの意図を見せる。
「ほらぁ! 気い抜かんと、ええとこ見したらんかい!」
ショート・犬飼がそう喚き、内野陣を叱咤する。
(全く、大した役者よね)
自らも蛮声で答えつつ鷹霧は脳裏の一部でそう考える。彼女には、犬飼が意識して荒っぽい大阪弁を使ってまで、かつての早瀬と同じ雰囲気を演じようとしているのが良く判った。ショートは内野陣にとっての司令塔である。犬飼も、早瀬並みの信頼を得ようと必死なのだ。
だが、印牧の初球、太刀守は早瀬の判断を嘲笑うかのようにスクイズを敢行してきた。
「まさかっ……!」
意表を衝かれ、一塁線に転がってきたボールを慌てて拾い上げた鷹霧だが、迷わずバックホームした。きわどいクロスプレーになったが、田久保が一瞬早く滑り込んでいた。
作間が間髪入れずに一塁に転送しかけて、印牧とセカンド・戸隠のカバーがどちらも遅れているのを見て、振り上げた腕を止めた。
「ごめんね。情けない。フィルダースチョイスなんて……」
「いえ。私がうまくブロック出来ていれば」
「大丈夫ですよ。後はきっちり抑えますから」
印牧が強がった口調で、マウンド上に集まってきた内野陣に宣言した。
言葉通り印牧はどうにかこの一失点で切り抜けたものの、重苦しい雰囲気が三塁側ベンチに立ちこめた。
今や勢いは完全に横須賀セイバーズにあった。
この試合を失ったのかもしれない。一年前と同じように胴上げを目の前で見ることになるのかも知れない。へたりこむように腰を落とした早瀬は顔面蒼白になっていた。
(天王山は関ヶ原にない。そうか、そういう事か)
黒島は、前監督が何を言おうとしていたのか分かるような気がした。
私達は、明日こそ決戦(関ヶ原)で、今日は前哨戦のつもりでいた。しかし、本当に大事な試合(天王山)は今日だったのだ。
畜生。考えが甘すぎた。横須賀セイバーズをなめていた。みんなは気付いているのだろうか。優勝を目の前にして浮かれ、冷静さを失っている事に。こっちが焦り、熱くなればなるほど、向こうは一層冷静になって配球を組み立てている事に……。
メンタル面でもろいところはあるものの、計り知れない潜在能力を持つ呉羽の繰り出す速球、そして変化球はますます冴え渡った。真柴の絶妙なリードも加わって仙台ファルコンズ打線を巧みにはぐらかし続ける。
しかし、仙台ファルコンズとしてもこのまま終わる訳にいかない。九回表、彼女達はようやくチャンスらしきものをつかんだ。
ツーアウトながらランナー一塁。バッターは三番・鷹霧。
鷹霧はようやく呉羽の速球に目が慣れ始めていた。攻め方も大体見えてきていた。速球の凄さだけに目を奪われて攻め手を間違えていたのだ。横須賀セイバーズのバッテリーはストレートを見せ球にしながら変化球を主体にして、徹底して打たせて取る作戦なのだ。その証拠に、ここまで奪った三振はたったの3つ。
(呉羽はサウスポー。だから、シュートでかわそうとする筈。ならば、その決め球を打ち砕いてやる!)
鷹霧の予想通り、呉羽は威力のあるストレートを敢えて一切使わず、変化球攻めで来た。鷹霧はカウント2−3と、フルカウントまで粘った。
戦意に不足は無かったが、右肘の痛みがひどくなって来た。何度もフルスイングする事は出来そうにもなく、一球に賭け、好球必打を狙うしかなかった。
6球目。呉羽は予想通りシュートをウイニング・ショットに持ってきた。鷹霧は腰とほとんど左腕一本の力で強引に強振した。故障持ちとき思えない速さのヘッドスピードだった。
強烈な打撃音。ラインドライブのかかった鋭い打球が飛ぶ。
三塁の頭上を越える長打コース、と誰もが思った瞬間、信じられない出来事が目の前で起こった。
サード・神内久美子が思い切りジャンプすると、目一杯伸ばした左手のグローブの先に打球を引っ掛けたのだった。
「余裕っしょ!」鼻息の荒い言動で知られる選手である神内が、ここぞとばかりに猛然と虚空に吠えた。一塁ベースに向かって数歩飛び出していた鷹霧もまた、天を仰いだ。
横須賀セイバーズの後期優勝が決定したのだった。
呉羽が両腕を空に突き上げた。飛びついてきた真柴と固く抱き合う。マウンド上に集まったナインに呉羽がもみくちゃにされ、やがて富士原監督の胴上げが始まるのを、仙台ファルコンズは指をくわえて見ているしかなかったのである。
「凄いですね、神内さんは。私もあんなサードになりたいですよ」
三塁側ベンチの前で村崎が言った。村崎は仙台ファルコンズで最も守備に信頼の置ける選手で、ポジションも同じサードだった。
「本気で言ってるのか?」清川が聞く。肩の筋肉が怒りで盛り上がる。
「そんな訳ないでしょう!」村崎の眼に涙がにじんだ。
「こんな事なら、最下位になったほうがよっぽどましだった!」
山戸が思いきりバットケースを蹴飛ばした。
(五十二)
三塁側ロッカールーム。
「みんな……。せっかくここまで来たのに、私が台無しにしてしまって」鷹霧が頭を下げた。
「鷹霧さんの責任じゃないですよ」犬飼が言った。目が赤い。
「そうですよ。みんな打てなかったんですから」清川も沈んだ声をだした。
観客の歓声が部屋にまで響いていた。彼女達は逃がした魚の大きさを思い、どうしようもない悔しさに打ちひしがれていた。
「みんな、落ち込んでいる場合じゃない。試合はあと一試合残ってるのよ!」作間が大声で怒鳴った。何人かの選手が怪訝そうに顔を上げる。
「私達は後期優勝を逃したけれど、日本一になるチャンスを失った訳じゃない」
「どういう事ですか?」信じられないという顔で村崎が聞いた。
「何よ? 知らない人もいる訳? それでピイピイ泣いているんじゃ、世話ないわね。……とは言っても、私もさっき記者さんに聞かされたんだけどね」作間は大きく息を吐き、肩の力を抜いて言葉を続けた。「簡単な事よ。明日の試合に勝てばいいの」
「……?」ほとんどの選手が事情を飲み込めずに怪訝な顔をしている。
「いい? 横須賀セイバーズは前期後期のどちらも優勝したわ。この場合、前期と後期の二位チームが優勝決定戦出場を賭けた、一試合のプレーオフを行うの。シルフィードの最終成績は27勝21敗1分け。私達は今日負けたから、27勝21敗0分。つまり明日の試合に勝てば勝てば二位になって、前期二位のシルフィードとプレーオフになるの。判った?」
「それに勝てば、優勝決定戦に出られるんですか!」
戸隠が叫ぶ。意気消沈していた選手達にも活気が戻る。
「そういうこと。ただし!」作間が声を張り上げる。「セイバーズは今日の祝賀会の後だから多少はこっちが有利。けどシルフィードは全力で向かってくるわ。しかも日程は厳しい。プレーオフは十九日。優勝決定戦は二十二日からの予定よ。気を緩めないで!」
「オゥ!」選手達の声が一つになった。
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