序 「10 Years Ord」

 
 暗闇に目が慣れかけていたところへの突然の閃光に、長瀬源五郎は、両手で顔面を覆って地面に身体を投げ出した。そのまま、少しでも次に来る衝撃が軽く済むようにと、身体を丸めて堅い地面の上を転がろうとする。
 だが、予想していた衝撃はそれよりも早くに襲いかかり、近場の何かに彼を叩き付ける。身体がきしむような痛みに、思わず開いた口から空気が漏れた。
 だが、それが長瀬にとっては不幸中の幸いとなった。
 次に彼を襲った轟音が、開いた口の中から内蔵のそこまで震わせ、鼓膜を限界まで痛めつける。限界まで震えた鼓膜が破れなかったのは、叩き付けられた衝撃がそのまま口から逃げていったおかげであった。もっとも、だからといって彼が無事であったわけではない。全身をもう一度ひっぱたく様な感覚に、身体中が悲鳴をあげる。一瞬、五感が麻痺して自分がどこにいるのかわからなくなる。だが、すぐに全身からの痛みが彼を現実の世界に引き戻した。
 じんじんと耳が痛む中、長瀬はのろのろと上体を起こした。そのままあたりに目を凝らして様子を見ようとする。だが、かけていた眼鏡の左のレンズにひびが入り、どうにも視界がぼやけてうまく見えない。
 それでもあたりのひどい有り様は、十分に見てとれた。
 長瀬の周囲には、何人ものまだら模様の戦闘服を着た男女が転がり、うめいたり泣いたりしていた。いや、もはやそれすらかなわない者も何人もいた。破れた服から赤黒い何かがこぼれていたり、手や脚や首が普通ならば絶対に曲がらない方向へ曲がっていたり、そもそも手や脚や首から上がなかったりしているのだ。
 何かが燃えていて、そして、甘ったるい油が焦げるような匂いが長瀬の鼻に入り込んできた。爆竹が爆ぜるような音があたりに響いていることに気がついたのは、ひとしきり胃の中身を地面にぶちまけた後のことであった。
 しばらく地面の片隅の岩の影にうずくまってその長身を隠していた長瀬は、自分の名を呼ぶ声が聞こえてくるのに気がついた。ゆっくりと顔だけ岩影から出して、声のする方向に向ける。そこには、まだら模様の戦闘服を着た男が、自動小銃を抱えて立っていた。
「ああ、そこにいたんですか。もう大丈夫です。中国兵は後退しました」
「ああ、それは。で、ええと……」
「児玉です」
「ああ、そうそう」
 児玉と名乗った男は、ヘルメットの下のまっ黒い顔をわずかにゆがめて説明した。口元からやけに白い歯がのぞくが、どうもこの場の雰囲気にそぐわない。
「とにかく、施設はこっちが先に押さえました。後は長瀬さんにお願いします」
「ええ。それで……」
「はい?」
 二度三度、何かを思い出そうと首を振る長瀬を見ながら、男は彼に手を伸ばして身体を引き起こした。
「静馬博士は、無事でしたか? 他の開発者の方々は?」
「ええ、皆さん無事です。さすがはSH-Xですよ。またたくまに中国軍は全滅ですからねえ」
「SH-X?」
「ああ、すいません。例の試作ロボットですよ。ほら、あそこ」
 男が銃口で示した先には、鋭角なラインを持つ人型のシルエットの装甲戦闘兵器が三機、その手に持った長い砲身を思い思いの方向に向けて停まっていた。あたりの炎に照らし出されるその姿は、とても同じ日本人が設計し、開発したものとは思えないほど機能的で力強く見えた。
「もう一個小隊は、施設の反対側に展開しています。さあ急ぎましょう。日が昇ったら、今度は中国軍の戦闘機が飛んできますから」
 
 二人が施設と呼んだ建物の中は、薄暗く、電圧が不安定なのかときおり照明がまたたいたりしていた。中央アジア系らしい白衣を着た男の先導で施設の奥へと進んでいく長瀬は、先ほどの戦闘がまるで嘘のように思えてきて、今から自分が行おうとしている仕事が夢の中の出来事なのではないかと、そんな不思議な感覚を覚えていた。
 長瀬は、自分がこの中央アジアの小国にある国際研究機関の施設の研究実験の打ち切りを宣言しに来たことが、どうにも嘘のように思えたのだ。
 無理もなかった。このヴァシュタールと呼ばれる小国が、ソヴィエト連邦崩壊のどさくさにまぎれて再独立を果たしてから、わずか二〇年も経っていない。そして今年に入ってから、中国とロシアの支援を受けた政府軍と反政府軍の内戦が勃発し、もはや国連軍の介入無しにはにっちもさっちも行かない有り様となってしまっていた。こんな国に何故にこのような大規模な実験施設が建設されたのか、実は長瀬にはとんと納得がいかないでいた。
「皆さん、こちらでお待ちです」
 思ったよりも流暢な英語を話すこの男に軽く礼を言うと、長瀬は、会議室と思われるその部屋の中に脚を踏み入れた。
 室内では、数人の白衣を着た男達が、立ったまま長瀬のことを見つめていた。
「施設を閉鎖するのかね」
 中央に立っている豊かな白髪と白髭の白人が、まっすぐに本題に切り込んでくる。
「残念ですが。フォーグラー博士」
「期限はいつになっている」
 フォーグラーと呼ばれた白人のとなりに立ている日本人が、せかすように言葉を放った。彼のかけているサングラスがその表情を隠してしまっている。
「もうすぐ二〇時ですから、あと四時間です、静馬博士。今日の午前零時に施設は封鎖し、皆さんにはモスクワまで戻っていただきます」
 室内を張り詰めた沈黙が満たす。だがその緊張は、長瀬に向けられてはいなかった。フォーグラー博士と静馬博士の間で、なにかそれこそ刀でも撃ち合っているような緊張した無言の闘争が繰り広げられている。
 その雰囲気に耐えられなくなった長瀬は、一つせき払いをするとだめ押しの言葉を吐き出した。
「あと四時間しかありません。それに中国軍と思われる部隊が、再三ここを占拠しようと攻撃を仕掛けています。皆さん急いで身支度をお願いいたします」
 長瀬は、そのまま会議室から逃げ出した。そのために彼は、フォーグラー博士と静馬博士の言い争いの内容まで聞く事はなかった。
 
 その日の晩、施設は謎の暴走を起こし、ヴァシュタール全土とともに蒸発した。シェルターに退避した極少数の人間を除き、生存者は、皆無であった。
 
 後にマスメディアは、この悲劇を「ヴァシュタールの惨劇」と名付ける事になる。
 
 
 −−闘いがすくそこまで来ていた。
 
 闘いはいつも、さりげなく通り過ぎていく。
 始まるはこんなにも長く感じるのに、それを綴った物語は目まぐるしく移り変わってしまう。
 
 −−気がつけば友情。
 不安と期待が胸にする始まりの想い。
 広がる笑顔、眩い歯、さわやかな風に交わる真紅色の拳。
 
 −−気がつけば熱血。
 光り輝くまばゆい想い。
 たぎる血、くっきりと映る敵の影、高く聞こえる雄叫び、はるか彼方まで燃え上がる背景の炎。
 
 −−気がつけば愛。
 紅色に染まる黄昏の想い。
 鮮やかな弁当、風にそよぐ髪、怒らせた彼女の熱い怒り、素早い告白、シーツを染め上げる真っ赤な色。
 
 −−気がつけば勇気。
 互いに積みあげていく鮮紅の色。
 身の引き締まる冷たい敵、後に残る友の骸、赤い息、吐く息で高まる気合い。
 
 −−そして、また、闘いがやってきた。
 
 −−闘い。
 それは新しい出逢いの場。
 この闘い、オレはどんな出逢いをするんだろう…?

 
 
Too HEAT
 
−地球が静止する日−
 

 
1  「Magnificent Ten Attack」

 
「浩之ちゃーん」
 窓の外であげられた少女の声が、ベットの中でもそもそとぎりぎりまで惰眠を楽しんでいた少年の耳に届いた。自分の名前に体が反応し、ぼんやりとしていた意識の焦点を現実に収束させる。
「学校、遅れちゃうよ〜」
 枕元の時計が、家を出るまでにはまだ三〇分は余裕があることを教えてくれている。
「起きないと、滅殺だよ〜」
 それはやだ。
「うるせぇっ。今起きるよっ」
 藤田浩之は転がるようにベットから離れると、素早く制服を身につけた。そのままの勢いで二階の寝室から階下の玄関まで駆け降り、扉を開いて今の声の主の女の子を家の中に入れる。
 そこには、さらさらの赤毛な髪をあごのあたりで切りそろえ、黄色いリボンをむすんで飾った小柄な女の子が立っていた。浩之がドアを開けたるのと同時に、その垂れ目がちの眼を細めて微笑む。
「おはよう、浩之ちゃん」
「ちゃん付けはやめろって、言ってるだろ」
「だって、浩之ちゃんは、浩之ちゃんだもの」
 いつものこととにこにこしながら軽く聞き流す少女に、浩之は軽く鼻を鳴らしただけで家の奥に引っ込んだ。しばらくしてから、焼いたばかりの食パンと学生かばんを持って現れる。
「まだ歩いても全然間に合うよな。いこうか、あかり」
「うん」
 あかりと呼ばれた少女は、歩き出した浩之の後を、そのままとことことついてくる。
 二人は、住宅街をぬけ、公園の真ん中をつっきり、丘の上の高校を目指して坂を上ってゆく。道の脇の木々が、初夏の陽射しを浴びて青い葉を一杯に広げていた。緑の匂いが、むせ返るかのようにあたりにたちこめている。
「おっはよぉー! あかり、ヒロ!」
 通学途中の生徒らの間をぬって駆けてきた少女が、二人の間に割り込んだ。そのまま少女は浩之の背中を張り飛ばす。
「今日は珍しくまともに登校してるじゃん、ヒロ」
「珍しく、はいらねえだろ、志保」
 けらけらと笑いながら、志保と呼ばれた少女は、茶髪のショートカットをかき上げるといっこうに気にした様子もなく彼を無視して言葉を続けた。
「うん、今朝のビッグニュースだけどね」
「ビッグニュースってのは、毎朝あるものなのかよ」
 びしっと突っ込みを入れる浩之。
 話の腰を折られ、志保はちょっとむっとしたかのように彼をにらみつけた。
「いいじゃない、ビッグニュースはビッグニュースなんだから!」
「それで、今朝のデマはなんだっていうんだよ」
「デマとはなによ、デマとは!?」
「だってそのまんまだろ、お前のニュースは」
「うっきー! むかつく奴ねえ!」
「それで志保、そのニュースって?」
 いつまで続くかわからない二人の掛け合いに、あかりが割って入る。
「そうそう。それでね、一年A組の栗田先生、産休なんだって」
「それのどこがビッグニュースなんだよ」
 意気込んで話を本題に戻した志保に、浩之がちゃちゃを入れる。
「うるさいわねえ! これからが本題なんじゃない。それで代わりの先生がくるんだけどさ、この人が凄い人らしいのよ」
「凄いって?」
 とにかく話を前に進ませようと、あかりが先をうながした。
「なんでもどこぞの財閥のお嬢様で、しかもすっごい美人なんだって。半年ばかしだけど社会勉強のためにうちで教師をするんだってさ。すごいよね〜、うちの学校。来栖川先輩といいレミィといい、実は結構なお嬢様学校なんじゃない?」
「そりゃねえだろ。だったらおまえが入れるはずねえじゃん」
「なによ、それ」
「べ〜つ〜に〜」
 結局、二人の掛け合いは、授業が始まるまで続いた。
 
 昼休み、浩之は購買部でお目当てのカツサンドとウインナーロールを手に入れて、それで昼飯にしようとしていた。購買部の前は相変わらずの人混みであり、各々自分の求めるパンを求めて壮絶な争奪戦が繰り広げられている。
「ああ、やだやだ。浅ましいねえ」
「そういうものなの? 浩之」
 浩之につきあってパンを買いに来た少年が、あきれたようにくすっと笑う。
「だってさ雅史、見ろよ。大の男が、それこそあんな小さな女の子まで押しのけて……って、ありゃ」
 浩之が視線を向けたそこでは、まるで中学生か小学生にも見えるちっちゃな女の子が、必死に人混みの中に突入していってははじき出され、はじき出されては突入していく。浩之は、少々呆れた様にその姿を眺めていた。少女の本来両耳のあるべき場所から上へとすっくと伸びた金属製の飾りが、人混みの中であっちへ突き飛ばされ、こっちへ押し退けられしている様が、二人にも良く見えた。
「ああ、マルチだね」
「おう。相変わらずのパシリかよ」
 マルチ。
 少女は、実は人間ではない。来栖川製の、試作メイドロボットHMX-12、というのが本来の名称である。マルチ、という呼び名は、あくまで研究室の制作者がつけたあだ名であった。
 この二一世紀も四半世紀は過ぎた昨今、先進諸国での若年労働力の減少は目に余るものがあった。最低限でも教育を受けた人間は、それこそ男女の別なく働くことが求められ、それに応じて給与の上昇も相当なものとなっていった。だが、男女の別なく働かなければやっていけない彼らにとって、日々の生活の雑事は実はかなりの負担となっていた。
 しかし、より安い給与で働く後進国の労働力を連れてきてそうした単純労働を任せてしまうわけにもいかなかった。二〇世紀末から二一世紀初頭の民族問題の暴発は、そうした全く別の文化圏の人間が同一の土地で同一の社会を形成していかなければならない事実が原因となった事が多々あったためである。いかに労働力が不足していても、社会に混乱と不安を形成するようなことは、さすがに疲弊しつつあった先進諸国には出来なかったのであった。
 こうした問題の解決のために生み出されたのが、メイドロボット、と呼ばれる一連のハウスキーピング・ロボットであった。いくら自動化と省力化を押し進めていっても、やはり最期の一線で人間の手は必要とされる。とくに、老人や幼児の扱いはそうである。そうした問題を一挙に解決する解答として試作されたのが、マルチの様な人型のロボットであったのだ。
 マルチは、人間そっくりのロボットが人間の中に存在したとして、どういう反応を周りから受けるか、どういう扱いを受けるか、といったテストのためにこの学校に送り込まれていたのであった。
 何度目にか人混みからはじき飛ばされて、とうとうマルチはべそをかき始めてしまった。やれやれと言うように浩之は腰を上げると、両手のパンを傍らの雅史と呼んだ少年に手渡す。
「よう、マルチ」
「ああぁ、ひろゆきさ〜〜ん」
 ぐすぐす鼻をすすり上げているマルチは、近づいた浩之に気がつくと、今度はふええと声を上げて泣き始めてしまった。
「なんだ、またパシリかよ」
「はいぃ。でもぉ、どうしてもパンを買えないんですぅ〜」
「ほら、まず鼻をかめよ」
 鼻をぐずぐず言わせているマルチに、浩之はハンケチをポケットから出して渡した。しきりに恐縮しながらそれでもしっかり鼻をかむ彼女を、浩之は困ったような笑みを浮かべて見つめていた。
「しっかし、鼻水まで出るなんて、本当にロボットとは思えないほど良くできてるよな」
「うう、でも、わたし、メイドロボなのに、全然皆さんのお役に立てなくって」
「いいさ、メイドロボットの仕事に、購買部でクラスメイトの昼飯を買うってのがあるんじゃないだろ。ほら、パンを買うんだろ、メモ貸せよ」
「うう、いつもいつも浩之さんにはお世話になりっぱなしで……」
 またべそをかき始めるマルチ。浩之は、ロボットの頭をひとなでしてやると、気合いとともに人混みの中に突っ込んでいった。するするといとも簡単に人混みを通り抜け、そのまま勢いに任せてメモ書かれているパンを一気に買い込む。
「ほら。これで全部だろ」
「はい! 本当に、ありがとうございますぅ」
「浩之って、本当に女の子には優しいね」
 浩之がマルチの代わりにパンを買うのを見ていた雅史が、苦笑しながらつぶやいた。
「……んなわけねえだろ。そうだ、マルチ、お前一年A組だったろ」
「はい」
「今度、担任が代わったんだってな。どんな先生なんだ?」
 そばで雅史が、口元を押さえて両肩を震わせている。
「ええとですねぇ、すっごく綺麗で、それで、怖い女の方です」
「は?」
「ですからぁ、皆さん綺麗だ綺麗だっていっていて、それと、怖いっていってます」
「ああ、そういうことか」
 それこそ、どんな人間であっても買われていった先で献身的に労働することを要求されるメイドロボットに、人間の美醜や怖い優しいという判断基準がプログラミングされているはずもない。マルチは、まわりのクラスメイトがその女性に対して下している評価を聞いて、浩之に説明しているのであろう。
「なあ、雅史」
「なに、浩之」
 今度はジュースを買いに行ったマルチの背中を見送りながら、浩之はつぶやいた。
「飯喰ったら、職員室行ってみないか」
 
「なあ、雅史」
「なに、浩之」
「すげえな、この人だかり」
 職員室の前は、それこそ先ほどの購買部の人混みですら、始発時間帯の駅の券売機の前に見えてくるほどの人の山であった。しかも、そのことごとくが濃紺の制服を着た野郎共なのである。うざったいことこの上ない。だが、彼らは一言も口をきかず、できる限り物音を立てないようにしていた。わずかにひそひそとささやかれる声と、きぬ擦れの音、そして肉と肉がぶつかり合う音だけが二人の耳に聞こえてくる。
 さしもの二人も、茫然としたままその人混みを見ているしか出来ないでいた。
 と、すぐ後から聞き慣れた声が、聞き慣れたきつい調子のイントネーションで張り上げられる。
「あんたら、うちは職員室に用があるんや。そこどいてくれへん?」
 振り返ったすぐそこに、大きな銀縁眼鏡をかけ三つ編みを後にたらした少女が、腰に両手をあてて仁王立ちにたっていた。眼鏡の中の切れ長の眼がわずかに細められ、口元が厳しくしかめられている。
「あ、保科さん」
「おう、委員長」
「委員長やない。藤田君、あんたもか」
「違うぜ。ここが通行止めになっているんで困っていたところだ」
「どうだか」
 へらず口を叩く浩之を無視して、委員長と呼ばれた少女はなんとか人混みをかきわけて前に進もうとしている。だが、ラッシュアワーの通勤電車の中みたいな現状で、それこそ女の細腕でどうこうできるはずもない。さすがに悪戦苦闘している彼女、保科智子の姿に、浩之は、彼女の側に近づいた。
「で、委員長、職員室に用事か?」
「そうや。次の授業のプリント、取りに来いっていわれとんのや。せやけど、これでは……」
「おう、んじゃ手伝ってやるよ。構わねえよな、雅史」
「うん、僕はいいけど、でも、どうやって職員室に入るの?」
「それはな、こうするんだ」
 ニヤリと、本人は格好良くニヒルに笑ったつもりの笑みを浮かべると、浩之は思いっ切り息を吸い込んだ。
「ダイスケだぁ〜〜〜〜〜〜!!」
 浩之の絶叫の三秒後には、職員室の前には三人しか生徒は残っていなかった。わずかにあたりに漂っている埃が、これまでの喧噪がを物語っている。
「え、佐藤先生、どこに?」
 おろおろとしている雅史に、浩之はしてやったりとした笑みを浮かべて言い放った。
「いねえよ。これで職員室までまっすぐ行けるってもんだ」
「考えたもんやな。あの生活指導のセンセの名前を聞いて、逃げ出さないもんはおらへんし」
 感心したように智子はうなずいている。
「おう、あいつにとっ捕まっていびられたい奴は、この学校には一人もいねえや」
「誰にいびられる、だぁ」
 ぎくっとした三人は、背中に感じる殺気の様な緊張に、身体が凍りついた様に動けなくなった。浩之は、ゆっくりとなけなしの勇気を振り絞って振り返ろうとする。
「こ、こ、こんにちわ」
 振り返ったそこには、だが三人が恐怖した人間は立っていなかった。
「なんだ、中村か」
「中村か、とはなんだ! それが教師に対する口のきき方か!」
 そこには、丸眼鏡をかけた、細っこい男が立っている。眼鏡の中の細い目と分厚い唇が、彼の印象をどうも情けないものにしていた。
「だって、中村は中村じゃん」
「貴様ぁ、クラスと名前を名乗れ!!」
「やなこった」
「貴様ぁあっ!!」
 と、そこで本当に浩之は凍りついた。
「貴様、何とか言ったらどうだ。あぁん」
「何を言うのかなぁ、中村教諭ぅ?」
「……それでは、ぼくたち、つぎのじゅぎょうのじゅんびがありますので。しつれいいたします」
 浩之は、ぎこちなく回れ右をすると、妙に棒読みな口調で、固まっている智子と雅史をうながす。そのまま右手と右足を同時に出しつつかくかくと職員室に入っていく。
 三人は、後で熊にも似た巨体が中村教諭を片手で持ち上げている影を見たような気がした。が、あえて振り返ろうとはしなかった。人間には、知るべきではないことと、目を向けてはならないことが存在するのだ。
「なぁかむらぁあ。くぉの、ボケがぁっ!!」
 
「失礼しま……」
 職員室に入ろうとした浩之が最初に見たものは、黄金に輝く瞳であった。そしてそれが、薄茶色がかった色合いの瞳が、かけている眼鏡のレンズと光の加減でそう見えているだけだ、ということに気がついたのは、その声が彼の沸騰した意識を凍らせた時だった。
「退いていただけます」
「す、すいません」
 あわてて一歩後に下がる。と、すぐ後にいた智子に、背中がぶつかってしまう。
「痛ったあ、なんや藤田君」
「あ、すまん」
「失礼」
 その金色の瞳の持ち主は、浩之にわずかに一瞥だけくれて職員室の外に出る。浩之は、その時になって初めて、相手が女性であることに気がついた。一歩引いて初めて彼女の全身が見えてくる。
 ほう。
 思わずため息が漏れた。
「どないした……」
 智子の言葉が途中で消える。
「……………」
 雅史は、最初から息を飲んだままため息すらつけないでいた。
 彼女が視界から去ってしまうまで、三人はそうしてその背中を見つめ続けているだけであった。
 
 三人は、一抱えも二抱えもあるプリントの山を手分けして運びながら、教室へと階段を昇っていく。さすがに一番大きい紙の山を運んでいるのは浩之であった。
「でもさ、あれならやっぱり、あの人集りも納得いくよなあ。そう思わないか、雅史」
「そうだね。でも、確かにちょっと怖い感じの人だったね」
「いやあ、でも、あれくらいならかえっていい感じじゃん」
 ひたすら盛り上がる二人とは逆に、智子は難しい表情のまま、うつむき黙って階段を昇っていく。そんな委員長の様子に気がついた浩之は、踊り場でいったん足を止めて彼女を振り返った。
「どうした、委員長? 重いのか?」
「あ、そうやない」
 はっとしたように、顔をあげる智子。
「大丈夫か? いつもだったら、激しく突っ込みが帰ってくるところだぜ?」
「アホ。そないなことから、もう少しで佐藤センセにしばかれるところやったんや」
「そうそう。委員長って、やっぱそうじゃないとな」
「……アホ」
 智子は、わずかにうつむいた。
「でもさ、やっぱ委員長の目から見ても、綺麗だとは思わなかった?」
 また階段を昇り始めた浩之は、今度は話を智子にふった。
「でもまあ、女の目から見ると、やっぱ違うのかな」
「そんなこと、ない。確かに氷室いずみは、とてつもないべっぴんや」
 うつむいたまま、智子は半ば心ここにあらずといった様子でつぶやいた。
「え? 氷室いずみ、っていうんだ、あの先生。へえ、いつのまに」
「めずらしいね、保科さんが先生を呼び捨てにするの」
「え? あ、さっき職員室に行く前にな、プリントの話の時に聞いたんや」
 あわてて言い訳する智子。だが、そんな彼女の様子に気がついたのか、気がつかなかったのか、浩之は雅史の方にむかって話をふっていた。二人に気がつかれないように、そっとため息をつく。
「そういや、栗田先生の代理だろ? てことは、俺達も授業を受けられる可能性があるな」
「あ、そうだね」
「おっしゃあ! がぜんやる気が出てきたぜ! いくぜ、雅史!!」
 智子は、うつむいたまま厳しい表情でもう一度ため息をついた。
 
 窓から差し込む夕日が、すうっと伸びる廊下をだいだい色に染めている。
 ほとんどまっ暗であった部屋の中から出た浩之は、視界を染め上げている色にわずかに目を細めた。そのまま傍らの少女に視線を移す。
「うわ、もうこんな時間。先輩、大丈夫かい?」
「…………………………」
 細く艶やかな黒髪をわずかにかたむけて、先輩と呼ばれた少女は小さな声でなにかつぶやいた。その闇色の瞳は、浩之に眼にあわせられている。
「え、今日は部活で遅くなるってセバスチャンには言ってある? ああ、綾香と一緒に帰るんだ」
 こく。
 少女は、それこそ注意して見ていないとわからない程に小さくうなずいた。はた目にはまったく表情があるようには見えない。彼女は、わずかに首をかしげて浩之を見上げた。
「校門まで一緒に行きましょうって? おう、喜んでエスコートさせてもらうぜ」
 二人は並んだまま、ゆっくりと紅い廊下を進んでいく。
「そういや来栖川先輩、ここんとこずっと何の魔術の研究してんの?」
「…………………………」
「え、ないしょですって? いいじゃん、教えてくれたって。俺だって色々手伝っているんだし。はあ、因と果の二重螺旋を対数螺旋構造に再構築して螺力を発現する? ……ごめん、聞いた俺が悪かった。でも、それってかなり強力な……」
 浩之の言葉は、最期まで続けられることはなかった。
 二人の視界の先に、なにか話し込んでいる二人の人影が目に入ったのだ。
「お、マルチと氷室先生だ」
 廊下の掃除でもしていたのだろう。手にモップを持っているマルチが、なにか要領を得ない困ったような表情をして、担任の言葉に耳を傾けている。氷室いずみの、後で二つにまとめられたきつくウェーブのかかった黒髪が、彼女がなにか口をきくたびに左右に揺れている。スーツからストッキングまで身につけているもの全てが黒で染め上げられているその姿は、紅い夕日の中ではなかなかに禍々しく見えた。
 浩之は、マルチがなにかいつものごとく失敗をやらかし、そのせいで担任にお叱りを受けているのだろうと目算をつけた。そうとあっては、あまりしげしげと眺めているのも可哀想である。彼はそっと来栖川芹香をうながすと、二人に気づかれないようにその場を立ち去ろうとした。
 その瞬間であった。
 氷室いずみの右手がマルチの首筋に伸び、それと同時にメイドロボットは、まるでブレイカーが落ちたかのように機能を停止してくずおれる。
 左手でその小さなボディを受け止めた氷室いずみは、何ごともなかったかのようにメイドロボットのその小さな身体を抱えて立ち去ろうとした。
「マルチ!?」
 浩之は、思わず声をあげて駆け寄った。なにがあったのかわからないまでも、マルチの身に何かが起こったことだけはわかったのだ。
 駆け寄ってくる浩之に気がついたのか、氷室いずみはマルチを抱えたままゆっくりと振り返った。浩之は、チタンフレームの眼鏡の後のその黄金色の瞳が、まるで凍りついているかの様な思いにかられ、一瞬足を止めてしまった。何故かはわからないが、すさまじいまでの圧迫感を彼女の美貌に感じ、それ以上脚が前へ出ようとはしない。
「氷室先生!」
「あなたは?」
 その声も、氷室いずみの整った、いや、整いすぎた容貌にふさわしく、浩之の男としてのある部分を凍りつかせて放さない。
 浩之は、なえそうになる気力を精一杯ふりしぼって、氷室いずみの前に立ちふさがった。とにかく、今はマルチのの事が優先するのだ。
「二年D組の藤田浩之といいます。彼女、マルチはどうしたんです?」
「話をしていたら突然動かなくなったわ。保健室に連れていきますから、貴方たちはもうお帰りなさい」
「保健室じゃ、こいつはどうしようもありません」
 それで。
 氷室いずみの瞳の温度が、さらに一段冷たくなる。
「来栖川の研究所に連れていきます。あそこには知り合いがいますから、すぐにチェックしてもらえますから」
「わかりました。では私が運びましょう」
「いや、今、来栖川先輩の迎えの車が来ますから、それで運んでもらいましょう。先輩はオーナーの一族ですし、そっちの方が」
「そうね、では、お願いしようかしら」
 浩之は、目の前の女教師から受ける言葉とは裏腹の圧迫感で、精神が恐怖で恐慌をきたしそうになるのを押さえ込むので精一杯であった。エクストリーム同好会の活動で何人もの手練と試合をしたこともあるが、これまでこれほどの恐怖を感じさせる相手と相対したことなど一度としてない。
 あんた一体何者なんだ!
 そう叫び出しそうになるのを必死になって押さえ込みながら、浩之は、手の動きだけで後の来栖川芹香に車を呼びにいくよう合図する。だが、その視線は目の前の女教師に張りつかせたままであった。一瞬でも気を抜いて背中を見せたならば、どんなことになるのかもわからない。そうした本能的ななにかが、浩之にそう警告しているのだ。
 来栖川先輩の足音が去るのを背中で聞きながら、浩之は二人きりでこうして紅に染まった廊下に二人きりでいるこの一瞬が、もっとも危険な瞬間であることを何故か本能が告げているのに、胃の底が凍りつくような思いを感じていた。
「藤田君。貴方はマルチさんと親しい様ね」
「ええ、まあ」
「では、任せて良いかしら」
 同時に、拭い去ったかの様に氷室いずみから圧迫感が消え、その面に穏やかな表情が浮かび上がる。
 その小春日和の木洩れ日のような微笑みに、浩之は一瞬誘い込まれるように両手を差し出して、マルチの小さな身体を受け取った。そのロボットというにはあまりにも軽く華奢なボディに、一瞬だけ注意が目の前の女性からそれる。
 と同時に、浩之が気がつく事がないほどにさりげなく、氷室いずみの右手が彼の首筋に伸びる。
 浩之がその手に気がついたときには、指先は彼の首筋、頸動脈にまさに触れんとしていた。
 とっさのことに凍りついたかのように身体がまったく動かないまま、浩之は全身に冷たい汗が吹き出るのを感じた。
 
「たいした演技やな。アカデミー賞もんや」
 氷室いずみの背中から、ぎりぎりまで冷えた、そしてずいぶんと聞き慣れた声が飛ぶ。その声に合わせるように、氷室いずみの右手は浩之の首筋から離れた。
 彼女が振り返ると同時に、浩之は全身のばねを使って後へと飛ぶ。着地と同時にわずかに膝をたわめ、目の前の漆黒の女がどのように動いてもいいように全身に緊張をためていく。
 浩之の視線の先に立っているのは、クラス委員の保科智子であった。
 だが彼女は、浩之が知っているいつもの彼女とは違った。プラスチックフレームの眼鏡の中の切れ長の目が、厳しく冷徹な光をもって氷室いずみを見つめている。保科智子もまた、浩之と同じ様に全身のばねをたわめて女教師と相対していた。
「貴女は?」
「保科智子。そいつの同級生や」
「その貴女が、私になにか用かしら」
 声色だけは穏やかだが、浩之の目には、氷室いずみのまわりに凍て付いた風が逆巻いたのが見えたような気がした。
 その圧迫感に耐えるように、智子はゆっくりと口の端を跳ね上げて見せる。
「そうやな、用といったら用はあるんよ、氷室センセ。いや、世界征服を企む悪の秘密結社BF団が十傑衆、"衝撃の"氷室いずみ!!」
 智子と氷室の間の緊張は、その瞬間まさに頂点に達した。
 肌着を冷や汗でしとどに濡らしたまま、浩之は智子の台詞を頭の中で繰り返していた。
 世界征服を企む悪の秘密結社BF団? 一体なんだ、それは。まるで、一昔前の子供向け特撮番組じゃないか。いや、決してこの俺が言えた義理じゃないが、そんな馬鹿な話があっていいのか。
 三人の間の緊張を最初に破ったのは、やはり氷室いずみであった。
 最初は忍ぶような笑いが彼女の口から漏れ、そして徐々にそれが高まっていく。わずかにうつむいて眼鏡を外すと、微笑みと呼ぶにはあまりにも禍々しい何かを唇に浮かべながら彼女はつぶやいた。
「ふふ、確かに一昔前の子供向け特撮番組ね」
 俺の思考を読んでいるのか。
 浩之は、内心で別の意味の恐怖がわき上がるのを感じた。
 というか、彼も年頃の健康な男子高校生である以上、美人女教師を目の前にすれば、考えることも色々といっぱいあるのだ。
「でも、真実は小説よりも奇怪な様ね。国連統合作戦機構国際警察局のエキスパートさん。そう、思い出したわ。智多星の保科、と言ったかしら」
「光栄やな。十傑衆にまで名前が知られている、っていうんは」
「記憶力は、良い方なの」
 と、氷室の右手の平が浩之に向けられる。
 同時に智子が叫ぶ。
「逃げて! 藤田君!!」
 勘の導くままに横っ飛びに近くの教室に転がり込んだ浩之のすぐそばを、目に見えない何かが駆け抜ける。その何かは、廊下の窓ガラスと教室の扉を次々と粉砕し吹き飛ばして廊下を奥まで駆け抜けた。床に転がった彼の耳に、はるか向こうで何かが砕け散る重い音が響いてくる。
 浩之は、いまだに気を失ったままのマルチを両手で抱えたまま、教室の窓ガラスをその身体でぶち割って外へ飛び出す。とにかく今は、マルチとともに氷室いずみから逃げるのが先決なのだ。
 と、自分がいた廊下が、実は二階にあることを思い出す。だがそれは、彼のはるか下に青々とした芝生が広がっているのを目視確認した瞬間のことであった。
 浩之はとっさに、着地の瞬間受け身をとって背中から地面に転がった。だが、いくら軽いとはいっても数十キロはあるマルチを抱えてである。前後から喰らった衝撃に、彼は思わず意識が遠くなってしまう。
 だが、何とかありったけの気合いと根性をふりしぼって、気絶するのだけはこらえる。
 怒り狂ったあかりにしばかれる方が、はるかにきついじゃないか。あかりの瞬極殺はなあ、こんなもんじゃないぞ。
「逃がさないわ!」
 浩之が飛び出した教室の窓ガラスが一斉に吹き飛び、氷室いずみが浩之を追って飛び出してくる。
 タイトスーツを着ているとは思えないその身軽な動きに、浩之は何とか身体を動かそうともがいた。だが、いくら芝生とはいえ二階から数十キロの荷物を抱えて叩き付けられては、そうそう動けるはずもない。というより、骨一つ折っていない事の方が、幸運の極みとでもいうべきなのだ。
「藤田君!!」
 一瞬遅れて、昇降口から、手にハリセンを持った智子が飛び出してくる。
 だが、浩之との距離はあまりにも遠い。
「藤田君」
 浩之がそのあくまで冷徹な声にうながされるように目を開くと、すぐそこに氷室いずみが右手の平を自分に向けて立っている。
「必要のない暴力を振るうのは、趣味ではないの。マルチさんを渡しなさい」
 とっさにみじろぎしようとして、浩之は自分の身体が言うことを聞かないのを思い知らされる。
「よくて?」
 彼女の手の平から視線をあげ、浩之は感きわまったようにつぶやいた。
「黒か」
 次の瞬間浩之は、一〇メートルほども上空に吹き飛ばされてから、もう一度地面に叩き付けられた。
「藤田君、大丈夫?」
「……しかもガーター……」
 今度は智子の巨大ハリセンが一閃し、浩之を一五メートルほど上空へほうり上げる。
 それでもマルチを抱いたまま放さないのは、それはそれで見上げたものではあったが。
「く、よくも藤田君をこないな非道い目にあわせよったな」
 智子は、両手にハリセンを二つ持ち、浩之をかばうように氷室いずみの前に立つ。
「……お前もだろうが」
 智子はわずかに腰を落としてハリセンを構え、右足を後に引いた。その足がなぜか浩之の腹の上にのせられる。足下で漏れるうめき声を無視しながら、しばし足元を確かめるように踵を動かして地面を踏みしめ、彼女ははっしと目の前の麗人をにらみつけた。
「藤田君、ここはあたしが何とかする。あんたはマルチさんを連れて逃げてや」
「逃げてって、な、そうはいったって」
「アホ、そんな怪我しておって、なにができるちゅうんや」
「だが……………」
 何とか立ち上がった浩之は、それでもマルチをしっかりと抱き締めながら視線を氷室に向ける。
 相変わらずの冷たい瞳が、二人を無表情なまま見つめている。
 浩之は、智子がその口ぶりとは裏腹にかすかに震えている事に気がついた。そして、彼女のうなじに浮かぶ脂汗が夕陽を受けて光っている事にも。
「逃げ切れるものかよ」
 浩之は、ゆっくりと、それこそ三〇秒以上もかけて鼻から息を吸い、同じほども時間をかけて口から息を吐く。それを何度か繰り返し、自分の身体の中にもう一度力を呼び起こそうとした。
「それに」
 はっしと視線を氷室いずみにあわせて、浩之は気合いとともに腰を落とした。
「女の子に荒事を任せて、てめえだけすたこら逃げるってのはな」
「藤田君……」
「そう」
 これまで黙って二人を見つめていた氷室は、視線を下に落とすと、わずかに口の端をゆがめた。
「ならば」
 どん。
 氷室の周囲の空間が音を立てて歪み、その両手に何かが集まる。
「これで終わりにするわ」
 同時に衝撃波が二人に襲いかかる。
「鉄ハリセン!!」
 智子の掲げるハリセンが、一瞬二人を隠すように巨大化し、氷室いずみの左手が放った衝撃波を受け止める。その圧力に必死に耐える智子。浩之は、必死になって歯を食いしばっている彼女に、かつてないほどのいとおしさを感じていた。
「でえりゃ!!」
 気合いとともに、智子は衝撃波を受けきった。二人の目の前の地面は、まるでショベルカーでえぐり取ったかのような深い溝がうがたれていた。
「そう。では、これならば!」
 次に右手から放たれた衝撃波は、氷室の目前の地面を破砕しつつ高速で二人に襲いかかる。浩之と智子は、粉砕された地面もろともそのままたかだかと空中に跳ね上げられた。とっさに浩之は、マルチとともに智子も抱えこみ、そして地面に背中から叩き付けられる。
「ここ、まで、か」
 ゆっくりと近づいてくる氷室いずみの影に、浩之はぎりぎりと歯ぎしりした。だが彼の身体は、持ち主の意図に反してまったく動こうとしない。智子も、今の衝撃で意識を失ったのか、目を閉じたままぴくりとも動かなかった。
 すっと横に伸ばされた氷室の右手のひらの前に、何かが集まり空間がゆがんでいく。
 とその瞬間。
「ヒロ!!」
 声とともに、三人を真白く輝く光が照らし出す。
 そのオープントップのスポーツカーとおぼしき車のヘッドライトの輝きを逆光に、両手を広げた少女のシルエットが浮かび上がる。
「あんたの魂がまだほんとうに諦めていないならば、世界の果てを駆け巡るこの音が聞こえるはず!」
「!?」
 浩之の耳に、高らかにエンジンの始動音が響き渡る。
「さあ、いざなわん、あんたが望む世界の果てへ!!」
 世界に、高らかに荘厳な鐘の音が轟き渡った。
 
to_be_continued 



 あとがき
 自分だけは引っかからないと思っていた「マルチ」商法に見事引っかかってしまいました。この作品は、その微苦笑にも似た「想い」が、毒電波となって無理やり頭蓋からほとばしったものです。そして、そうであるだけに、多分、自分の望んでいるのかもしれない妄想のワンダーランドとなって赤く熱い物語となっていくのでしょう。
 この物語は、「愛」と「勇気」と「友情」の物語です。
 そこで語られる「愛」と「勇気」と「友情」について、自分がどう思っているか、どう評価しているか、それがこの物語の色調をつかさどっていくのでしょう。自分はもはや毒電波を受信しひたすらにキーボードを打つだけです。
 それでは最期に、この様なお話をご自身のHPに掲載することを承諾してくださった島津義家氏に、最大限の感謝と友情を捧げて、次の毒電波の受信に入るとしましょう。
 それでは、また遠くない未来に再会できることを願って。
金物屋忘八拝 



 解説(というか、そう呼ぶべきもの)

 「人間には二種類ある。人を二種類に分けて考えたがる人々と、そうでない人々だ」
 とは、一昔前に流行した「マーフィーの法則」の一節。なぜここでそんなものを持ち出すかと言えば――。それは、本作を読み、楽しめる人と、そうでない人がいる、もっとはっきりいえば、心から楽しめる人がごく少数であると想像がつくからである。
 まず、下にも記された膨大な「元ネタ」の数々、それら全てを網羅する知識をもつものは少数派であろう。本作を読まれた方々は少なからずの割合で「ToHeart」のファンフィクションを期待して読まれたであろうが、元ネタにはあまりにもそれ以外の要素が数多く含まれている。
 そしてより厄介なのは、その元ネタを理解したところで、読み手の困惑は必ずしも収まらない、ということである。
 それは一つには、「金物屋忘八」といえばいまなお『EVANGERION1999』の名声が高く、『〜1999』といえば緻密かつしっとりとした描写で知られていることに起因している。
 本作も冒頭部の鬼気迫るサスペンス風の出だしから、一転して平和な学園生活という展開に、読み手は間違いなく期待を抱くことであろう。定評のある、一つ一つの描写に手を抜かない丁寧な文体が、いっそうの期待を高める効果を発揮してもいる。
 しかし、「平凡な高校生が否応なしに事件に巻き込まれ、重大な鍵を握ることになる」展開は予想通りといえなくはないものの、読み進めていくにつれて次第に小首を傾げていくことになるだろう。
 元ネタを知っていなければ全く理解不可能な言動をとりはじめるキャラクタ、いや元ネタを知っていたとしても、「何故ここでこういう展開になってしまうのか」という驚き・困惑が収まらないまま、第一話終了となってしまったに違いない。

「真面目な顔で放たれたギャグほど破壊力が高い」
 とは、航空シミュレーション小説で名高い鳴海章がしばしば作中に繁栄させる概念である。なぜここでそんなものを持ち出すかと言えば――。それは本作もまた一種のギャグと考えられなくもないからである。
 無論、そう考えてしまうには作中の描写はあまりにも真面目すぎて、笑うに笑えない、と感じる読者も多いことだろう。そしてそれは、他ならぬ私自身にも共通する感想である。もしかしたら、誰にとってもまともな論評など出来ないのかも知れない。少なくとも、今の段階では。
 金物屋忘八氏によれば、本作は最初の段階で構想したクライマックスの展開にあわせて、帰納的にストーリーを組み上げている、とのこと。全ての描写は計算され尽くしているのか、それとも妄想の発露に過ぎないのか。
 結局のところ、ストーリーの全てが明らかになるまで、私達はこの荒れ狂うストーリー展開に困惑し、翻弄され続けるのであろう。本作を楽しめる人とは、その困惑と翻弄を楽しめる人と同義である。

(編集・文責:島津)



Too HEAT 元ネタ辞典

 
「SH-X」:光栄のシミュレーションゲーム「ガングリフォン」より。二足歩行兵器HIGH-MACSの自衛隊開発プロジェクト名。

「児玉」:佐藤大輔の小説「遙かなる星」に出てくる自衛官より。

「フォーグラー博士」:OVA「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」より。世界の破壊者、という異名を持つ悪の博士、ということに最初はなっていた。

「静馬博士」:同じくOVA「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」より。第三のエネルギー革命をもたらした「シズマドライブ」の開発者。

「ヴァシュタール」:同じくOVA「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」より。かの作品では、この国が蒸発したのが全ての始まりであり、そしてこの国で全ての決着がついたのであった。

「Magnificent Ten Attack」:アニメーション「新世紀EVANGELION」の第一話サブタイトル「Angel Attack」より。「Magnificent Ten」とは、英語での「十傑衆」の表記。 

「栗田先生」:漫画「美味しんぼ」より、栗田ゆう子。To Heartに山岡先生という教師が出たため。

「中村教諭」:小林源文のキャラクターより。

「サトウダイスケ」:同じく小林源文の漫画のキャラクター、佐藤大輔より。

「氷室いずみ」:アニメーション「プリンセスナイン」より。筆者の最近の萌え一番キャラ(笑)。

「螺力」:夢枕貘の小説「上弦の月を食べる獅子」より。世界の全ての存在は、螺旋の力で構成されているという。

「世界征服を企む悪の秘密結社BF団」:「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」より。

「十傑衆」:「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」より。BF団の最高幹部団の異名。

「"衝撃の"氷室いずみ」:「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」のキャラクター、十傑衆"衝撃の"アルベルトより。
異名の通り衝撃波を使い、一人で国際警察機構の支部一つ壊滅直前に追い込んでもいる。

「国連統合作戦機構」:大石英司の小説「UNICOON」シリーズより。原作の「ジャイアントロボ」のジャイアントロボは
、正義の秘密組織「ユニコーン」の所属であった。

「智多星の智子」:「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」のキャラクター、国際警察機構エキスパート"智多星"の呉学人より。

「鉄ハリセン」:「ジャイアントロボ・ザ・アニメーション」のキャラクター"智多星"の呉学人の特殊技能「鉄扇子」より。「ジャイアントロボ」でも"衝撃の"アルベルトの衝撃波を防いでいる。

「オープントップのスポーツカー」:アニメーション「少女革命ウテナ」より。主人公の最期の敵、鳳暁生学園理事長が乗っていた。

「あんたの魂が〜」:同じくアニメーション「少女革命ウテナ」より。鳳暁生の配下桐生冬芽生徒会長の台詞。彼はこの台詞で、士気の落ちた鳳暁生の配下を再洗脳(笑)すべく"暁生カー"に乗せている。

「鐘の音」:同じくアニメーション「少女革命ウテナ」より。かのアニメーションにおいては、要所々々で鐘の音と薔薇が演出で多用されていた。




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