・・・ < 解 説 1 > ・・・
■ 基本的人権と国際人権規約 ■ 人権が人類に共通の普遍的なものとしては考えられるようになったのは、比較的、最近のことです。かつては、どこかの国でひどい人権侵害があっても、それはその国の「国内問題」としてのみ捉えられていました。すなわち、他国がとやかく口出しをするものではないというのが、共通認識だったのです。この認識が大きくくつがえされたのが、世界中に大きな被害をもたらした第二次世界大戦でした。
ドイツナチスのユダヤ人迫害は、当時のドイツ国内法に従えば合法で、国際社会は初めのうち、これを「国内問題」とみなして放置しました。しかしやがて迫害は、ナチスの世界征服の野心とともに国境を越え、その過程で前代未聞の大虐殺が行われました。ナチスのみならず、ドイツと同盟を結んだイタリアのファシズム政権、日本のアジア大侵略による大規模な人権侵害は、あまりにも多くの人命を犠牲とする結果を招きました。そして国民の人権を守らない国家は、ひいては国際社会の平和と安全を脅かす存在になりかねないという認識が、国際社会に生まれたのです。
まだ大戦の終わらない1941年、当時のアメリカ大統領、ルーズベルトは、大戦を「自由を守る戦い」と位置づけ、4つの基本的自由を主張しました。すなわち、「言論の自由、宗教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」です。
大戦終了後1945年に制定された国連憲章は、その前文で「基本的人権と人間の尊重および価値」に言及し、第1条では、国連の目的として、「すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励すること」をうたっています。
さらに1948年、国際人権章典の第1歩として、世界人権宣言が採択されました。背景にあったのは、あのような忌まわしい出来事を2度と許してはいけない、真に世界の平和を守るためには、国際社会として人権を守っていくことがどうしても必要なのだという、深い反省と強い決意でした。この世界人権宣言が、国際人権規約の基本となっていきます。
戦後、世界は冷戦時代を迎えました。お互いの利害関係や、それぞれの国が抱える国内問題などを背景に、各国が異なる「人権」の概念を衝突させ、時には政治的な駆け引きも交錯し、国際人権規約の草案づくりは難航しました。しかし、世界の平和のためには基本的原理としての人権を確認することが不可欠なのだという基本認識は変わらず、18年という長い年月と数知れない交渉を経て、1966年、ついに規約が採択されました。これが国際人権規約で、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約またはA規約)」と、「市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約またはB規約)」の二つからなります。どちらも第1条は共通に「人民の自決権」、すなわち「すべての人民は、その政治的地位を自由に決定し並びにその経済的、社会的及び文化的発展を自由に追求する。人民は、いかなる場合にも、その生存のための手段を奪われることはない。」とうたっています。