1.人権について ・・・ 基本的な点で
〇F・ルーズベルトは「すべての人々にはちゃんとした住居が必要である」と初めて言った大統領である。それは1941年の演説で述べたものであり、社会権を明確にしたものであった。
〇歌手のガースリーは1930年代、「金持ちが貧乏人を家から追い出してしまう」と歌った。今でも5000万人から一億人が家から追い出されている。経済的に強い力を持つ人はさまざまなことをコントロールする力を持つ。住居についても、力を持つがそれは往々にして「居住の権利」を損なう方向に動きがちである。
〇J・K・ガルブレイス(ハーバード大学名誉教授・「ゆたかな社会」「新しい産業国家」「不確実性の時代」などの著書で知られる経済学者)は「市場経済はすべての人々に住居を供給することはありえない」と言った。このことは人々から無視されているが非常に重要なことである。市場経済が有効な場合もあるが、市場経済の経済効果はすべてに及ぶわけではないからこそ、「居住の権利」が大事なのである。現に、市場経済が国民経済のすべてを覆ってはおらず、先進国のGDPの40%から60%は政府支出である。
〇仏教の言葉に「家は幸せの根っこである」というのもある。
2.居住における国際人権法について
1948年に、「国際人権法」である「世界人権宣言」がつくられた。「国連憲章」は第2次世界大戦後の世界に、あのいまわしい戦争という出来事の再来を防ごうとつくられ、「世界人権宣言」もそれにもとづき、1945年から48年にかけて内容が練り上げられ、「人は人として尊重されるべきである」という理念が形づくられたのである。つまり、一人の市民の人権は文化的、政治的、社会的な意味での人権をすべて統合することで実現されるという考え方である。
しかし、今日、コソボ、ルアンダ、スーダンなどの現状や権力者による搾取などは、国際人権法が機能しているとは言い難い。国際人権法は確かに何も止めることはできていないようにも見えるが、人々の考え方やシステムづくりに前向きの影響を及ぼしている制度を確立するためのよりどころとなる。非政府組織(NGO)や法律関係者からの働きかけで、各政府は「人権」という考え方が取り入れられなければならなくなっている。条約、規約、憲章には法的拘束力があるし、日本のように国内法で人権を謳っている国もある。一方、宣言、決議、勧告などには裁判所で使えるという意味の法的拘束力はないが、政府が公の場で合意し、その趣旨に沿う意思を示したものなのでその違いをあまり大きく取り立てることはない。政府がそれに反する行動をする場合は理由を明確にして説明する義務がある。「条約」や「規約」には法的拘束力がある。それは政府が「批准」という手続きをとるからである。その効力はその国の政府の解釈に任されているところもあるが、国によっては裁判所が国際条約や国際規約の直接適用性を認めているケースもある。
「署名」は「後々に批准する意思がある」というだけだが、「批准」はその国際法について締約国が自発的にその義務を負うことに賛同するということになる。国際法の内容を法的制度に組み込んでいる国もあれば、その解釈が国会などに一任されているところもある。(米国は1978年人権規約に署名したが批准はしていない)国際慣習法は批准などの手続きを経なくても、長期間繰り返し使われてきたことで「全ての人々に適用する」という認識に至った一定の人権、法を指す。大量虐殺、拷問、人種差別の禁止や戦犯などがこれに当たる。世界人権宣言も多くの人々によって「慣習法として成立した」と解釈されている。
3.自由権と社会権
自由権とは、拷問を受けない権利、理由もなく投獄されない権利、デモをする権利、投票をする権利などを示すが、これは人権の半分でしかない。一方、社会権の中には、働く権利、組合結成の権利、居住の権利、教育の権利などを含む。国際法においては、自由権と社会権は不可分であり、どちらも等しく大事である。
ところが、自由権の方が実現しやすいという理由から、社会権を甘く見る傾向がある。社会権は自由権より大切ではないという誤った認識から、人権における社会権侵害が広がっている。人権には、政府に対して「何々をするな」という形のネガティブな義務と「何々をしなければならない」というポジティブな義務があり、また、すぐにすべきことと漸進的にすべきことという区別もある。自由権は「政府が何もしない」ことで成り立つが、社会権は、病院や学校を建てるなど「政府が何かをする」ことで成り立つとみられがちである。また、自由権はすぐにできることだが、社会権は漸進的にやっていけばよいことという誤った認識がある。また、自由権は人々がやりたいようにすればよい、社会権は政府がかかわらないと成立しない。自由権は費用がかからず、社会権は集中的に資源を使わないと達成できない。自由権は実行可能な人権であるが、社会権は政策の目的やテーマであって実際には人権とはいえないという誤った認識がある。
しかし、自由権の達成でもポジティブな義務が必要な面がある。例えば、選挙権や裁判を受ける権利などだ。一方、社会権でも「居住の権利」の確保はポジティブな政府行動を必要としない面がある。例えば、人々を強制立ち退きさせないと単にきめてしまえば達成できることもあるからだ。自由権と社会権は相互にかかわる。「居住の権利」も単に住居を手に入れるというだけでなく、差別されていないか、追い出される不安がないかなど総合的に考える必要があるわけである。
今、世界中でホームレスの問題が深刻になっており、1000万人以上いると言われている。不適切な住居に住む人は10億人、それだけでなく、安全な飲み水や衛生設備のない人も30、40億人おり、居住の問題は年々悪化している。「居住の権利」の実現も地球規模でみないといけない。冷戦終結後の経済的、政治的なグローバリゼーションと居住にかかわる人権の問題は決して別個の問題ではない。グローバリゼーションという世界的な現象は、公共セクターをして「居住の権利」を実現させることに少しも貢献していないのである。アフリカやラテン・アメリカ、アジア、アメリカでは都市人口の40%から50%がスラムに住んでいる。1999年、豊かな国の平均労働者の所得は貧しい国の地域の労働者の75倍にもなっている。米国では、1980年では大会社の重役の給与はもっとも低い労働者の50倍だったのが、最近の研究ではそれが419倍に達している。こうした形の経済発展が「居住の権利」に対してどのような影響を及ぼしているのかを考える必要がある。
4.「居住の権利」とは何か?
それはいろんな要素を持っており、難しい。一つのポイントは、社会権規約の締約国の義務として「全ての適切な措置を行うこと」「資源をそのために有効に使う」ということに合意していることである。2点目は、社会権規約締約国の市民はそれを充足するよう政府に要求することができるということである。もし、それを充足できないとすれば、なぜできないかを証明する義務が政府に生じるということである。締約国は、適切な法律を制定するなどでシステムとして「居住の権利」を充足することが義務づけられている。
ただ、締約国は、すべての人々に住居を提供する▽住居を無料で提供する▽すべての項目についてすぐにやる▽市場経済、あるいは政府が単独で実現するということを求められているわけではない。市場と政府がお互いにかかわりあいながら実現を目指すということである。
国連は「居住の権利」について7つの基準を示している(社会権規約委員会が1991年にまとめた一般的意見4による)。
一つ目は法的占有権(LegalSecurityofTenure)の保障である。つまり法的に住むことが守られる、立ち退きなどを強制されない権利である。賃貸住宅だろうが共同住宅だろうが金持ちだろうが勝手にその家からたたき出されない。家賃を正当な理由もないのに滞納しているとか、危険なことをするなどの場合を除いて違法に追い出された場合、戻る権利がある。例えば、コソボでは軍によって追い出されたが、もとに戻る権利がある。被災地の神戸でも元住んでいた場所に戻ることが制限されていることは占有権の侵害である。そして、占有権の保障は政府にはお金がかからない、一枚の紙があれば実現可能な政策である。
二つ目は、飲み水や調理のためのエネルギーなどの設備が整えられ、居住することが適切な住まいであること。
三つ目は支払い可能な(affordable)住居費であること。住居費が高すぎてほかのことができないのはおかしい。合理的な住居費の水準を政府が定めるべきである。
四つ目は気候、災害、犯罪などの危険が及ばないという意味で居住が可能であること。
五つ目はすべての人々が入居することができるということ。例えば、入居が不利になりがちな高齢者や障害者に対しては、政府が政策や法によって適切な優先順位を与えなければならない。
六つ目は、住居がどこに建っているかという問題である。仕事場にいけるのか、学校や病院、市場などが近くにあるのかなどである。スーダン政府は都心から50キロも離れたところに住宅を建てて人々を移住させようとした。
七つ目はその国の文化が住居に取り入れられていることである。
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